孵化


死者を生き返らせることは罪か。


妻の身体は決して強いわけではなかった。薄い皮膚からは青い血管がよく見えて、首の付く箇所は細く、頼りなかった。だけど、芯の強い女性だった。自分に厳しく他人には優しい。弱音を吐けば手を差し伸べ、いつまでも離さないでいてくれる。人の内面は顔に出るというが、まったくその通りで、彼女はいつも穏やかな表情を浮かべていた。この世の中で一番に優しい女性は誰かと問われれば偉人でも聖人でもなく、彼女であると断言できる。
そんな女性を好きになるのは必然で、俺はありがたいことに彼女の夫として傍にいることができた。

「眩しいね」
「カーテン閉めようか?」
「ううん。このままでいい」

 幸せであると感じている間、彼女の身体は悲鳴をあげて、病の床に臥せることとなった。怒ると膨らませていた頬は奥に引っ込んでしまって、一日中ベットにいるせいで動かさない足先は腕と同じくして秋過ぎの枝のようだった。
 そんな彼女の身体を少しでも照らそうとしてくれているのか、病室の窓から夏の陽がぎらぎらと照りつけた。硝子一枚の向こう側には大きな木がある。彼女はそれを見るのは好きなのだと言った。まるでドラマのようだと思う。それも「あの葉が枯れるときは、自分の命が終わるとき」だなんて言葉する最悪のドラマだ。だから俺はその木が嫌いだった。
でも、嫌悪を抱いた目で見ようとも、太い枝からは緑色の葉がしげっていて、そして雲が途絶えたとき、その緑色の葉の一つ一つは青玉のように美しく日に輝くのだ。芸術品に見惚れるのと一緒で、心が安らいでしまう。蜘蛛の糸でも付いていればもっと嫌いになれるのに。彼女が好きだという以上、目を奪われてしまった以上、俺は存分に嫌いになれなかった。

「痛くない?」
「大丈夫」
「指は動く?」
「まだ動くよ」
「よかった」

 彼女の筋肉は殆ど残っていない。彼女は自身に残された微かな力で今日も生きている。動かすだけでも痛いだろうから少しでも血行の巡りが良くなるように手を揉んであげるようにしている。様々な場所に訪れて一緒に歩いた足でもなく、共に綺麗な景色を見上げてきた首でもなく、俺を導いてくれた優しい手を大事にしたかった。

 彼女は相変わらず大きな木を見つめていた。焦茶色の瞳はまだ眩しそうだった。つぶらな深みのある目は考えごとをしていた痕跡などまるでない。自然に身を任せているのだろう。
 彼女が見ているなら俺も見ようか、そう思って窓に視線を向けると緑色の中できらりと光った白い色。

 葉が真っ直ぐ伸びることで起きる反射かと思ったが、凝らして視ると大きく開かれた翅は渇きを持ちながら清潔さを感じさせる虫がくっついているのだった。あれは確か――。
虫の名前を浮かべるより、あれから吐き出される糸は強くて上質であったはず。と考えた。繭のときは白いから夜でもその中は完全な暗黒にはならないが、あの形は既に繭からでた成虫の形だ。

あの特徴的な存在には気味が悪いと避ける者も多くいる。きっと俺もその一人だ。だけどその時だけは、じろりとこちらを見る丸い黒い目と、そよ吹く風に煽られている羽毛状の触覚に気を取られていた。それにしても翅の形は上質であろうが人間の家畜と化し、飛ぶことを失った昆虫がどうして葉の上に乗っているのかが不思議だ。俺の目に映るその一匹はどうにも異様である。

「鉄朗」

 数秒にも満たない時間であっただろう。彼女が自分を呼ぶ声で我に返る。
彼女はまだ窓の向こうを見ていた。でも淀んでしまった眸には思考が含まれていた。これから彼女が言うことがなんとなく想像できた。

「鉄朗はこれからどうするの」
「どうするって?」
「私が死んだら、鉄朗はどうするの」
「その質問、嫌だな」
「そっか」
「うん」

 それは想像していた通りだった。俺が答えないという選択を取ったのは多分、彼女の想像通りだ。

「鉄朗、ごめんね」
「いいよ」
「こんな姿になっちゃって、ごめんね」
「いいよ」

 耳を近づけなければ聞き取れないようなか細い声だ。諦めが漂う口調だ。これで何度目の謝罪か分からない。でも、彼女の気持ちが痛いほど伝わるから、それが悲しくていつも気の利いた言葉をかけてやれない。たったの三文字が己の限界だった。

日が暮れはじめて空気の匂い、自分の肌の色すら変わっていたが、心の奥に突き刺さる切ない痛みだけは消えていなかった。うつむいたまま、痛みが液体に形を変えて目尻に溜まってゆく。

