他部署での自分の噂ほど怖いものはない

「失礼します」
「入りなさい。―――報告を」

冷たい声が絨毯に染み込んでいった。
丹念に磨きあげられた革靴の艶めきが照明の光を反射させている。普段から忙しいはずだろうに、男が履いている靴にはくすみどころか塵ひとつとしてなかった。

踵をぴったりとくっつけて、女の目の前に立った男が眼鏡を押し上げる。男の癖であった。長い付き合いになる女はよく知っていた。これは良いことを報告するときの男の癖だということを。女の肩が本人も知らないうちになだらかになった。

「は。2点、失礼します。現状、最悪のシナリオは防げると判断しました。ヒーローに対する並々ならぬ執着を感じます。ゆえにアレが反旗を翻すことは早々ないと判断し、任務を終了しました」
「判断が早いわね……勘かしら」
「勘です」

ほっ、と女はため息をついた。品のいい、体にフィットしたスーツが皺を作った。

男の勘はよく当たった。根拠のないことだが、それでも男の現場感覚を女は信頼していた。長い付き合いでもある女は、男の勘に救われて命の危機を脱したこともある。
実際に、男にはエースと呼ばれるほどの実力があった。しかし、その実力に勘の良さも含まれていることは、男を知るものなら納得するだろう。

「ですが、正体を見抜かれました」

男の一言で女の雰囲気が一変した。軋むような沈黙が部屋に充満する。チリ、と神経を焼くような苛立ちが女の体に爪を立てた。

「―――貴方が?あの子供に?」
「言い訳にもなりませんが……私も徹夜案件が5日続いていたこともあって少し彼女に判断材料を与えてしまいました。申し訳ございません」
「きっかけは?」
「些細な法律条文のミスです。誰にでもありほどの小さなミスですが。どうにも、アレは最初からこちらを信用していなかったように思えます。自信の違和感とこちらのミスから、私をこちらの人間と判断したようです」

女は思わず頭を抱えた。今回の任務を任せたのは、公安の中でもトップクラスの実力者である。それをどうして子供が、女は先ほど抱えた安堵を放り投げたくなった。
だが、起きてしまったことは仕方がない。むしろこれからをどうすべきか。その瞬時の思考の切り替えと出すべき打ち手の最適性が女を組織のトップの座に押しやっていた。なにかしらの答えを出すために、女が思考を巡らせる。

ふと、それまで息を殺してやりとりを見守っていた男が愉悦を含んだ声を出した。小馬鹿にしたような、軽薄な表情と共にさわり、と赤い羽根が揺れた。

「へーえ、おたくの個性でも気づかれちゃったんです?高校生相手に。ちょっと不甲斐ないんじゃないですか?」
「……俺が喋ってんのは長官だ。黙って聞いてろ鳥野郎」
「やめなさい、2人とも。承知したわ。元々、ある程度問題がないならそうしてもいいという話だったし。それにしても厄介ね……。普通に高校生してくれればいいものを」

舌打ちを溢さんばかりの苛立ちを含んだ声だった。女の派手な色の唇が後を追うように形を作った。個性の多様化と共に変革を求められる組織の頂点に立つ人間としての矜持が、想定外を許さない。女の視線の鋭さに2人の男は黙った。

女には恐るべき予感があった。
これまで急速に萎み、バラバラに霧散していた闇が、誘われるようにひとところに集まるような、そんな予感がしていた。そしてそれが、何かをきっかけにうねりを伴いながら津波のように襲い掛かって来るのではないかと。

丹念に仕込んでいた時限式の爆弾があと僅かで0を迎えるような。そんな焦燥感と疑心が、女の胃のどこかに巣を作っていた。

「物分かりの良さと引き際の見定めは、大人と変わらないと認識しました。ここで仕事してる気分でしたよ。誰かさんと違って、とても思慮深い。すぐにでも部下に欲しいくらいです」

ずれた眼鏡を目頭に戻しながら、男が嫌味を放つ。相変わらず視線は赤い羽根の青年に向いている。この2人の仲の悪さはどうにかならないものか。女は呆れながらも水と油を思い出した。合わないものは合わない。

女は思考を正した。労力を掛ける方向を間違えてはならない。女の仕事は、風通しの良い職場を構築することではなく、社会秩序の維持と社会転覆を目論む勢力の排除なのだから。
少しだけ考えて、女は結論を口にした。

「……例の事件の関係者はなるべく自由にはしておきたくないわ。体育祭での不法侵入と保須での傷害の件もある以上、既に敵側に認識はされている。引き続き監視体制は抜からないで頂戴。頼むわよ、『影』」
「承知しました」

女は以前の報告書を思い返していた。
苗字名前。学生という身分ではあるが、実力、判断力、感情に左右されない冷静さは同年代をはるかに凌駕する雄英の異端児。
持ち得る価値観やものの見方は社会人と言ってもおかしくはないものだと今回の『影』の報告から分かる。思春期の子供独特の、理想と現実の乖離にブレる様子もない。

その一方で仄暗い過去も持っていた。その環境が彼女の人格形成に大きな影響を与えたことは言うまでもない。
組織の中には、彼女がこのまま道を進むことを不安視する声が大きい。しかし、女は違った。人にはそれぞれ、使い方がある。この男たちのように。女はそう思っていた。

女は危惧している。苗字名前が、僅かな可能性に傾いてしまうことを。彼女の生い立ちと敵勢力との親和性を考えれば可能性は捨てきれなかった。
ならば早々にこちら側に引き込むべきだろう。接点は作った。あとタイミングだ。女は人知れず決意を新たにして、ビルの隙間に見える空を眺めた。

いつもとは違う夏の気配が、少しずつ忍び寄っていた。


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