またとない好条件求人キタ!!

喉を少しずつ絞められている。錯覚だとわかっているのに、呼吸がしづらかった。苦しい。喉が痛む。
長距離を走ったわけでもないのに、鼓動が、呼吸がその間隔を縮めていた。首の後ろに、良くない何かが張り付いて蠢いているような、嫌な予感がしている。
気付けば体が、微かに震えていた。
廊下の奥からこちらを見詰めてくる視線は激情を孕んでいるわけでも、殺意に満ち溢れている訳でもない。ただ、穏やかに、純真な狂気で満ちていた。

それを理解した途端、体の奥から波のように襲ってきた震えが止まらなくなる。あの、あの目は。私達がずっと晒されてきたものと同じものだ。倫理も道徳も、何もかもを全て投げ捨てて己の欲求に従うだけの人の皮を被った獣と同じ、狂気的な執着そのもの。

胃の奥がぎゅっと重くなる。足が竦む。体が固くなるのが嫌でもわかる。これでは、おそらく個性を使うための演算に致命的なミスが生じかねない。横たわっている沈黙にすら焦る。
一方でドクドクと早過ぎる鼓動で痛む心臓が、辛うじて頭を冷静にしてくれた。震える手を爪が食い込むまで握り込んだ。爪が肉を裂く痛みが、更に頭をクリアにする。

目的を忘れるな。今できる最善策と生存戦略を叩き出せ。頭がようやく働いて、沈黙を打ち破った。

「――はっ、指定敵団体っていうのは、神野事件の顛末も知らないほど地下に引っ込んでるんだ?随分と世間知らずなんだな、勉強になったよ」

声は震えていたが、嘲笑と共に吐き出せば意外と恐怖の色は消えていた。
ごく、と口の中に溜まった唾液を飲み込む。固まった喉の筋肉を無理矢理動かしたせいか、痛みが走った。背筋を、妙に冷たい汗が伝っていく。マスクの奥で治崎が口を開く気配がしたが、表情はわからない。

「時期が悪かっただけさ。俺たちも馬鹿じゃない。連合はお前の拉致という強行手段を取り、すでに失敗している。だから俺はお前を自分本位に連れ去るのではなく、お前の意志でこちら側に来てもらうことにした。スカウトをしたいと思っているんだ――対等な立場で」

その言葉を皮切りに、淡々と計画を述べ始めた。
治崎のスカウトは、正直なところ敵にしておくには勿体無いほどだった。

同じ反社会体制のスカウトでも、死柄木と治崎は真逆を行く。
死柄木はヒーローや現体制に対する不満や憎悪といった感情、そして人質を用いて相手を無理矢理従わせる方法を取る。やり方は生粋の敵だ。どちらかというと武装勢力に近い。USJ、合宿、神野。全てが荒っぽいのはそのせいだろう。

治崎は違う。目標と達成するためのプランを論理的にプレゼンし、相手を納得させた上で仲間に引き込む。
強要はしない。対等に扱う。深追いはしない。足元を見られないよう、交渉カードを常に持っている。話を聞けば聞くほど、かっちりとした理論武装で臨まれていた。まるで、本当にビジネスマンのそれだ。

ビジョンは明確。長期的計画もしっかり立てられている。そしてそれを説明し、納得させ、魅力に感じさせる話術もある。期待する働き、労働対価、将来的なポジション。悔しいが、何もかもが周到に用意されているプレゼンだった。

こんなの、どこを見てもしっかりとしている大企業の取締役から直接スカウトが来るようなものだ。
大抵の人間は魅力に感じるだろう。私だってここが犯罪組織でなく、ホワイトな一般企業であれば前のめりで話を聞いていた……かもしれない!!いや反社など絶対にお断りだが!!この男、真っ当な職についていればそれなりの地位まで駆け上がれただろうに……なんという才能の無駄遣い!

「ここからは、少し個人的な話、俺の持論を話そうか」
「……犯罪者の主張なんて聞いてませんけど?」
「お互いミスマッチを抱えながら仕事するのは哀しいからな。お前は貴重な人材だ。方向性の違いで軋轢を生むのは避けたい――個性は精神病だ。俺はそう思ってる」

すう、と治崎の目が細められる。相手の反応を伺って言葉を選ぶ余裕と自信があった。ステインのときも死柄木のときも思ったが、敵という人間はどうしてこうも自分の理論を聞かせたがるのだろうか。
まあ、ちょうどいい。時間稼ぎには持って来――

