原罪

電車から降りた途端、風も時間も止まったかのような世界に放り込まれた気がした。
むわり、と湿度の高い空気が背中に張り付くようで、あまりの不快感に眉間に皺が寄る。朝六時のNHKのニュースでは、昨日よりもさらに暑くなることを気象予報士が険しい顔で伝えていた。心配の通り、日向ではじりじりと目の眩むほどの白い日差しが乱反射している。

そんな暑さから気を逸らしたくなって時計に目を落とせば、いつもならデスクでメールをチェックして、上司とミーティングをしている時間だった。自分抜きの会議では誰が音頭を取るのだろうか、と思いながら階段を一つひとつ登って改札に向かう。
すし詰め状態の地下鉄に乗る毎日とは比べものにならないほど乗客の少ない在来線を乗り継いで、たどり着いたのは生まれ育った街の駅だった。

随分と時間が経っているのに、街の空気はあの頃と大して変わっていないように感じた。窓の外に見える店の看板に多少の変化があっても、緩やかに壊死していくような空気はどこかに薄気味の悪さがまとわりつく。時代にも変化にも取り残されていく、忌まわしい遺物そのものだと思った。

ずっと、この街が嫌いだった。
高校卒業ぶりに帰って来たこの場所に、淡く、青い春の思い出の欠片など存在しない。
ただ居心地が悪くて、好奇と侮蔑の視線が辛くて、耐えるように毎日息を潜めて過ごしていた。常に誰かから送られてくる視線と言葉が怖くて、そうすることしか出来ない自分が惨めで情けなくて、いつも下ばかりを向いて生きていた。

母親が怪しげな宗教に嵌っているということは、そういうことだ。

母は常に真っ白な服に身を包んで、万病に効くだとか幸せになるだとかいう水を家々に売りに行っていた。いくら罵倒されても蔑まれても、母はやめなかった。この狭い町で、母は蔑みの象徴だった。そして、子供の世界は想像以上に大人のそれを映し出す鏡になる。小学校高学年になる頃には、学校に私の居場所はなかった。
母の満たされた宗教心と引き換えに、私は何を得ることがなかった。大学進学を機にこの街を離れて東京に出るまで、身に覚えのない罪を背負って生きている心地だった。

こんな街、全部死んでしまえばいい。

睨むようにして変わらない景色を視界に入れる。それもこの数日だけだ。そう割り切ろうとしてもあの頃と変わりない熱量の嫌悪と恥辱がふつふつと湧き上がってくる。
胃の底が重くなって、肺がつまるような息苦しさにじわじわと足元から侵食されるようだった。陰鬱した気持ちと誰かに見られているような視線を振り払うべく、ピンヒールでアスファルトを殴りつけるようにして階段を降りる。

ふと、階段の下から男が登ってくるのが視界に入った。随分と身長が高く、がっしりとした体型をしている。それだけのはずなのに、視線を寄せてしまうのは袈裟だからか。舌打ちをしたくなるのをどうにか堪えて汗を拭った。
母がそうであるからか、自分が宗教に対して酷いアレルギーを持っていることは分かっている。そしてこれが八つ当たりであることも。だが、ゆらりと立ち上った夏の陽炎にも似た苛立ちは消えない。
父は死ぬし、暑いし、おまけに坊主に会うなんて、とここ数日の自分を憐れんだ。

極めつけは男の肩の上に陽炎が揺らめているような錯覚さえしたことだ。疲れかストレスかわからないけれど、あり得ない現象に気が滅入った。体調でも悪いのだろうか。
そう思った瞬間、視線を感じたのか男が顔を上げた。視線がぶつかる。しまった、と顔を逸らしたと同時にガク、と階段から足が外れた。
あっ、と声を出す間もなく浮遊感が襲ってくる。体が強張る。どうにか足を付こうとしてもどうにも出来ない。手が空を切る。

だめだ、これ、落ちる。

どうにもならないならせめて、と衝撃に耐えようと目を瞑った。どん、と予想していた衝撃とは違う、何か硬い壁にでもぶつかった気がした。

暗い視界の中で夏らしく露出した肌を、触り心地のいい布が撫でている。線香よりも品の良く爽やかな中に、ほんの少しの甘さを含んだやさしい匂いが鼻に届いた。一瞬、あまりのやわらかさに夏の茹だるような暑さがどこかへ連れ去られたようだった。

「大丈夫ですか?」

頭の上から振って来た冷涼な声に思わず息を呑んだ。夏の夜というよりは暗い氷穴に近い、過分な冷たさが耳の奥に届く。顔をあげると、にっこりという表現に相応しい笑顔が広がっていて、あまりの近さに羞恥が背中を走って行った。抱き留められている、とようやく頭が認識して慌てて距離を取る。