「ごめんね」
「いいよ」

 いつもその繰り返しだった。どうしてこういうことがわかんないのだろうかと自分が情けなくなった。彼女がとてもゆっくりと俺の手を握ってくれた。苦しいのは彼女の方なのに、今もなお慰めをくれる彼女はやはり優しい人だ。
 こんなにも優しい人は他にはいないはずなのに悪事を働く者よりも、彼女が報われないのは何故なのだろう。なんて不憫な神が居たものか。
 恨み辛みを胸の内でなぞりながら、どうかこの優しい手だけはいつまでも残ってほしいと願った。







 この日、空は穏やかで青く霞み、まだ燃えたつような炎暑に覆われ、やがて太陽が天頂に昇り詰める頃、激しい暑さがやってきて、彼女はこの世からいなくなった。

 猛暑が続いたせいか、それとも元々ここが限界だったのか、今更すべてを知るすべはない。
 最後に見た彼女の身体は枯草のようで、どれだけ痩せていっても素敵だと言えたのは、中に命が宿っていたからなのだと気づいた。それでもまた、いつものように起きてくれるんじゃないかと期待して傍にいた。佇む俺に対し担当医は何も言わず、彼女を運ぶことなく、そっとしてくれた。

病室に一人きりになった途端、絶望的な叫びを肺から絞りだした。本当は何が起こったかなど考えるまでもない。すべてがはっきりとしているのに、自分はただその事実を簡単に認めたくないだけである。憐憫とか同情という感情はこの場には当てはまらないのだ。
心が真夏の夜のように青白くきらめき、轟く波のなかに沈んでいって、あとにはただ黒い水を残こしていく。どうしてだ、と問いただし、或いは何を恨めばいいのか分からない。彼女の名を思うだけで頬を濡らす程の思慕が、いつになっても止まなかった。
失ってから大切さに気付くというが、失う前から大切だった。優しい手が握り返してくれないことが、どうしようもなく苦しかった。今まで歩んできた人生などからは受けることのできない底深い悲壮に打たれ、二度と忘れることはできないだろうと実感しえる。




外は既に暗くなり、開け放った窓から月の光がさし込み、鈴虫の軽やかな音が聞こえてきた。俺はいつまでも泣いている。妻の隣から片時も離れたくなかった。
 
 暫くすると涙はもう出ないのだと瞼が痙攣をはじめた。湿ってしまった袖で拭うと、視界の端できらりと光るものを見つけた。光は嫌いになりきれないあの木からだった。
ぐるりと眼球を回し見ると、あのとき見た虫が、あのときと同じ葉に乗ってこちらを見ていたのだ。俺は自分の顔色や姿形がこちらを見てくるあいつに似ているだろうと思った。虚無に等しい顔つきに、水分を失った蒼黄色の皮膚はあれの皮膚と同じ色だ。そして人間がいないと何処にもいけないところも。

 そう感じつつも、あれは奇妙であった。それが突然に存在を開始したことも然り、季節外れの雪を被ったかのような白い体は薄暗い景色の中で独特だ。その存在感から俺は息を止めてしまう。これが圧倒されるということなのだろう。手のひらよりも小さな昆虫に血を抜かれている気分だ。併せて繭となり、中では蛹を成長させ、ゆっくりと羽化していく奴の過程には神秘さを覚える。

 じっと見続けていると奴は翅を捩らせた。俺から目を逸らすことはない。その為か、瞬きの仕方を忘れている。
しかしある時やってきた。白い体の隅から隅まで捉えていると「あ、」と息を零した瞬間だ。俺は思いついたのだ。
とても唐突で、突然だったけれど、奴の生死に至る過程を彼女に重ねた。彼女は今、翅を持ちえない幼虫なのかもしれない、と。今から人の手で育ててやれば、もう一度彼女に会える気がした。

それからは微かな好奇心と一種馴染の気持から離れることができなくなった。同時に俺の名を呼ぶ物柔らかな声とあの優しさを思い出してしまって歯止めが利かなくなった。
そんないかにも自然に巧まない風情は、彼女は喜んでくれはしないだろう。でも結局俺には、ただ一つの情熱だけが自分の心を力強く支配している。

すぐにでも行動に移すべく、彼女の顔に被せられた布を取り、薄いシーツで体を巻き付けた。繭のような形になった彼女を持ち上げて、慎重に運び出す。蜘蛛に食べられてしまわぬように隠しながら。
 奴が留まる木の下まで連れ、土に指を埋める。誰にも気づかれないように大汗かいて深い深い穴を掘った。
 何時間掘り続けただろう。空はすっかりと黒に染まって、空気は息を潜めていた。穴は人間ひとりが入るほどとなった。
 繭を一度だけ柔らかく抱き、土の中に寝かせる。純白ともいえるそれに土を被せるのは勿体ないと思いつつ、妻のことだけを思いながら、妻を埋める。埋めた後は簡単だった。ただ祈った。理不尽な神に、奇妙な奴の翅に、思いつくすべてに祈りを捧げた。
 奴は俺から目を離すことなく、白い羽毛に覆われた体を傾けて一部始終を見つめていた。否、見つめるなどといった手軽いものではない。あれは監視だったのだ。
 
