桃蜜

母から電話があったのは父が亡くなった直後だと思っていたが、そうではなかったようだった。既に父は看取られた病院から家に帰って来ていて、狭くて薄暗い和室に閉じ込められていた。父の亡骸はひっそりと白い箱の中に収められている。
自分の親だというのに棺の中を見るのは怖くて、私はその小さな小窓を開けられずにいた。

高校卒業以来、父の顔は見ていない。父はどんな顔をしていたのだろうか。記憶を掘り起こしても薄ぼんやりと靄が掛かっているかのように曖昧で、まったく思い出せない。
母の理解できない言葉と他人からの興味と侮蔑に耐えかねて、この家を出たいと打ち明けた私に「母のことは僕がなんとかするから好きにしなさい」と言った父は、この街でどんな顔をして生きてきたのだろうか。どんな思いを抱えてこの家に帰ってきていたのだろうか。苦しんだのだろうか。嘆いたのだろうか。

それとも、私を恨んだのだろうか。

棺に付いている小窓を開けて見た父の顔が憎悪に歪んでいたら。そう思うと怖くて結局窓は開けられなかった。
そっと和室から視線を外すと母が祭壇に向けて手を合わせていた。手を引かれていた頃は大きく見えていた母の背中はいつの間にか随分と細くなっていた。その背中に声を投げかける。

「お母さん、葬儀場はどこなの?明日なんだから、時間と場所くらい教えてよ」
「ここにいらっしゃってくださるわ。十時にね、くれぐれもあの方の前で粗相なんてしないでね、お願いね。お母さんと約束してね、出来るでしょう?あなたは良い子だから」

良い子。
なんてことはないその言葉に心がざわりと揺れるのが分かった。不愉快という言葉では足りないほどの苛立ちと不満が血管の中を、ずるずると這いまわっていく。
聞き分けのない子供に正しさを諭すようなその言い方に腹の奥が熱を持って茹るようだった。考え付く限りの罵倒が体の中に渦巻くのに、喉は音を出すことを忘れてしまったかのように空気ばかりを吐き出していた。
昔、母に手を引かれて家々を回った記憶が鮮明に蘇る。母が宗教の勧誘をしている間、私は大人しくしていることを約束させられた。

余計なことは言わないでね。
大人しくしててね。
お母さんとの約束守れるわよね。
あなたはいいこだから。

母の口からはあの頃と全く同じ言葉が出てきて、どうしようもない不快感に襲われる。子供ながらに感じていた、向けられる視線の冷たさも、私が感じている恥ずかしさも、母に逆らえない惨めさも。
全部が鮮明に思い出されて全身を殴ってくるようで、吐き気がこみあげて来た。逃げたい。逃げたい。あの視線から。
めまいがするようなふわふわとした感覚の隙間を縫うように、とぷんとぷんと水音が聞こえてくる。

――まただ。

ここに帰ってきてから特によくこの音が聞こえるようになった。耳鼻科に行くべきかもしれない。逃げるように思考を方々にちりばめる。気付けば、私は荷物を持って駅前のホテルの前に立っていた。
一刻も早く、ここではないどこかへ帰りたかった。




昔の記憶が波のように押し寄せる夜は、私が思ったよりもずっと暗く、重かった。逃げるようにして飛び込んだホテルの寝具は真綿のように優しくて気持ちがよかったというのに、どうしてか子供のころの記憶ばかりに占領される。宗教上の理由で床で寝ることを強いられていたあの頃の痛みが、突如としてぶり返したようだった。

翌日、体の節々に感じるはずのない痛みを抱えて、駅前で弟と合流した私は再びあの家に戻ることになった。昨日は気が動転していたせいか何も言えなかったが、そもそも火葬場でもなく寺でもなく家で読経してもらうというのは可能なのだろうか。調べようとスマホを起動しかけたけれど、結局止めた。
わからない。わかりたくもない。これ以上、普通と違うことを認めるのはもう嫌だった。
家に着いても一言も発さない私から弟も異様な何かを感じ取ったのか、時間が近くなるにつれて家の中は沈黙で覆われて行った。

しかし、さっさと葬儀を終わらせて帰りたい、という私の思いを裏切るように、時間が過ぎても葬儀を執り行うという関係者は現れなかった。いよいよ私と弟が不審に思って母を問い詰めようとしたとき、ようやく家のインターフォンが鳴り響いて弾かれたように母が玄関に向かった。ようやくか、とため息を零すと同時に聞こえてきた声に思わず眉をひそめた。

「ああ、伊藤さん。どうも、遅れまして」
「ああ、教祖さま、ありがとうございます。ありがとうございます」

何を言っているんだ、うちは伊藤じゃない。誰かと勘違いしているんじゃないのか。そもそも遅れてきたのに謝罪ひとつないなんて、一体どんな神経しているんだ。
母が何も言わないなら文句の一つくらいこっちが、と勇んだとき、居間に入ってきた坊主を見て言葉に詰まった。長髪の、大柄な袈裟を纏った姿。胡散臭さを纏った男が目の前で笑みを浮かべながら私を見下ろしていた。