「っ、あ、すいません!」
「いや、怪我はありませんか?」
「いえ、私の、不注意で、すいません。あの、貴方こそ、大丈夫ですか」

しっかりとした体付き。大きなピアスに長髪。最近は個人の恰好に文句を付けない風潮になったとはいえ、これはいかがなものだろうか。
坊主のコスプレをした売れないバンドマンと言われた方がまだ納得出来る様相だった。生臭坊主というに相応しい恰好に思わず顔が引き攣る。どうみても仏門に身を捧げているようには見えなかった。

だが、いくら相手が嫌いな宗教関係の人間で、胡散臭いの極みだとしても助けて貰った手前、お礼くらいは言わなくては。それくらいには社会的な分別は弁えている。
実際、この坊主が居なければ怪我をしていたかもしれないし、そんなことで長期間仕事を離れることは避けたかった。穴が開けばすぐに他の誰かで補充をするシビアな会社だ。その分給料はいいが。

「荷物が少し散らばっているようですね」
「あ、ほんとですね……すいません、ありがとうございました。大丈――」

大丈夫ですので。
そう言いかけた言葉が最後まで結ばれるよりも先に、坊主の足元に転がっていたリップに、その太い指先伸びる。
デパートで買った、お気に入りのブランドの、その中でも特に気に入っているティントだ。きらきらしていて自分が強くなった気になれる、お守りのようなそれに手が伸ばされる。
本来ならありがとうと言うべきだというのに、沸き上がって来たのは、触るな、という憎悪だった。どうしてか、心のやわらかい場所を不躾に触られているような不快さが先に立つ。

なにかを口に出すより先に指先ティントに触れた。どうぞ、と差し出されたそれを受けとると、鮮やかだった色が急に褪せたように見えてたまらない気持ちになった。どうも、と受け取ると同時に、そっとその手が握り込まれた。目の前で、男が笑っていた。にこり、と人好きな笑みが浮かべられていて、視線がぶつかる。
は、と言葉にならない息だけを吐き出した。ぞわり、と何かが背中を這うような不快と嫌悪が押し寄せる。

「……あなた、今までに何か見えたことはないですか?」
「ありません」

きっぱりと言い切る。なるべく冷徹な声を出したつもりだ。
それでも坊主は怯まない。振り払おうと思えば振り払える絶妙な力加減で握られたままだった。動け、と思うのにどこか興奮と歓喜を匂わせる声が恐ろしくて、体が動かない。
さっきまで普通だったというのに、なんでこんなことになっているんだ、と聞きたくても体が震えてそれどころじゃない。スイッチが入ったかのように先ほどと違う視線を向けてくる坊主に、いよいよ恐怖が増した。

「ではこれまでに不思議な体験をされたことは?人に見えないものが見えるとか、何か沸き上がるような力を感じたことがあるとか」
「宗教に興味はありません。失礼します」

その手を振り払って睨み付ける。お礼の気持ちなど欠片も残さずに消えていた。たまに気を許せばこれだ。人の善性につけこんであることないことを吹き込む邪悪ないきもの。
だから宗教は嫌いなんだ。吐き気さえする。宗教には人一倍過敏な自負はあるが、今は特に聞きたくない話題だった。

軽蔑するような視線を向けても、その坊主は胡散臭そうな笑みを変えなかった。その余裕にすら苛立ちが募って、胃の奥で何かがぐるぐると渦巻いた。舌打ちのひとつでもこぼしたかったけれど、流石に大人としての矜持がそれを拒んだ。
結局それを吐き出すことも出来ず、苛立ちをヒールにぶつけるようにして歩き出す。

ヒールの音に紛れて、とぷ、と水のような音が聞こえた気がした。苛立ったときに聞こえるいつもの幻聴だ。男からの視線が追ってくるのはわかったけれど、振り返らずにそのままタクシーを捕まえる。坊主が追ってくる気配はなかった。

よかった、と内心で息をついて、シートに背を預ける。行き先を告げるとタクシーは駅のロータリーを出た。どういうわけか、タクシーに乗ったというのに見られているような視線は止まなかった。





久々に訪れた実家は記憶の中のそれよりも随分と色褪せているような気がした。いのちが燃える夏の騒がしさとは裏腹に、この家だけが別の季節に取り残されているようだった。言葉にできない嫌な気配がして、ふるりと背中が震えた。

