未来とは、今である
鼻をすする音と、食べる音だけがお店の空気を占めていた。誰も何も言わず、繋兄の言うとおり体を回復させるために目の前の皿にしていく。
空腹は全ての敵だ。思考も迷い混みがちになるし、気分も落ち込みやすい。そういえば、烏養監督も同じようなことを言っていた。とにかく食え。後悔も反省もそのあとだ。
青城に負けて、烏野のインターハイは終わった。未だに脳裏に焼き付く最後のブロック、負けたという事実。認めたくないそれに最初は戸惑っていた皆だった。でも食べ終わって店を出る頃には、もうすっきりした顔をしていた。
それでも。大地さんたちが残るのか、それとも引退するのか。誰も言い出さないけど、それだけはみんな気になって仕方ない様子だった。
体育館でミーティングするぞ、と言う繋兄の言葉に場所を移す。インターハイが終わった。けど、いつまでも落ち込んではいられない。夏が終わる頃にはもう春高の予選が始まる。もし、大地さんたちが残らないのなら、新しいチームを作らないといけない。時間は誰に対しても平等で、待ってなんてくれないのだ。
「……名前」
ミーティングが終わる頃、最後に、と名前を呼ばれた。
「……うん」
「お前、言うことあんだろ。ほら、こっち来い。いつまでも逃げてねーでちゃんと伝えろ」
繋兄のその言葉に、皆の前に出た。繋兄と武ちゃんにはもう私の意思は伝えていた。皆の目が私に向く。わかっていたけど、少し緊張する。
最初の一言が出なくて、唇から乾いた空気が漏れた。なんて伝えたら間違いなく伝わるだろうか、と思っていたら、ばちり、と西谷と目があった。
きちんと目が合ったのは、あの時以来。私は西谷をまた傷つけることになるんだろうか。そう思っていた私の予想は大きく外れた。
だって。
西谷が、優しく微笑んだから。
いつものような、にか、という太陽みたいな笑顔じゃなくて、終わりを労う夕暮れのような柔らかい笑み。いつもとは違う、けど、大丈夫だと言わんばかりの優しい顔に、思わず肩の力が抜けた。あんなに喉の奥に支えていた言葉が、流れるように出てきた。
「あ、の…私…。いままで、たくさん迷惑掛けてきました。いっぱい泣いたし、いつまでも前に進めなくて、イライラさせたりもしました」
前に進む。ただそれだけなのに、私には何よりそれが難しくて、いつまでもその場から逃げることばかり考えてた。色んな人に怒られて、言葉を掛けてもらって。やっと前を向けた。
情けないけど、私だけではきっとどうにもならなかった。逃げることを止められたのは、皆のおかけだ。
「今日の試合を見て、私も決めました。もう逃げない。我慢もしない。ちゃんと自分で選ぶ」
すう、と息を吸った。誰かの息を呑む声が聞こえる。
「私、東京の高校にもどります」
皆を見ると驚いたけれどどこか納得した顔をしていた。本当は、卒業まで皆のそばで見ていたかった。でも、私、もう我慢できない。
「勝手でごめんなさい。でも、やっぱり私、皆みたいに戦いたい。試合で勝って、負けて、成長して。みんなの横に立つのに、恥ずかしくない私でいたい。逃げてばかりじゃなくて、ちゃんと向き合って。チームで、戦いたい。バレーがしたい」
言いたいことを雪崩のように伝えた。そこまで言って、はあ、と息を整える。走馬灯のように、色んな人の言葉と表情が頭を流れる。
進め、私。
「だから、東京で。私の舞台で、戦ってきます」
ちゃんと、笑えて言えたと思う。私が決めたこと。その未来。自分で選んだ道。
もう、迷わないって。今度こそ決めた。心も、体も。今なら誰よりも軽い気がする。どこへだって飛べる気がする。どこへだって行ける気がする。
遠い外国の地へも。都会も、田舎も。どこへだって。背中は、皆が押してくれたから。
「名前ちゃん…!」