「やあ、昨日ぶりだね、怪我はなかった?」
「あなた、昨日の……!」
「へえ、昨日一日で随分と成長したみたいだね。何かいいきっかけがあったのかな?」

駄目だと思った。話がかみ合わないということは、これほどまでに致命的なのだと、まざまざと見せつけられた。母も大概だと思ったのに、それ以上の存在に本能的に恐怖がこみあげてくる。言葉の通じない猿、あるいは宇宙人と会話しているような気分になって、思わず弟の方に身を寄せた。

「怖がらせてしまったかな、まあいいか。先にこっちを済ませてしまおう」
「はい、ええ、お願いします。ほらあなたたち、早く。教祖さまの手を煩わせないで!」

私の返答を聞くことなく、坊主は和室に満ちた静寂を破るように棺の前にどかりと腰を下ろした。私の知っている坊主の作法とは大きく異なっていることに不安を覚えたけれど、それよりも見たことのない表情で急かしてくる母に気圧されて私と弟は静かに腰を下ろした。
そうしてそのままお経を唱えるのかと思えば、小さく何を一言二言言ってから棺に手を伸ばした。ぐにゃりとそこにだけ陽炎が揺らめくような歪みがそこにだけ見えた気がした。寝不足がとうとう幻覚まで見せるようになったらしい。忍び寄る眠気と疲れを振り払うように瞼を押さえる。

「終わりました。これで伊藤さんの旦那さんは安らかに眠りましたよ」
「は?」
「ありがとうございます、教祖さま、ありがとうございます」

終わり?こんな、読経も、焼香も、まともにやってないのに?っていうか、お金って。
途切れ途切れになる思考が焼き付くように熱を帯びた。積もっていた不満と苛立ち、恐怖が全部まぜこぜになって喉の奥までぎちぎちに詰まっているような気さえする。熟れすぎた果実のように、触れるだけで弾けてしまう。
苦しい。呼吸ができない。息が詰まる。熱が体の中に滞留して、渦を巻いている。これ以上なにかを言われれば、押しとどめていた感情が爆発しそうだ。
お願い、もう何も言わないで。関わりたくない。これ以上惨めにさせないで。

「お金はいつも通り振り込んでおきましたので、どうか強者の救済と祝福にお役立てください」

そう思っていたのに、その言葉を聞いたら堪えることなんて出来なかった。

「――お母さん!!いい加減にしてよ!!なんなのこの人!!」

出したこともないような大声だった。

「ねえ、この人本当にお寺の人なの!?ちゃんと読経も火葬もなくてどうすんの!?」
「今、教祖さまに祈っていただいたじゃない。十分よ」
「あれで!?ねえ、いくら払ったの!?こんなのに!」
「お金はね、眠っていてもだめなのよ。悪い気を呼ぶから。……だからね、あなたたちの保険もね、なくしたわ」

言葉も、出なかった。
使えるお金を残しておけば、母は使えるだけ宗教に金を注ぎ込む。その結果、私たちの家計は何度も崩壊し掛けた。見かねた父がどうせ使うなら、と私たちに多額の生命保険を掛けていることは知っていた。万が一のためにと遺されたそれは、この狂った家で心を砕いてきた父の生きた証だった。
それを、勝手に解約してこんなわけのわからないものに。

カッと全身の血液が沸騰するんじゃないかと思うくらいに衝動が体を駆け巡る。音が遠くなって、自分の身体じゃないいみたいにふわふわしておぼつかない。一発ぐらい殴ってや発散でもしないと、自分がどうにかなってしまいそうで、迷いなく手を振り上げた。やばい、と察したらしい弟が腕を掴んで私を制止した。

「姉ちゃん、落ち着けって!人前だぞ!」
「じゃああんたはいいわけ!?」
「良くないに決まってるだろ、落ち着けよ!そういう宗派かもしんねーじゃん!」
「読経も火葬もなくてまともなわけないじゃない!」

何かにぶつけたかった。なんでもよかった。そうじゃないと私が壊れてしまうと思った。その矛先を弟に向けてはいけないのもわかっているのに止まらない。
気持ちわるい。不愉快だ。何も考えていない母も、穏便に済ませようとする弟も。なにより事の成り行きを興味なさそうに眺めているこの男も。何もかもが許せない。

「それに、あんな変な、気持ち悪い人形背負った坊主がどこにいんのよ!」

――ごぷ、ん

そう叫んだ瞬間、明らかに聞き間違いじゃない大きな水音がした。けれど、その音を不審に思うよりも私の視線は坊主の肩に乗っている気味の悪い芋虫のようなものに釘付けになっていた。いつの間にあんなものを出したのかわからない。けれど、そんなことはどうでもいい。とにかく、ふざけていると思った。父を弔う気もない。あんな気持ち悪いぬいぐるみを巻きつけて、いけしゃあしゃあと金をせびる。醜悪で、穢らわしくて、卑しい生き物だ。
はやく、ここから、私の目の前から消えろ、と思って思い付く限りの罵詈雑言を浴びせようと、そう思った。思っていた。

