あとひとつ、砕けた心の欠片


※捏造あります


「よー!夕!派手にやったじゃん」
「冴子姐さん…」
「どしたどした、男前が台無しだぞー…って、まあ、そりゃ落ち込みもするか」

底抜けに明るく声を掛けてきたのは冴子姐さんだった。さっきのやりとりは全部聞かれてたんだろうな。そう思うと、情けなかった。
ぴしゃり、と閉じられた扉。龍に殴られた頬は今更じんじんと痛んできた。でも、なにより痛いのは心臓。その奥。俺、くそダセエ。

いつもなら頬のひとつやふたつ、叩けば切り替えが出来た。そうやって、切り替えられる心にしてきた。でも、今回は無理だと思ってしまった。心から怒っている龍の目。後悔を通り越してこの世の終わりのような顔をする名前。
何もかもが、俺のせいだ。今更あいつらに、名前に、なんて声を掛けていいか分からなくなった。

ギリ、と握った手のひら。爪が食い込んで痛かった。でも、名前と龍の心は多分もっと痛かったはずだ。そう思っていたら、ぽん、と急にヘルメットを押し付けられた。なんで。
そう思って冴子姐さんを見ると、にや、と笑った。

「夕さぁ…ちょっと時間ある?」






「ねえさーん!どこいくんすかあああ!?」
「あー?なんだって??聞こえないよ!」

風を切る音でさっきからロクな会話が出来ない。耳いっぱいに木霊するエンジンと風を切る音。お互い好き放題叫んでいるのがもうしばらく続いている。
あれよあれよという間に姐さんのバイクに乗せられて、俺は高台の公園に来ていた。

「姐さんどこいくんすか…」
「まあまあ、見てなって!ほら!きれいだろ!」

そう言って、姐さんが連れてきたのは展望台のあるちょっとした公園。少し離れたそこは、烏野の町が見渡せる場所だった。
ここは姐さんのお気に入りスポットらしい。受験で嫌気が差したときや喧嘩したときはここによく来ていたと笑った。

「…アタシもさぁ、一時期東京の大学受けようかって思ったことがあってさ。別にここは嫌いじゃなかったけど、なんとなく、一回誰もアタシを知らない場所に行ってみたかったんだよね」

ぽつり、とこぼした姐さんは思い出すように静かに語り始めた。

「ホラ、アタシこんなナリじゃん?なんつーか、イメージだけが先行して、仲の良い女友達って出来なかったんだよねー。むしろ男の友達の方が多くてさぁ」

まあ、楽しいけどねと笑いながら姐さんは笑う。姐さんは年齢も性別も関係なくストレートに接する。表裏のないそれは、一緒にいて楽しい。多分、姐さんもそう思っていたんだろう。

「でも、そんなイメージが固まって。ちょっとそんな自分が嫌で、変えたくてさ。宮城から出ようかと思った」

だから、そんなことを言う姐さんに少し驚いた。この底抜けに明るい人でも、そんなことを思うんだと。悩みなんて感じさせないようなこの人が。

「でも止めた。ここが好きだから、なーんて理由がありゃ良かったんだけど。ホントは直前で怖くなったんだよ、アタシは」

そう言って姐さんは笑った。いつも快活なこの人にしては大人しい笑顔だ。

「家族も、それまでいた友達も、全部捨てて出ていくのが怖くなって、結局こっちの大学に進んだ。アタシはそれで後悔してないけど…でもさ、持ってるものを全部捨てるって、相当なモンだよ、夕」

その言葉に詰まった。
持ってるものを全部捨てる。口では簡単に言うけど、そんな簡単じゃないことはわかってる。

「あんたには今、友達も先輩も、後輩も家族も皆いるけど。自分のために、それを全部捨てて行ける?自分がどうなるか分からない場所に、今まで築いた全てを捨てて、自分だけを信じて進める?」

だからわかんないんだ。なんで名前は、俺たちから離れるのか。ずっとやってきたじゃねえか。これからも、楽しくやって行きたい。なのに。さっき喉まで出かかった言葉が頭ん中をぐるぐる回る。

なんで、俺たちを捨てていくんだよ。大地さんも、月島も、俺たちも。お前にとってはどうでもいい存在なのかよ。龍も。なんで名前のこと止めねえんだよ。お前だって、名前とずっとバレーしてたいっつってただろ。

「名前が選ぼうとしてる道ってのはそういう道だよ。誰にも理解されないかもしれないし、もしかしたらずっと孤独かもしれない。援護してくれる仲間も、側にはいないかも。そんなこと分かってて、名前は自分でその道を選んで進もうとしてる」

だからなんでわざわざ行くんだよ。いいじゃねえか、ここで、烏野で。そう思ったら龍の言葉を思い出した。いつか別れる。わかってる、そんなことは。でも、俺は。

「凄い茨の道だと思う。アタシはスポーツのことは良くわかんないけど、アンタならわかるっしょ。その世界がどんだけ厳しいか」

茨の道。名前の未来を考えたらいいのかもしれない。選ぶべき、道なのかもしれない。
でも、俺はまだ名前とバレーがしたい。足りない。全然足りないんだ。まだ、たぶん、名前の本気も見てない。一緒にプレーする楽しさも、まだ全然俺らは分かち合えてないのに。なんで。