「決めました、潔子さん…!もう1回、もう1度、あの場所に行ってきます。今まで沢山相談ものってもらって、ありがとうございました!」
ぎゅ、と潔子さん抱きしめられた。私より身長も低くて、細い体なのに、内側には静かに情熱を貯えていて。私はこの先輩から沢山のことを学べたんだと思う。
私がコートに立てるのは、私だけの力じゃなくて。誰かの支えがあるから立てるのだと。それを教えてくれたのはこの人だった。
「はあ…ようやく決めたワケ?遅いんじゃない?」
「ツッキー、はっきり言うなあ…名前ちゃんが頑張ってるの知ってるから、俺はどんな名前ちゃんも応援するよ」
「…名前が。悩んで、決めたことなら僕は何も言わない。でも、これだけは言わせて。僕らがいること、それだけは忘れないで」
付き合いの長い2人は、私を見守っててくれた。言いたいこともあったと思う。それでも、辛いときは側に居てくれて、そっと背中を支えてくれた。もう忘れないよ。離れていても、大丈夫だから。
ぽん、と頭に置かれた蛍ちゃんと肩に置かれた忠の手には安心と期待が詰まっている、そんな気がした。
「俺っ!まだ名前さんに全部教わってないです。まだ!レシーブもスパイクも全然敵わないけど!でも俺!名前さんが楽しくしてる方が一番いいです!」
「苗字先輩。俺、ずっと先輩のことライバルだと思ってます。だから、次会うときは俺ももっと強くなってるんで、楽しみにしててください!」
「「あざっした!!!」」
いつだって眩しい2人に、私がどれだけ憧れたか、きっと彼らは分からないと思う。君らを見る度に、私の中のバレーへの熱はどんどん高くなっていったんだよ。
お互いに信じ切ることが、どれだけ大切で、どれだけ難しいか。私は君たちに教えて貰った。
「やだなあ…泣いちゃうじゃん」
泣かない。最後まで笑って終わらせる。そう決めたのに、涙が出そうだった。それでも、堪えたのは私の最後の意地だ。
「苗字さぁん!!!」
「苗字ちゃんんんん!!!」
「おまっ、苗字!おまえってやつは!」
がばり、と3年の先輩たちが駆け寄って私を囲んだ。辛いときも、苦しいときも支えてくれた。ここにいることを許してくれた。何度も先輩たちに立たせてもらった。だから、最大級の感謝を伝えたい。
「先輩たち…いつも泣いてばっかりですいません。ここに入れてくれて、ありがとうございました。私、ここに入らなかったら、バレーはやめてました。だから、私を戻してくれて、ありがとうございます」
そう言うと、なぜか先輩たちの方が少し涙ぐんでいて。旭さんはぼろぼろ泣いていた。伊達工の時のカッコよさはどこかへ飛んで行ってしまったみたいだ。そんな旭さんをバシンと叩く、目尻に涙を浮かべた大地さんとスガさんが泣きすぎ、とからかう。
そんなやり取りを見ていると、縁下に名前を呼ばれた。振り向くと、2年がいた。私も、涙が出そうだったけど、またぐっと堪えた。
「ようやくちゃんと言ったな」
「うん」
縁下。いつも迷惑かけてごめんね。相談のってくれてありがとう。心配もかけてごめん。
「俺たちはいつでもここにいるから」
「うん」
そんなに手握られたら痛いよ、成田。でも、ありがとう。
「辛くなったりしんどくなったりしたときは、連絡しろよ。苗字はもう1人じゃないだろ」
「うん」
いいこと言うじゃん木下。私がもう1人じゃないって、教えてくれたのは皆だから。約束する。
2年ひとりひとりから少しずつ力を貰った。彼らの言葉に私は少しずつ背中を押して貰った。やっぱり同じ学年っていうのは、特別で。
私の不安も焦りも、喜びも嬉しさも、みんなと少しずつ分けあって、いつしか少しずつが多くなって。気づいたら、たくさんの心をみんなと分けあっていた。
そんな、彼らの中でも。田中と西谷は特別だった。
黙ったままだった田中と西谷の方へ進む。なんで涙目なの、田中。これが最後じゃないのに、大げさだよ。