 思えば、あんなところに飛翔能力のない昆虫がいるはずがないのだ。何かの前兆か、災いへの導きか、とにかく厄災に見舞われたはずであった。しかし何かを考えるには、あまりにも神秘が近過ぎた。彼女がいつまでも傍にいてくれたら、死ぬのは少しも怖くない、ただ俺の心の中でその言葉を何度も繰り返していた。それしかなかった。







月日が巡り、彼女を失って三度目の夏が訪れた。俺は祈ることはやめなかった。でもまだ彼女は依然として羽化しなかった。待つしかない身の俺は、無我夢中のような、心ここにあらずのような、混乱した精神状態のうちに一日を祈ることでやり過ごす。中でもひとつ、奇異な現象が起きた。妻の所在を聞かれることは疎か、彼女の存在を知る者がいなくなったのだ。与えられた現実は日常では起こるはずもないことで、目を見開く位の驚きはしたが、なんにせよ、あと一歩である。


再び月日が巡り、もう両手では数えられないほどの夏を味わった。そして今日、彼女の命日である。
 俺はきっと今夜だと思った。是も、理性に訴えて考えて見た結果としてそう考えている。鋭く心に迫るものがなく、確信に近いものを持ち得た。なぜならあの木に奴が止まっていたのだ。緑の草や木の色が、まだ油絵具のように生々しいのは奴がいるからなのかもしれない。
彼女を埋めた時間に木の下に佇む。荒い雲のなかに隠されている月は、この地に立つ己をどう見ているのだろうか。愉快で哀れな男とでも思ってくれていると少し気が楽になる。


ぐしゃり。ぐしゃり。
どこからともなく聞こえ始める。葉を貪りつくような咀嚼音が合図だったのだろう。平らであった土が膨らみはじめ、細く長い指が現れる。見覚えがあった。
俺の頭の中で彼女と過ごした静かな情景が古い映画みたいに浮かんでくる。静かだけれど熱が籠った、満ちている日々だ。これは走馬灯なんかじゃない。成長の過程である。

土の中から出てきた彼女は、息をすることをやめたままの姿だった。枯草のように薄く、萎びていて、丸々と太っている奴とは正反対だ。気にすることはない。どんな姿でもいいと願っていたんだ。俺の暗がりの心は輝きに溢れていた。でも、彼女は「どうしてなの」と、身を裂くような思いを口にした。荒れた唇は言葉を作り出そうとしている。これから彼女が言うことは想像できている。

「こんな姿で会いたくなかった」
「ごめんな」
「私は幸せだったのに」
「ごめんな」

 彼女に少しずつ歩み寄る。そんな枯れ枝のような足じゃどこにも行けやしない。翅を持った彼女は飛べないから俺がいないと生きていけない。

「もう一度だけ、一度だけでいいって思ったんだ」

俺だって彼女がいないと何処にも行けやしない。

「力いっぱいに抱きしめたいって思ったんだよ」

 微々たる抵抗、ささやかな希望に過ぎなくとも、そういった小さなことに縋るしかなかったのだと伝えようとも、彼女に会えたことの喜びが勝って、気の利かない男のできあがりだ。でも目の前にいる彼女は何も変わってはいなかった。こちらの心を何もかも見透して、優しく理解するような目を向ける。そしてカサカサと音を立てながら、手を差し伸べてくれた。
 この手をどのくらい待ち望んでいただろうか。長い夢でも見ているようである。

「こんな旦那でごめんな」
「いいよ」
「ごめんな」
「いいよ」

 彼女を強く抱き寄せた。もう粉々に壊れてしまうことなど恐れなくていい。全てを投げうってでも、彼女とこうしたかったと望んだ。そして為しえなかったことを果たせた。

 彼女の背中に手を回すと古びた病衣が膨らんでいた。項の隙間から白い羽毛を覗かせる。同時に自身の背中にもむず痒い感触を覚える。

 ふと目線をあげると奴がいた。こちらを見ていた。俺は思った。絶頂のすぐ隣には陥穽が忍び込んでいると同じように、神は悲しみの代償として、あらかじめ喜びを与えておくのかもしれない。

 何もかも受け入れたからこそ、ようやく彼女が喜ぶであろう、気の利いた言葉を吐き出せた。もちろん、彼女がこれから言う言葉は想像できる。

「いいよ」

ぼっと嫌な音がして、土の匂いが広がる。振動した白い翅はまるで眩く光である。暗い闇のなか、その海の底では、無数の丸い卵たちが身をよじり、もがき苦しんでいるのだった。

死者を生き返らせることは罪か。
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