会議アジェンダに見たことない項目がある

「行きましょう!轟さん!」
「ああ」

氷壁が暗い空に向かってそびえ立った。漂う冷気が一瞬にして辺りに流れる空気を変えた気がした。それまで感じていたどうしようもない焦りも、体が冷えると同時にどこかへ消えていく。

作戦通りに飯田と緑谷、切島が氷壁を登っていくのが見えた。敵からの邪魔が入りゃまずいと思って、いつでもカバーできるように敵連合の様子を崩れた壁の隙間から伺う。
囲まれた敵の中、しんどそうにしながらも敵連合に応戦している苗字を見て、ようやく息が出来た気がした。

――ああ、苗字だ。ちゃんと、苗字がいる。

零した息は震えていた。自分の体から、心臓を動かしていた筋肉から、どっと力が抜けるのがわかった。

森の中で、最後に見た苗字は暗い中でもはっきりわかるくらい血の気が引いて真っ白で、力の入っていない手足は人形みてえだった。ぴくりとも動かない、声ひとつもあげないその姿を見て、背筋が寒くなった。
もう、2度と苗字は動かないんじゃないか。
そんな考えたくもない想像が頭ん中をぐるぐる回る。一つひとつに否定を繰り返してくうちに、いつしか俺の息も止まったような気がした。

けど今、俺の氷壁の前にいる苗字は個性を使えるまでに回復していた。満身創痍で、ぼろぼろだけどそれでもあの時よりは全然マシだった。
まだ安心できる状況なんかじゃない。油断も出来ない。それなのに、その姿を見て心臓の奥がじんわりとあったかくなるような気がした。

よかった。本当に。

切島が爆豪を呼んで、苗字が爆豪と一緒に飛び上がっていった。敵連合の隙をついてこの場を離脱できたあいつらを確認して、八百万とその場を離れる。俺たちが捕まってちゃ意味がないし、目的を達成したならここにいる理由はねえ。
オールマイトたちがいる場所を背にしながらただ全力で走った。邪魔な変装道具を適当に道端に放りながら空を見上げる。あいつらの影はどこにも見えなくて、それが逆に安心した。

よかった。苗字が、生きてる。助けられた。今度は、俺が。ちゃんと。

その事実に、腹の底からよくわからねえ熱がこみ上げてくる。
炎みてえにゆらゆら揺れて、薪をくべれば激しく燃え上がるような、そんな熱。何かはわからねえ。でも、俺には覚えがある。
教室で、授業で。苗字の顔を見たとき、その声を聞いたとき、その体に触れたとき。そのときだけ、俺の中の左じゃない、体のもっと奥からその熱はこみ上げてくる。
炎熱よりやわらかくて、でも触れたら燃え尽きちまいそうな温度。
その時と同じだ。苦しくて、痛くて、それなのにずっと感じていたくなる。

手放したくない。そばに置きたい。近くで、その熱を感じていたい。

『轟』

怒ったときの声。演習でいい成績を出せたときの声。呆れたときの声。記憶の中の声が、波を打つように静かに響く。

『ここからがスタートラインだね』
『だから、そんなに焦らなくていいんじゃない?』

俺がどれだけその言葉に救われたか、苗字は知らねえだろうな。体育祭が終わってアイツが2位の結果に不満をぶつけて来た時も、お母さんに会いに行ったときも。
苗字がそう言ってくれたから、前ほど苛烈に憎悪にも近い感情を抱かなくなった。お母さんにちゃんと自分の気持ちを話せた。お前のおかげなんだ。ずっと言えてなかったけど、ようやく伝えられる。

そう思ってるうちに周りには人が多くなって、ヒーローが避難誘導する人の流れに乗った。ここまでくれば、もう大丈夫だろう。少しだけ走るスピードを落とした瞬間、スマホが震えた。画面には緑谷の名前が出ている。向こうも電話を掛けられるくらいには落ち着いたらしい。苗字は、爆豪は大丈夫だろうか。

そう思いながら画面をタップする。早く、早く苗字の声が聞きたかった。どんな声だろうか。怒ってんのか、呆れてんのか。どっちだっていい。お前の声が聞けるなら。俺は、なんだっていい。ああ、でも。もしなんか言えんなら。