「何でもかんでも個性を前提に考える今の社会は、価値観は間違っていると……おかしいとは思わないか?」

ずく。

治崎のその言葉に、心臓が軋む音がした。心臓の一番弱いところを刺されたような痛みが瞬時に体を駆け巡る。否、刺されたのは私がどこかで考えていた、心の奥に押しやった、社会への不満と皆が持つだろう価値観への批判。端的に言えばーー図星だった。

「お前もこの子――エリと同じで突然変異の個性を発現しただろう?この子は親に捨てられここに来た。お前と同じだ。個性を理由に捨てられた可哀想な子供だ」
「的を得ないな。くだらないプレゼンを悠長に聞いている暇はないんだ」

聞いては、いけない気がした。これ以上、この話を聞いてはならない。――違う、聞きたくない。
嫌悪感にも似た何かが湧き上がる。違う。これは、嫌悪だ。聞くに堪えない破綻した理論だ。そうに決まっている。そうでなければならない。
こんな、反社的な、考えは間違っている。そう、思っていなければならない。そうだ、違う、私は、こんな、その跳躍した理論を、理解するわけには――


「個性なんてものがこの世になければ、お前はこんな人生を歩まずに済んだと、思わないか?」


決定的だった。
腹の底で、どろりと何かが蠢く気配がした。ごく、と喉が鳴った。治崎の金色の目が、こちらを見ている。じっと。逸らされることなく。

「個性を持ってしまったからこんな不幸がうまれている。個性なんてなければ、違うことにこんなにも捉われることはなかった。なんでもかんでも個性で優劣が付けられ、目立つ個性を持っただけで、自分は特別な存在なんだと自惚れて、選民思想に憑りつかれている、英雄気取りなる!これが精神病といわずなんという!?」

治崎は怒っていた。先程までの冷静さをどこかへやってしまったように、苛烈に怒っていた。まるでこれが義憤だと言わんばかりに。

個性があるから、新しい差が生まれた。前世では発生しなかった優劣が、確かにこの世界には存在する。
そして、優劣の基準は酷く曖昧だ。個性があるか、ないか、ヒーロー向きか、敵向きか。相反する2つの間に横たわった決定的な溝が、おそらく誰もが持っている偏見や価値観の根底に存在している。

そして、それは私にとっては到底理解できない価値観そのものだ。個性なんてない世界に生きていたのだから、当然といえば当然だ。
けれどそんな考えは、この価値観は誰にも理解されないと思っていた。世代を重ねて個性があたり前となった今、個性を抜きに何かを考えることはありえない。

誰にも理解されないと、そう思っていた。
それほどまでに、今の世界には個性が絶対的な価値観で、なくてはならないものだった。個人単位ではなく、この社会から個性がなくなれば。そうすれば。元の世界と同じ基準になる。個性の暴走に怯えられることも、無個性に嘆くことも、異形と疎まれることも、すべてなくなる。

そうか。
治崎は、私と、似たような価値観を持っているのかもしれない。

――この世界で、唯一。

「両親とも違う個性があったからお前は不幸になったんだろう?事情も知らない病人どもに蔑まれ、疎まれ、憐れまれる人生を送っている。お前は、何ひとつ悪くないのに」

重なる。響く。私のどこかに。

ずっと抱えていた何かに。

「その原因はなぜだ?皆が、病気だからだ。世間に蔓延するこの病気を治せば――お前だって、みんなと同じ人間になれるぞ」

揺れる。

「何人にも平等な社会が欲しくないか?個性とは関係なく、自分を正しく評価されたいと思わないか?」

ゆれる。


「俺には、それを実現するプランがある――来い、苗字。この計画にはお前が、お前の力が必要だ」


求められている。
そう思った。




「天喰先輩は良いとして、苗字のやつ、大丈夫かな……」
「切島くん……」

隣を走る切島くんから出た言葉は不安の色に染まっていた。考えないようにしていたけれど、天喰先輩の背中を見てさっきまで傍にあったはずの背中を思い出した。そして、それが暗い穴に吸い込まれていく様も。

天喰先輩があの3人を倒せると確信して対峙したのと違って、苗字さんは強制的に向こうの意図で分断されてしまっている。個性の特性上、敵が排除したいと考えていたなら、この状況は敵の思うツボだ。だとしたら、苗字さんは今、相当危ないんじゃないだろうか。――そんなこと、わかっている。

深く考えれば考えるほど、首筋の裏に居座る寒さは強くなっていく。
敵がどこにいるかもわからない。個性を壊す薬もある。人質にされているエリちゃんもいる。そんな状況で、さっきの3人みたいに囲まれたら。
僕だったら、倒せるだろうか。そんな不安だけでは収まらない何かが、少しだけ僕の足を重くした。