しかしこのままでいる訳にも、帰る訳にもいかない。憂鬱な気持ちを隠さないまま、敷地に足を踏み入れる。ドアノブに手を掛けるとあっさりと扉が開いた。思わずまたか、とため息をついた。
宗教に身を捧げているとき、母の生活能力は地よりも底に落ちる。家のあらゆることが手付かずになるのを憎らしく思っていた昔の記憶が甦って、来て早々に音をあげそうだった。

「お母さん?ねえ、ちょっと、いるんでしょ」

父は家族に幻想を抱いていた。いつか正しい「家族」として健全に機能するのだと。だから父は母と離婚はしなかった。母に尽くす様は、献身そのもので、いっそ愚かでもあった。
愚かであったけれど、私は父に最大の感謝をしている。母の代わりに家の中心にいたのは父だったから、私と弟はまだまともでいられたし、この街から出ていくように勧めてくれたのも父だった。

死んだのが母であれば戻って来なかった。私たちを育てたのは父だったから、私と弟は戻ってきたのだ。
結局、父が死んでも私たちは機能不全家族のままでいる。本当に最期まで、父は私たち家族の歯車が噛み合うことを望んでいたんだろうか。だとしたら父に対しての申し訳なさが立つ。私はそんなことをこれっぽっちも望んでいないからだ。

廊下の奥に声を投げかけても声が返ってくることはなかった。しょうがない、と薄暗い廊下を歩く。どことなく冷えたような空気が足元を擽った。無意識に溜まった唾液を嚥下する。自分の想像よりも大きく喉が鳴った気がしたけれど、母からの返事はない。
留守だろうか、と思いながら居間の扉を開けると、そこには母がいた。いつもの真っ白な服ではなく、どこかの量販店で買ったような普通の服装をして、置かれた棺の傍でただ座っていた。

母の普通の姿を見たのは、何年ぶりだろうか。母は宗教を止めたんだろうか。目を覚ましたんだろうか。父の死をきっかけに、普通に、昔の母に戻ったんだろうか。
胸の底から湧き上がってくるなにかに肺が圧迫されて苦しくなった。せり上がってくるなにかを堪えて、微動だにしないその背中に声を掛ける。

「お母さん?ねえ、何してるの」
「ああ、名前、おかえりなさい。いまね、祈っていたのよ」
「……まだそんなこと言ってんの?」

声が低くなるのを隠そうとは思わなかった。祈っている。それは母の口癖で、現実逃避の術で、家族を壊した呪いの言葉だった。
父が死んでもなお変わらない態度にふつふつと何かが込み上げてくる。煮えたぎるように熱いそれを吐き出して、どこかにぶつけたい衝動に駆られた。子供が癇癪を起すように、行き場のないこの激情をみっともなく曝け出したくなる。
それらを、嚥下できたのは理性とプライドだった。私は、感情のまま何かに縋る人間じゃない。

「お母さんね、目が醒めたのよ。貴女たちがいたときにお祈りしていた神様は間違った神様だったの」
「今も間違ってんじゃないの」
「今度は間違えないわ。私たちは、正しいことをしているの、弱者こそ死ぬべきなのよ」

突然出てきた強い言葉に思わずぎょっとする。随分と物騒な話だ。死ぬべきだなんて、とても普通じゃない。
今まで嵌っていた宗教と比べるのもおかしな話だが、一等に怪しげで危険なにおいがした。ぞ、と背筋に寒気が走る。途端に、母の纏っている空気すら別人のような気がしてきて、緊張で喉が震えた。見慣れた母の姿が、先ほどの坊主のように陰で揺らいでいるような気がした。

「……そんなことどうでもいいから。っていうか、なんでこんな日を開けてから連絡してきたの?普通すぐ連絡するでしょ?式も明日いきなりって急すぎるし、家族葬ってことなんだよね?」

一刻も早く帰ったほうがいい。長居をしてはいけない気がする。鳴らされる警鐘はおそらく正しいと勘が告げていた。
だが、もうここまで来てしまっているうえに、母に任せれば父がどうなるかわかったものじゃない。万が一警察沙汰にでもなれば大ごとだ。どうせ今回だけなのだから、我慢して葬儀を執り行って、そうしてすぐに帰ればいい。だから、きっと。

「大丈夫よ、名前」

大丈夫、と心の中で呟こうとした言葉を母に言われて心臓が大きく音を立てた。見透かされているような居心地の悪さとおぞましさが足元をちらちらと掠めていくようだった。怖い、と口にはできないけれど、それはまさしく恐怖だった。

「明日、あの方が来てくださるから」

どこか誇らしげな母の声は、夏とは思えないほどに冷え切っていた。

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