おかえりって、言ってやりてえな。





「はッ、はぁっ……!くそ……!」

息が苦しい。喉が焼け付くようにひりひりとした痛みを与えてくる。ちゃんと息を出来ているのか分からない。それでも、足はただ交互に前へ進んでいる。
なんてことはない、ただ走るだけの動作だ。呼吸にも近い動きなのに、今はその一歩が恐ろしいほど重く感じる。足枷をはめられているかのような煩わしさに苛立ちが押し寄せて来る。
早く、急げと何かに追いかけられる一方で、一歩一歩を進めるたびに声が聞こえていた。耳のもっと奥の方で、冷ややかに掛けられる声だ。

せっかく助けに来たのに。
裏切るのか。
どうして。
信じていたのに。

足に纏わりつくその音は、さっき振り払った手に乗っていたものだ。
助けるという緑谷たちの覚悟。戻ってくるはずという相澤先生の期待。重くて、純粋で、うつくしい信頼だ。
本当なら、その手を掴んで離さないでおくべきだった。そうでなければ、私はその信頼を裏切ることになる。

裏切りは悪だ。唾棄すべき行為だ。
個人間の信頼関係は時に金に換えられない価値がある。営業という仕事はまさにその極みで、手を取り合う決定打はメリットや利益を超えた先にある相互の信頼だ。

君だから。御社だから。そんな評価を貰う度に充足と高揚が胃を満たしていた。
期待に応えたい、裏切りたくない、一緒に喜びを分かち合いたい。その満足感が欲しくて、期待に応えた達成感が欲しくて、そうして寄せられる信頼を誇りに思っていたから。私は厳しいあの世界で苦しみ、泣きながら足掻いていたのだ。
ずっとそんな世界にいた。わからない訳がない。

それなのに、どうして。私はその信頼を一つ一つ砕いている。

何故。どうして。
そんなもの、こっちが聞きたい。どうして、私はあの手を振りほどいた。

しかも後は任せたなんていう最悪の引継ぎ方法。仕事を放り投げるなんて絶対にしない。考えられない。私なら前任者を呪ってる。
未だに信じられない、という爆豪の表情が瞼の裏から離れない。失望というよりも絶望に近い表情だった。嫌な思いをさせたな、と申し訳なく思う。それでも、足は止まらなかった。

離脱の手段はいろいろあれど、複雑に状況が動く中でおそらく最も成功に近い逃亡方法だった。私と爆豪だけであの状態を維持するの不可能だった。他のヒーローが来る前にスタミナ切れを起こして再び拉致されていたはずだ。奇襲に近い形で行われたから奇跡的に成功した。本当に運が良かったのだ。

だから、あの奇跡はもう2度と起きない。

枷の無くなったオールマイトが本気を出す以上、そこはさっきまでとは違う。生と死が入り乱れる場所じゃない。
今から向かうのは死地だ。戦場という領域すら超えてしまった、死と混沌が入り混じる場所だ。感情と力のぶつけ合い。純粋に力が強い方が相手を服従させる、本能だけの世界。合理性も理性もない、最も忌避すべき場所だ。

足が震える。止まりそうになる。行きたくない。だって、こんな実力もない人間が行ってもただの足手まといにしかならない。自明だ。可能性を考慮するまでもない。プロのヒーローすら簡単に倒せる敵に対して、私が出来ることなんて欠片もない。
帰れ。戻れ。逃げろ。今からでも遅くない。警察に、ヒーローに保護してもらうのが最適解だ。

それでも、足は止まらない。頭に響く声が、足を前へと急かす。

『おねえちゃんって呼んでもいいかな?』
『ごめん、ごめんねおねえちゃん、僕のせいで、いたいよねぇ、ごめんね、ごめんね』

いくら考えても出した結論を、その声が全て打ち消していく。
甘えるような声。涙をしとどに含んだ声。記憶の中の声が、嵐のように頭の中で暴れまわる。

『もうひーろーになりたいなんていわないから』
『ぼくがわるいこだから?だからおうちにかえれないの?』

あの施設にいたトラウマでずっと喋れなかったから、聞くことができかったあの子の声。それなのに、突然あの時と変わらない声で話すから。あの森の中で反応が遅れた。

ねえ、いつの間に喋れるようになったの。だったら、早くおじさんたちにも聞かせてあげよう。ずっと、君の声を待っていたから、きっと喜んでくれるよ。

『おねえちゃん』




瓦礫の海。オールマイトとグラントリノが驚愕の表情でこちらを見ていた。それを無視して、視線を黒い影へと向ける。そして、その横に従うように立っている存在にも。

「やあ……君なら来てくれると思ったよ。――おかえり、苗字くん」

期待も希望も、すべてを黒で塗りつぶす男の声がその場に落ちた。

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