教祖の顔が、熟れすぎて潰れた果実ような甘く、恍惚な表情に変わっているのを見るまでは。

ひ、と喉の奥が引き攣って、思わず口元を押さえる。吐き気がするほどの、澱んだ感情が向けられているのが分かった。悪い感情ではない。だけど、あの表情になんという名前を付けていいかわからない。
弓なりになった目が、口元が、爛々と燃え滾る何かを宿している。ずっと探していたものを見つけたような、そんな、焦がれていた何かを見つけたとでも言わんばかりの表情が、間違いなく、自分に向けられていた。

なんで、こんな表情が、私に。
ざ、と血が一気に落ちていくのが分かった。ドクドク、と心臓の音が響いているのにさっきとは違って血液が巡っても熱くならない。血の巡りが、心臓が空回りしているんじゃなかと思った。夏だというのに指先が雪の中に手を突っ込んだときのように冷たい気がして、指を握り込んで初めて自分が震えているんだと分かった。
は、は、と短く息が上がるのを落ち着けたいのに、全然落ち着かない。それどころか息する間隔が短くなっていって、息苦しさがどんどん増していく。逃げたい、ここから、早く。

「伊藤さん」
「は、はい!教祖さま……!」

ふい、と視線を外した坊主が急に立ち上がって、母の傍ににじり寄った。母は教祖というこの坊主に話しかけられたという喜びで震えていた。何が母をここまで熱中させるのか分からなくて、そのやり取りを見ているしか出来なかった。

「素晴らしい!強者だ!良かったですね、貴女が抱えてきた苦しみは決して無駄ではなかった」
「な、なんてこと……じゃあ、この子は……!」
「そうです、貴女の娘さんは――選ばれた、強者だ」
「あ、ああ……!身に、身に余る光栄です……!よかった、よかった……!」

母は泣いていた。父の亡骸の前ですら見せなかった涙を濁流のように流していた。記憶の中に生きている母は、怒りこそすれどこんな風に喜びで泣く姿なんて見せたことがなかった。その母が、家族以外の前で泣いている。自分を曝け出している。
歪んだ何かばかりで作られた、訳のわからない世界で二人だけが何かに喜び、打ち震えるように感情を揺らしている。父の努力も、私たちの我慢も、全部を踏みにじって。

「これまでの苦労がようやく報われたんですね……!」

母のその言葉に、燃えるような何かが込み上げてくる。熱い、熱くて、全部燃えてしまいそうになる何かが、腹の底から溢れて来たのがわかった。
これまでの、苦労、なんて、お前が言うな。苦労してきたのはお前じゃない。父で、私で、弟だ。床で寝ることを強いたから、お前が友達の家に勧誘に行くから。
私や弟がこの街でどれだけ惨めな思いをして来たと思っている。ぜんぶ、全部、誰のせいでこうなったと思っている。

「……出て行って、」

もう我慢なんて出来なかった。一刻も早く、目の前から。全部、全部消えて欲しかった。今すぐ隕石が落ちてこいつらだけぐちゃぐちゃにしてほしい。何かに喰われて、骨のひとつも残さず光も届かない深い海の底に引き摺り込まれてしまえばいい。兎に角なんでもいいから、私の前から消えて欲しかった。

「出て行ってください。これ以上通常の葬儀をしていただけないのであれば、警察を呼びます」

不思議と、それまでの恐怖は消えていた。真っ黒な目を睨みつけながらはっきりとそう言った私を見て、坊主はやれやれと肩を竦めた。さっきまでの恍惚とした、出来損ないの笑顔ではなく人の良さそうな笑みが浮かんでいる。

「残念ですが、伊藤さん。私はお呼びではないようですのでこれで失礼させて頂きます」
「そ、そんな、いや、お待ち下さい、教祖さま、教祖さま!名前っ!!あんた教祖さまになんて口を!!」
「帰ってください。いま、すぐに」

帰れと命じる声は思ったよりも震えていなかった。母が何かを喚いているのか、せわしなく口が動いているのが見える。それでも私の耳にはその音は不思議と届かなかった。こぽこぽと水の中に居るような音がまた耳の奥で反響している。水の中にいるように、周りの声はまったく聞こえなかった。

「――娘さんもこう言っていることですし、今日のところはお暇させていただきますね。また、集会で」

水音を切り裂くように耳に入ってきたのは、坊主の声だった。
それをきっかけに、水音が消えて他の音が戻ってきた。坊主の声に応じるように嬉しそうに何度も頷いた母が、坊主を見送ろうと玄関へ向かう。
ようやくこの地獄みたいな時間が終わるのか、と思っていたら、急に坊主がこちらを振り向いた。さっきまでの歪んだ笑みの名残すら見せない、胡散臭い笑みが私に向けられていた。その目になんと形容していいかわからない高揚なを纏わせて。

「私は夏油傑といいます。名前さん――また、会いましょうね」

ひらり、と翻された手にはいつのまにか黒いボールが握られていた。


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