改めてご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします!

言いたいこと、と轟くんは言った。なんだろうか、と思っても僕にその答えは出せない。

合宿のときから、轟くんは苗字さんに随分入れ込んでるみたいだった。僕や飯田くんよりもずっと、苗字さんを助けたいという想いが強い気がしてずっと不思議だった。何が轟くんをそこまで必死にさせるんだろうか。僕たちが知らない、轟くんと苗字さんの接点があるんだろうか。

――だから、苗字さんが戻ったと言った神野で、轟くんはあれだけ動揺していたのか。

電話越しに状況を伝えたあの時。息を呑む轟くんの声なき声が聞こえたあと、八百万さんの必死な制止の声が電話の奥から響いていた。結局、ヒーローと八百万さんによって止められたらしいけれど、それがなければ戻っていただろう。そんな剣幕だった。

轟くんが苗字さんを特別に思う理由。その思いが、苗字さんに届くといい。轟くんが持っている熱と感情が、どうか暗い苗字さんの心を照らしてくれますように。
僕は祈るような気持ちで、2人を見ていた。





「……体育祭の後、焦んなくていいっつってくれたよな。お前は覚えてねえかもしれねえけど、その言葉に、俺は救われたんだ」

轟くんの言葉に、苗字さんの肩が微かに揺れて、焦点が轟くんに合った。どうして、という純粋な疑問を孕んだ視線が轟くんを貫く。
苗字さんは何も言わない。けれど、轟くんはぽつぽつと語りかけるように苗字さんの目から視線を逸らさなかった。

体育祭で、轟くんが目指していたもの。炎熱を使わずに体育祭で優勝して、お父さんを否定すること。それが僕によって阻まれ、今まで目指してたものが根本から覆えされた。その結果、自分がこのままでいいのか、わからなくなってしまった。

轟くんの口から吐露されていく言葉は懺悔のような色を滲ませていた。体育祭で、轟くんはみんなと違うものを目指して戦っていた。それを正面から突きつけたのは僕だ。だって、1人だけ違うところを見ていたから。そんなの、ふざけるなって思った。

かっちゃんも同じ憤りを、苗字さんに抱いていたんだろう。さっきのかっちゃんと苗字さんは、体育祭のときの僕と轟くんだった。

「清算しなくちゃなんねえ。オールマイトにはそう言ったけどよ、何から始めていいかわかんなかったんだ。やることが多すぎて、俺に足りねえもんが多すぎて」

体育祭の後の轟くんは少しの間、動きに精彩を欠いていた。とっさの一瞬、氷結を使うか炎熱を使うか迷いが生じる。炎熱を使わなきゃいけない、って無理に思っているみたいで、どちらもうまくいかない。心に体が追い付いていないんだと思った。

「でも、お前があの時ここがスタートだっつってくれたから。俺は少しずつ前を向けたんだ」

保須の時は炎熱も氷結も、違和感なく使えていた。エンデヴァー事務所に行ったからだと思ってたけど、それだけじゃなかっんだ。苗字さんの言葉で、轟くんが前を向いたんだ。だから、轟くんはあんなに。

「親父のことはまだ許せねえし、お母さんだって完全に回復したわけじゃねえ。でも、遅すぎることはねえんだって、俺はまだ色んなことが出来んだって、それを少しずつやっていけばいいって教えてくれたのは、お前だろ、苗字」

そう言って、轟くんは苗字さんの手を握った。待ちきれないというように、その手をこっちだと引くように。
轟くんの手の中に、苗字さんの小さな手が収まる。思ったよりも小さい手だ。もっと大きいと思っていた。それだけ、僕らの中では苗字さんは僕らの前を行く存在になっていたから。いつも自信にあふれて、凛としていて。強い人だと思った。でも、僕らが勝手にそう思ってるだけだった。

「なりてえもんに、なっていいんだ」

苗字さんは自分の心を冷酷だと言った。でも、僕にはそう思えない。だって、そうじゃなかったら、保須であんなにぼろぼろになって僕らを助けない。体育祭で疲れているのに轟くんにそんな言葉を掛けない。

「誰に、何言われても、自分で自分を諦めなくていいんだ」

苗字さん。優しいんだよ、君は。
だからあの時、僕や轟くんや飯田くんを、ステインから守ってくれたんだろ。君の心がちゃんと誰かのために鼓動を刻めることを、僕らは知っているから。


だから、自分はこういう人間だなんて安い言葉で、自分を諦めないでよ。


「あの時、俺の心を助けてくれたお前はもう、俺のヒーローだから。お前が困ってんなら、今度は俺がお前のヒーローになる。俺は、苗字、お前を助けてえ」

轟くんのやさしい声がそっと部屋に落ちた。外は茹だるような暑さの中、蝉が短い命をかき鳴らしていて。それなのに、僕らだけがこの静かで優しい世界に閉じ込められたような気がした。