「まあ!色々説教くさくなったけどさ!人として外れる道なら殴ってでも止めな!それ以外でダチが進みたいって行ったら、多少の言葉は呑み込んで、送り出してやんな!意外と、暗い道を進むときに頼りになんのは、ダチからの一言だったりすんだから」

姐さんは笑いながら言う。簡単に言ってくれる、と思った。俺はまだ名前が東京に行くことに納得いかない。呑み込むこともできない。思いを圧し殺すこともできない。聞けばいいのに、怖くてそれができない。聞いてはいけない。なんとなく、そう思った。本能かもしれない。

前は言葉がなくても分かっていた名前の心が、今はなにも分からなくなった。





「バレーがしたいの。だから東京に戻る」
「わざわざ東京に?新山だってあるだろ、あそこだって全国常連だ」

会場の奥から聞こえてきた声は聞きなれたもので。つい、その背中に声を掛けるのを止めた。あの時と同じ事を言う名前。相手を見ると自然と顔が歪んだ。なにウチの名前にちょっかいかけてんだよこいつ。

名前が話しているのは伊達工のブロッカーだ。負けたのにちょっかいかけるたぁいい度胸じゃねえか。そう思っていたのに、名前から出てきた言葉に、思わず足が止まった。

「うん、でもね。戻らないと、意味がないの」

なんで名前が東京に戻るのか。俺が聞きたくなかったそれを、さっき会ったばかりの奴が知っていく。得体のしれないなにかがこみ上がってきて、胸糞悪い。

その場を去ろうとすると、伊達工ブロッカーと目があった。にやり、と挑発するような笑み。カチン、と頭に来た。話を中断させることなんて簡単だ。いつもみたいに名前、と声をかけりゃいい。このままこの場を離れたって。なのに、俺の喉も、足も固められたように動かなかった。

簡単だ。俺は知りたい。なんで名前がその答えを出したのか。
この間は、それを聞く前に、耳を塞いでしまったから。聞かないと分かりませんよ、という月島の言葉に、俺は後悔したから。だから、俺はなんで名前がその答えを出したのか、知らなきゃならねえ。もう、後悔はしたくねえ。

「私は、東京から逃げてけどここにいる皆に前を向かせて貰ったの。だから、自分勝手かもしれないけど、プレーで返したい。きちんと前の自分とチームに向き合って、胸を張ってコートに戻って、全力でプレーがしたい。だから、東京に戻るよ」
「ふうん…それってリベロくんたちには言ってあんの?」
「…少しだけ。嫌だって、言われちゃった。でも、我儘って、裏切りだって思われてもいい。私は戻るって決めたの。私は私のコートで戦ってくるよ」

ずくり、と心が揺れた。
ああ、そうか。俺は、俺だけが。あの頃の名前に囚われていたのか。バレーがしたくて堪らないのに、わざと自分から離れていく弱くて、愚かな名前に。

名前に頼られたかった。西谷がいないと嫌だと言って欲しかった。そうしてずっと名前からの無条件の信頼が欲しかった。名前にはきっと俺がいないとだめだと勝手にそう思っていた。
でも、いつの間にか逆転していた。名前がいないと嫌なのは、俺だった。自分の身勝手さと、女々しさに愕然とした。

俺が思ってるほど、名前はもう弱くない。なにかを選ぶことも、そのために捨てることも、もう出来る。


我儘なのは名前じゃない。俺だ。


「待ってるって言ってくれる人も、お前のバレーが好きだって言ってくれる人もいる。私は、コートの外で見てるだけじゃもう我慢できない。戦う場所が違うとしても、みんなとは肩を並べていたい。それにね」

俺は、忘れていた。名前に会う前。初めて会って間もないころ。俺は。名前の。

「胸張って言いたいの。ちゃんとバレーが好きで、選んでここに居るよって。だって、私、バレーのこと愛しちゃってるから」

名前が、優しく笑った気配がした。





烏養監督に前に引っ張り出された名前が、緊張した顔で俺たちを見渡した。顔を見て分かった。名前はまた悩んでいる。

正直、まだ気持ちに整理がつかない。けど、ここで名前にすがりつくのは絶対にやっちゃならねえ。
本当なら名前が真っ先に伝えてきたその意味を分かるべきだったんだ。あれは、名前が勇気を振り絞って伝えてきた、信頼だった。名前の心だった。
でも、つまらない俺の我儘で。俺が名前の心を砕いてしまったから。だから、砕けた心を拾って最後の一欠片を俺が拾うんだ。

大丈夫だ、という俺の思いは全部視線に乗せた。名前が自分の思いを言葉にしていく。良かった。ちゃんと、俺の思いは届いたみたいだ。最後、名前が俺の前に立った。色々言いてえことはあるけど、俺が今、一番名前に伝えたいことを、伝えよう。

「俺は!バレーしてる名前が一番好きだ!」

なんで忘れていたんだろうか。俺が一番好きだったのは、全身でバレーへの愛を叫ぶ名前だった。前だけを見ていたあの頃の名前が。

「だから!行ってこい!!」

ただ、その言葉に全部詰め込んだ。悔しさももどかしさも全部詰め込んで。俺は名前を送り出すって決めたんだ。

抱き合った体温は俺より少し低い。大丈夫だ、名前なら。

バレーを好きだって、胸を張って言える、お前なら。きっと、大丈夫。

その思いを込めて、俺はその体を抱き締め返した。



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