どうぞ続けて、その先まで


「あれ、岩泉さん」
「おう、名前か。……おい、どこ行くつもりだ」

走りに行く、なんざ言わねえだろうな。ジロ、と胡乱な視線を向けられて思わず一歩後ずさりそうになる。実際に後ずさった。フリースペースだから誰がいてもおかしくはないけど、この時間だし誰かがいると思わなかったから正直驚いた。

選手村入り前、最終調整として男女ともに同じ場所で直前合宿をしているせいか、こうして男子代表のトレーナーとして帯同している岩泉さんに会う頻度はそれなりに多い。というか毎日会っている。

選手の体の状態を把握してくれるトレーナーに私の師匠である岩泉さんがいるのは心強い。けど、昔の練習中毒だった頃の私を知っているせいか些か分が悪かった。
前科があるから無茶をするんじゃないかと警戒されるのはしょうがないかもしれないけど、今回ばかりは濡れ衣だ。流石に高校生じゃないんですけど、岩泉さん。

「流石にもうそこまでの無茶しませんよ。ちょっと、気分転換したくて」

入村前にセンチメンタルな気分になったと言えば聞こえはいいけど、実際のところはそうじゃない。明日には選手村にいるのかと思うと何となく気分が落ち着かないだけだ。
そういえば岩泉さんは分かる、と言って歓声の上がるスマホの画面を黒く塗りつぶした。

「岩泉さんは最後の準備ですか?……相手が相手ですもんね」
「そんなんじゃねーよ。あいつ全力でぶん殴るのに今更準備なんかいるかよ」

パシン、と掌に拳をぶつけた岩泉さんに思わず笑みを返す。こんなことを言っているけど、さっきまで岩泉さんが見ていたのはアルゼンチンとチリの親善試合だ。画面を見つめる真剣な眼差しも、綻ぶ口元も。誰に向けられているかなんて分かりきっている。
今更準備はいらない。だってあの日から私たちはずっと準備をしているから。

「でも、油断はしてないですよね」
「……まあ、どんな相手だって油断なんかしねえよ」

名前だってそうだろうが。そう言われてすぐに頷く。日本では無名。春高も県大会止まり。でも、私たちにとって及川徹という存在は果てしなく大きく、どこまでもバレーに対してひたむき。いっそ取り憑かれているといっても過言ではなかった。

私の知っている及川さんはそういう人だ。決して油断なんてさせてくれない。当たり前だ。
背負う国旗を変えてまで勝利を渇望し、執着した人をどうして軽んじられようか。

突き詰めれば突き詰めるほど、世界に触れれば触れるほど、国籍という自身のアイデンティティは明確になるし、愛着が沸いてくる。
祖国を変えるという選択肢は、前例がない訳じゃない。むしろスポーツの世界であれば、多いと思う。でも、誰にだってできる決断じゃない。茨の道だと思う。

それでも、あの人はその道を選んだ。バレーで全員ぶっ倒す。それだけを見据えて。
私の師匠はやっぱりすごいな、と思ったら口元が緩んでいくのが分かった。

「及川さんのことだから、きっとたくさんサービスエース狙ってくるんでしょうね」
「させねえよ、全部止める」
「岩泉さん出ないのに?」
「夜久がいるだろ」
「守りの音駒ですからね」
「インハイ見たけどよ、あれはキツい」
「青城とは相性悪そうですよね。及川さんと黒尾さんは性格的に相性良さそうですけど」
「あー、チャラチャラするタイミングはたしかに似てんな」

嫌そうに岩泉さんが顔を歪めた。夜久さんと仲がいいのも頷ける。夜久さんはリベロだからキャプテンにはなれないけど、精神的にはキャプテンだよね、と思う。
ただでさえまとまりのない妖怪世代だ。正直、誰がやっても違和感しかない。けど、それでも、ふと思い浮かぶのはあの1番を背負った背中だった。皆の信頼を受けて、信頼で返そうとする実直な、爽やかな夏を彷彿とさせる色を纏った、あの。

「きっと、」

あの人なら。そう言いそうになって、口を閉じる。この人の前で、あの勝利への執着を、渇望を、献身を、私が否定するわけにはいかない。
あのひとの、及川さんの道にきっと後悔はないだろうから。

「……アイツが俺らを全力で倒すっつーなら、俺らも全力で倒すだけだ」
「、そうですね」
「影山も牛島もいる。負けねえよ」
「ふふ、楽しみにしてます」
「何言ってんだ。名前、お前もだぞ」

岩泉さんの言葉に、思わず目を見開いた。さっきまで画面を見ていた真っ直ぐな瞳が私を打ち抜く。ぴたりと呼吸が止まった気がした。

「コートは違っても、同じ日本代表にはかわんねえよ。日本全部で、クソ川ぶっ倒してメダル取りに行くぞ」

アイツも、その気でくるぞ。そう言って、岩泉さんは拳を掲げた。
男女で分かれたとしても、ボールを交えることが無くても、共に及川さんを倒す仲間だと、倒すべき相手だと。そう思ってくれたことがこんなにも嬉しい。こんなの、どうかしている。

少しだけ指先が震えた。これは歓びだ。あの人にとっても、私はちゃんと倒すべき相手なのだとしたら。それは私にとっては耐えがたい歓びだと言える。鋭いサーブも、迷いないセットも、もう何も怖くない気がした。

だって、あの人よりも恐ろしくて、倒したいと思う人を私は知らない。

「―――、はい。岩泉さん」

笑って、こつんと拳をぶつける。自然と雑然としていた気持ちが収まり始めた。もしかしたら私の少しばかりの不安はお見通しだったのかもしれない。
昔から、本当にこの人たちにはお世話になってばかりだ。そう思うと、どうしてかくすぐったい気持ちになった。湧き上がって来るのはほんの少しの気恥ずかしさと、それから高揚感。明日に登る朝日は、どんな色をしているだろうか。

試合まであとわずか。いよいよ、あの夏の続きがやって来る。





「選手入場で浮かれやがったらぜってー殴る」
「流石にないんじゃないですか……?」

私たちもう大人ですよ。そう言えば岩泉さんがなんとも言えない顔をした。きっと大人っていう及川さんが想像できないんだろうな。

まあまあ、と宥めた私の努力を無に帰すように、おそらく世界で一番騒がしく入場した一団に混じるその背中を見て顔を覆うことになるとは、この時の私は思ってもいなかった。



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