「……夢に、見るんだ。最後に見たあの子のこと」

ぽつり、と雫みたいに苗字さんの声が落ちる。沈黙を破る声を聞き洩らさないように苗字さんを見た。その表情にはどこか恐怖と迷いがちらついて不安定な心を映しているみたいだった。
不安。恐怖。迷い。怯え。それらが全部混じり合った表情で、僕らを見る苗字さんは悪夢にうなされているようだった。よく見れば、目の下にうっすらと隈が見える。実際に、眠るのが怖いんだということは簡単に想像がついた。

「笑ってたの。最期の瞬間、あの子、笑ってた。それなのに、夢の中では、あの子は何も浮かばない表情で、どうしてそこにいるって。僕を救えなかったお前がどうして、僕がいたかもしれない場所にいるんだって、そう言ってくる」

震える声でそう言う苗字さんその姿が、僕には膝を抱えて、蹲って、怖いことや辛いことから逃げようと必死な子供に見えた。迷って、彷徨って、たくさん伸ばした手が空を切ったせいで、その手をどこにも伸ばせなくなってしまっているような気がした。

「憎まれてもいい、なんて思ってたのに、夢の中でそう言われただけで、参ってる自分に嫌気がさして、結局、私にヒーローとしての覚悟なんてなかったんだって嫌というほど思い知らされた」

自分の弱さを軽蔑するような声に、心が刺されたように痛む。
僕が答えられなかったヒーローとしての現実を、苗字さんはとっくに知っていた。そして僕らがこの先ぶつかるだろう無力感や不条理。苗字さんはそれを1人で乗り越えようとして、そして少しだけ心が疲れてしまったんだと思う。

「そう思ったから、そう、確かに爆豪の言う通り逃げたんだよ。ヒーローからも、あの子の両親からも。恨まれるのが怖くて、罵られるのが嫌で、だから」
「ちょっと待って、苗字さん。大丈夫だよ」

後悔と自責に沈んでいく苗字さんに声を掛ける。
この人が心を折ってしまうのはまだ早いんだ。その理由を、僕と轟くんは知っている。

「僕ら、会ったんだ。雄英に苗字さんを探しに来てた、彼の、ご両親に」
「……な、んで、緑谷と轟が……」
「ここに来る途中で会った。悪い。話も、聞いた」

苗字さんの顔が歪む。なんで、どうして、という問いは言葉にならなくても僕たちを貫いた。
あの場で何があったのか。苗字さんが戻ってまで取り戻したかったのは何だったのか。かっちゃんしか知らない筈の出来事を、図らずも僕と轟くんは聞くことになった。あの神野でオールフォーワンによって犠牲になった、施設出身者のご両親に。そうして、僕らは託されたんだ。

「あのね、ありがとうって伝えてって、そう言ってたよ。泣いてたし、震えてもいたけど。僕には、苗字さんのこと、恨んだりしているようには見えなかった」

あの子をあの子のまま死なせてくれてありがとう。
そう言われたときは少なからずショックだった。亡くなったのに、お礼なんて。そう思ったけど、それはその人達の話を聞いているうちに、僕の意見は少しずつ変わっていった。

苗字さんが取り戻したかったその人を喪っていたこと、少女Aの存在が世間から追われなくなってからもどんな想いで過ごしてきたのか。僕と轟くんは全部聞いた。
僕らが知らされていなかった事実を、涙で詰まりながらも教えてくれる2人に僕らはなんて声を掛けていいかもわからなかった。でも、実際は声を掛ける必要なんてなかった。その人たちはもう、前を向いていたから。
教えてくれたご両親は疲れた顔をしていたけど、陰鬱さや怒りという感情は見えなかった。

ヒーローになりたいと思ったあの子が、人を助けるために個性を使えたのなら、私たちはそれを受け入れる。きっとあの子は後悔してないはずだから、と言う声は力強くて僕らが気圧されるくらいだった。
ただ、苗字さんのことになると、その力強い瞳は心配と不安でうっすらと曇った。

『名前さんは、息子が残した形見のような子だから。お願いです。どうか、私たちの代わりに、彼女を救ってくれませんか』

涙に震える声が頭に蘇る。彼が命を落としたことは残念だし、悔しい。けれど、悪いのはオールフォーワンで、塾長だから。苗字さんは何も悪くない。あの子を助けてくれたヒーローが、いつか同じように苦しむ誰かを救ってくれることが、私たちにとっての一番の慰めになる。
ただ、今の私たちにはそれを伝える術がないのだという声は、僕が短い時間で聞いた声の中で一番悲痛に満ちていた。

会ってくれないから、貴方たちに託します。
そうして、その人たちは僕らに苗字さんの家を教えてくれた。

自分が成し遂げたかった何かを誰かに託すということは、想像よりも難しくて、苦しいということを僕は知っている。自分が強く、そうしたいと思っているのにそれを叶えられない現実は暗澹としていて、絶望という言葉すら陳腐に感じてしまう。オールマイトに力を貰うまで、僕が心の隅に抱えていた闇と一緒だ。