「だ、い、丈夫だよ!苗字さん、アルキミスタなら、」

絶対とは言えなかった。気休めにしかならないのは、僕も切島くんもわかっていた。何かを言って安心したいのに、その言葉が出てこない。どんな言葉を言っても、不安が消えないのはわかっていた。

『仲間を、……友達を見殺しにしても、エリちゃんを助けられるかって!聞いてるの、私は!!』

あの日、苗字さんに言われた言葉が脳裏に蘇った。最前線で敵の悪意に晒された結果、惨めに死ぬかもしれない、という感覚は味わったことがないわけじゃなかった。林間合宿や神野がそうだった。
けど、僕が相手を倒すことができたのは、逃げるという選択肢があるからだと気づいてしまった。自分がだめでも、先生たちがいると、ヒーローがいると思っていた。無意識に。

でも、今、わかった。全然違う。逃げる選択肢があるのと、ないのとじゃ、全く違う。

自分たちの意思で向き合った以上、逃げることは許されない。ここで僕たちが逃げることは許されない。ヒーローは最後の砦だ。だから、悪意に向き合わなければならない。盾でなければならない。
たとえ、自分の命が危うくなっても。仲間の命が危機に晒されても、優先すべきはヒーローが守るべき誰かの笑顔だ。

覚悟していたわけじゃない。でも、苗字さんが僕らの配置に苦言を呈した意味を、僕は本当には理解できていなかった。予想よりもずっと重いその覚悟に、少しだけ震えそうになる。もしも、苗字さんが、すでに八斎會に捕まっていたら。目の前でエリちゃんと苗字さんの命を天秤に掛けられたら――

「……葬儀場じゃねえんだ、そんなに暗くなる必要なんかねえだろうが」
「また意地悪やなあ。もっと優しく言うたらエエのに」

ぐるぐると回る思考を壊したのはロックロックの呆れた声と、ファットガムの諫める声だった。予想外の言葉に僕と切島くんは思わず顔を見合わせた。
ロックロックは会議やここまでの道すがらでも、少しキツい言い方をする人だというのはわかっていた。けど、今のはまるで僕らをフォローするような言葉だった。
どうして、と言おうとするよりも先に続いて口を開いたのはナイトアイだった。

「この数日間で苗字に課した仕事は、数十ページにもおよぶ薬物の解析結果の理解。その情報を自身の個性へ昇華し、発動させる個性強化。その他作戦に必要な事項の調査および戦略立案への参画。どれも難しい内容だが、彼女は期待以上の成果を出している。――もはやプロの域と遜色はない」
「……あんな頭のキレるガキがそう簡単に下手打つもんかよ。一時的に仲間になったフリして後ろから挟み撃ちくらいやるだろ、あいつなら」
「奴さんがエリちゃんを本部に匿っとるのも、脱出経路が地下なんも、予想したんは苗字さんや。そんなカンのええ子が引き際を誤るとも思えんしな!ただ、1人がキツいんはみんなそうや。一刻も早く合流出来るよう、俺らは進むしかないで!」

口々にそう言うヒーローたちの声色に一切の迷いはなかった。
敵を倒すことだけじゃない。誰かを救うことだけじゃない。まったく違う「強さ」が確かに存在していた。
ファットガムもロックロックも、苗字さんと組んだことがあるわけじゃない。それでも、彼らが抱くのは間違いなく仲間への信頼と、今自分がすべきことから目を逸らさない信念だった。

力強く背中を押してくれる言葉に安心している自分がいる。そのことが、僕自身まだ「子供」の域を出ないことをなによりも証明していた。
少しだけ悔しく感じた。苗字さんの言う通りだ。僕はまだ、子供だ。与えられた役割への信念も、覚悟も全然足りていない。

「――デク、レッドライオット」
「い、イレイザーヘッド……?」
「アルキミスタは、お前らも知ってる通り、生き意地が汚い」
「いや、そりゃそうかもしんねーですけど、つか、そうっすけど!」
「き、切島くんまで!」

突然の相澤先生の言葉に思わず教室のような反応をしてしまう。
ゴーグルの下にある先生の目が何を訴えているのかはわからないけれど、それでも相澤先生の言いたいことは自然と分かった。

「だから心配するな。……あいつはこんなところでくたばるようなタマじゃない。苗字を信じて進め。俺たちができることはそれ以外にない」

羨ましいと思った。信頼を寄せてもらえる苗字さんが。でもそれは彼女がしてきた行動の結果だ。だったら、僕も信頼に、期待に応えられるひとに、そんな人間になるためには。

今の僕にできる全力で、エリちゃんを助けるしかない。恐怖も、不安も全部超えていけ。

「「――はい!」」

胸に巣食っていた不安が一気に晴れていくのがわかった。


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