そんな軽口を言いたいのに、そんな言葉は全く出てこない。それでも心はもうぶれることもなくて、2人をまっすぐに見つめる。これが、今の私の心の全部だと、きちんと伝わるように。
「田中、西谷…。私、行ってくる。ダメかもしれない、弱くなったって、チームに見放されるかもしれない。それでも。私、もう逃げないよ。…いってきます」
この、2人が居なかったら。私はとっくにバレーを辞めていた。陳腐な言葉かもしれないけど、思えば、あの時に会ったのは運命だった。
バレーに関する全部を捨ててきた。そのつもりだった。でもたったひとつ、これは、バレーの神様が最後に渡してくれたチャンス。それがこの2人との出会いだとしたら。私は最初から神様の手のひらの上だったのかもしれない。
「っおう、しっかりやってこい!俺は、烏野で、お前は東京で、次会うときは全国だからな!」
バシン、と背中を叩かれる。じんじん熱を持っていくその痛み。田中の思いも約束も、全部持っていこう。大袈裟な別れも、言葉もいらない。ただ、背中を押してくれてありがとう、とその意味を込めてバチン、と手を叩きあった。
「…名前」
聞こえてきた声。私より低い背。それなのにその背中は広くて。
その背中に何度も助けられた。何度も救われた。拾い上げて、掬い上げて。リベロらしく、落ちそうになる私を拾ってくれた。
感謝ばかりが募って、私は多分大事なものが見えてなかったんだと思う。でも、それだけしか見ないのは止める。
西谷が私の前に立つ。初めて会ったときもそうだった。
あの時も、西谷はこうして真っ直ぐな目で私を見ていた。
「…名前。この間は悪かった」
「…うん」
西谷も私も、お互いをまっすぐに見つめていて。あんなに居心地の悪かった西谷の視線は、今はなにも気にならない。前の私なら目を逸らしていた。
でも、今は、目を逸らせない。西谷のまっすぐな気持ちを私が受け止めなくて、どうするの。
「一瞬でも、行ってほしくないって思っちまった…!もっと名前と一緒にバレーがしてえ!俺と練習してほしい…!もっと、一緒に上手くなりたい…!」
西谷が悔しそうに顔を歪めた。多分、西谷は皆みたいに綺麗に割りきれてる訳じゃないんだと思う。田中が言ってた通りだ。それでも、と続けられるのは、西谷が強いからだ。西谷が真っ直ぐだから。真っ直ぐに向き合うから。
「俺じゃだめなんだ。俺じゃ、名前と一緒のコートには立てねえ!どんなに上手くても!どんなに練習しても!」
私も同じコートを立ちたかった。
震えるような緊張感を。ボールに触れる喜びを。そんな試合中に感じられるすべてを、西谷と共に感じたかった。でも、それは出来ないから。
せめて、私は貴方と同じ舞台で戦いたい。同じ高さに肩を並べたい。恥ずかしくない私でいたい。
私の背中を押したのは、その思いだった。
「だから、名前。俺がこの間言ったことは取り消す。男らしくねえかもしれねえけど、でも、やっぱり名前は笑ってる方がいい!」
そこまで言うと、西谷は照れたように表情を崩した。初めて見る、西谷の表情だった。困ったように、少し眉を寄せて。すう、と息を吸った。
「俺は!バレーしてる名前が一番好きだ!」
体育館に響くような大きな声で、そこまで言い切って、西谷は笑った。にかり、と太陽のような笑み。いつもの西谷だった。心が、解れる。ぐらり、と揺らぐ。
私が、一番欲しかった言葉を西谷は言おうとしている。だめだ、抑えきれない。
「だから!行ってこい!!」
そう言って笑った西谷に、思わず抱きついた。
西谷がいたから、まっすぐに私を信じてくれたから。だから、私はここに戻ってこれたんだよ。
私ももっと一緒に居たかった。きっと色々なものを飲み込んで、西谷は言ってくれたんだと思う。だから、私も、弱い私を飲み込んで行くね。
いままで、ありがとう。
いってくるね。
わたしのかみさま。