強い人たちだと思った。僕らなんかより、ずっと。大切な息子さんを亡くしているのに。
でも、それはあの人が強いからじゃなくて、誰かのためを思う気持ちがそうさせるんだ。確かに、君は彼の命を救えなかった。けれど、彼の、彼を大切に思っている人の心を助けたんだよ。だから、今度は君が救われる番だ。

僕らは君の力になりたい。泣いてるなら涙を拭いたい。蹲っているなら支えたい。迷っているなら、共に進みたい。
苗字さんを想うあの人たちの気持ちを、僕らは言葉の代わりに笑顔に乗せて言うんだ。

君に、会いに来た。伝えに来た。


――もう大丈夫。君を、助けに来た。


「だからいいんだ。苗字さん。君は、ヒーローを目指していいんだ。目指すべきなんだよ、あの人のためにも」

なにより、苗字さんのためにも。

そう伝えると、苗字さんの表情が変わった。その表情は確かに歪んでいたけど、さっきと違うことはなんとなくわかった。
自分の感情の揺れを察知した苗字さんは自分の膝を抱えて、そこに顔を埋めてしまった。
急にかたつむりみたいに閉じこもってしまった苗字さんの肩が、微かに震えているのを見てぎょ、と慌てる。
お、女の子が!!泣いてる!!いや女の子っていう年齢じゃないけど!泣いてる!?

「だ、大丈夫!?苗字さん、苗字さん!?」
「苗字、大丈夫か……!悪ィ、お前の気持ちも考えるべきだった」
「……うるさい。こっち、見ないで」

水気を帯びた声が隙間から零れる。こっちを見るな、という声の一方で轟くんを握る手は離されていなかった。思わず轟くんと顔を見合わせた。

「……ほんと、ばか。あほ。人海戦術なんて、効率悪すぎでしょ」
「あはは……ほんと、仰る通りです……」

苗字さんの言う通り、やり方は他にいくらでもあったはずだ。索敵に強い甲田くんや耳郎さんを各チームに入れて効率良く探す方法もあった。くじ引きなんかじゃなくて、効率を優先すべきだった。
僕と轟くんが彼のご両親に会えたのだって、体育祭で派手にやったのを見てあの場で声を掛けてくれたからだ。僕らがここに来れたのは偶然の産物、奇跡に近い。

苗字さんなら、きっともっとうまくやる。でも、それは誰だって出来ることじゃないんだ。苗字さんじゃなきゃ、いい結果にはならない。クラスの皆、かっちゃんからも信頼を集める苗字さんだから、出来ることだ。
そして、僕らにはまだ苗字さんが必要だ。

「雄英に、A組に戻ってきてよ。苗字さん」

その声に、ひく、と肩が揺れた。
僕らが出来ることは全部やり切った。それでも苗字さんが別の道を歩むというなら、僕らはその意志を尊重するしかない。皆には怒られるだろうけど。けれど、僕は。
そう思って苗字さんの答えを待つ。少し時間が経って、そして深いため息が聞こえた。

「――――相澤先生に、申請差し戻ししてもらわないと」
「……!じゃあ!」
「お説教、1時間で終わるといいな……」

哀愁漂うその言葉は、いつもの苗字さんと同じ声の色をしていた。




ノックの音が響いた。

「おい、お前ら。明日は――」

その言葉と共に相澤先生が玄関の扉から顔を覗かせた。共有スペースに広げられた、みんなが部屋に隠し持っていたお菓子を見て顔を顰めると同時に、その視線がひとところに留まる。
す、と前に踏み出した苗字さんの背中が、綺麗な90度に折り曲げられた。
それまで騒がしかった共有スペースが、シン、と沈黙に包まれる。ごくり、と誰かが喉を鳴らす音がやけに大きく聞こえた。

「相澤先生、申し訳ありません。先日提出した書類ですが――」
「ああ、アレな……お前、不備があったぞ。書き直しだ。申請するならちゃんとしたテンプレートを使え」
「え、」

苗字さんのその言葉に相澤先生が気だるげにそう告げた。苗字さんも驚いた声を上げた。
今までお菓子を囲みながら、どうやったら校長に提出した退学届を取り消せるか作戦会議をしていたから。その中で苗字さんは、完璧な書類を出したと言っていた。

僕らも見た退学届はちゃんと要項を満たしていたし、だからこそかっちゃんは校長室を襲撃するなんて物騒なことを言い出したわけだけど。
まさか、と相澤先生を見る。わ、と皆の雰囲気が音もなくざわめく。

「再度申請するならだが……テンプレートは、必要か?」
「いえ、不要です。――相澤先生、これからもご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致します」
「――……仮免に向けて扱くから、その心づもりでいろ」

その言葉と共に共有スペースは歓声に包まれた。相澤先生の表情は、どこか柔らかく見えたのは多分、気のせいじゃない。
色々あったけど、こうして僕らは欠けることなく、全員で仮免試験に向けて残り短い日々を過ごすことになった。





「それはそうとお前、明日9時から12時までスケジュール明けとけ。説教だ」
「ふぐぅ」
「わああああ!苗字息をしろーーー!!」


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