天竺

 子供の頃、神隠しを見たことがある。
 ミンミンと蝉がうるさく鳴く、よく晴れた夏休みのことだった。小学生の私は、プールへ遊びに行くのが好きで、学校のプールが開放される日は欠かさず通っていた。塩素でダメージを受けて髪がパサパサなるのもおかまいなしに、私はきらきらと夏を反射させる水の世界に体を浸し続けた。とぷん、と潜れば喧しい音も、男子からのからかいも、全部が消えて泡になる。そんな世界が、私はとても美しい楽園のように感じられた。

プールにはみぃちゃんという友達と一緒に通っていた。近所に住むみぃちゃんは、幼稚園から仲の良い、私とは比べものにならないくらい人気のある女の子だった。皆がみぃちゃんを好きだった。先生も、男の子も。私はそんなみぃちゃんとお揃いのキャラクターが書かれたバッグを持っているのが、なによりも誇らしかった。プールに足繁く通っていたのは、そのバッグが使えるからだと今ならわかる。
私はみぃちゃんの全部が好きで、みんなから好かれるみぃちゃんが誇らしくて、そしてほんの少しだけ嫉妬していた。

「はやく、おいてっちゃうよ」
「まってよ」

みぃちゃんはとにかく元気な子で、よく走っていた。先生に注意されてしまうほど、いつも元気に走り回っていた。その日も、みぃちゃんは私の前を走っていた。
きゃらきゃらと笑いながら、幾度となくそんなやりとりを繰り返して、みぃちゃんと私はプール帰りの通学路を駆けていた。みぃちゃんが足の遅い私の前を走っている。私はみぃちゃんよりも、上下に揺れるキャラクターとばかり目が合っていた。「こっちだよ」とみぃちゃんが曲がって、いつも遊んでいる公園の入口に飛び込んだ。私も一瞬見えなくなったバッグを追うように公園に飛び込んだ。

飛び込んだ先にはバッグだけが転がっていた。蝉の音ととぷん、というプールに沈むときのような音だけが聞こえた。みぃちゃんは消えた。神隠しにあったのだ。



「――ぱい、先輩、名字先輩!」
「わ、えっ、はい、」

突然の大きな声にびくんと体が跳ねた。声の方に顔を向ければ心配そうな顔をした後輩が私をじっと、不安そうに眉を寄せながら見ていた。どうやら呆けていたらしい。目の前のパソコンがスクリーンセーバーになっていることに自分でも驚いて、慌ててエンターキーを押した。そんな長い時間ぼーっとしていたんだろうか、と長ったらしいパスワードを入力する。

「大丈夫ですか?なんだか、顔色悪そうですけど……」
「あはは、ごめん……なんでか分からないけど、なんかぼーっとしてた」
「夏バテですか?素麺食べすぎたとか」
「流石にこの歳で素麺ばっか食べないよ。大丈夫、夏バテじゃないから」

その返答をしても、後輩は納得がいかなそうな表情を見せた。部署で一番懐いてくれている後輩の善意を無下にはできないが、本当に心配するようなことは何もなかった。昨日もきちんと三食食べているし、健康診断の結果はA評価だ。少なくとも食欲は落ちていない。そう言ったところでこの後輩は少し疑り深い性格だから、信じてくれないこともある。しょうがない、と別の話題を逸らすことにした。

「こうも暑いと肉とかビールとか、夏っぽいもの食べたくなるね」
「わかります。聞きました?外、三十七度もあるらしいですよ」
「うわ、外回りじゃなくてよかった」
「ほんとですねえ。社内寒くないですか?」
「大丈夫、ありがとう」

カタカタとキーボードが二重奏を奏でる。羽織ったカーディガンがエアコンの風を遮ってくれて、私ほどよい温度になっていた。向かいのビルに反射して見える青い空はまさしく夏そのもので、聞こえるはずがない喧騒を連れてくる気がする。都心には緑が少ないとばかり思っていたけれど、丸の内はあくせく働くビジネスマンに少しばかりの都会のオアシスを提供していた。立派とは言い難いが、それなりに生い茂る街路樹は夏の生き物の命を謳歌する恰好の場所となっていた。蝉の声が聞こえる気がするのは、きっと出勤時にその声を聞いたからだ。思い出に浸っていたわけじゃない。
自分に言い聞かせるようにさっきまで浸っていた思い出を追い出す。仕事をしなければ。変則的な労働時間が約束されているおかげで、決めた分の仕事が終われば帰れる。

「先輩、よかったら今日ビアガーデン行きませんか?」
「いいね。あと一時間くらいで終わるけど」
「流石、部署で一番仕事が早いって言われるだけありますね。二時間くらい見て貰えると助かります」
「明日の仕事前倒しで進めるから、焦らずやりなよ」

「ありがとうございます!」と元気よく返事をした後輩は、一段とスピードを上げてキーボードを叩き始めた。それを尻目にチェックの完了したファイルを保存して、上司へメールする。今日の仕事はもう終わりだ。前倒しすると言ったけれど急ぎで片付ける案件は多くはない。どうしたものか、と再び窓の外を見れば変わらない青空が広がっていた。プールみたいだ、と思ったと同時に、とぷん、という水音がした。
どうしてか、あの塩素まみれのプールの水音が、今も耳の奥から離れなかった。




「じゃあ、気を付けて」
「いや、先輩、送りますよ」
「大丈夫だって」
「じゃあ、せめてホームまで送らせてください」

ひとしきり二人でビールを片手に管を撒けば、良い時間になっていた。終電を気にするほどではないけれど、二次会に行くにはいささか遅い時間だ。自然と解散の流れになったものの、やはり心配が抜けないらしい後輩はホームまで私を送ってくれることになった。そんなに飲んでないはずだけど、と思いつつも半ば押し切られるような形で了承すると颯爽と前を歩き出した。なんとなくその背中があの日のみぃちゃんのように眩しく感じられて、夜だというのに目を細めてしまった。

「先輩?どうしました?」
「……ううん、なんでもない」

向けられた視線にへらりと笑って返すと、後輩は少しだけその歩幅を縮めた。そっと隣に並んだ熱が、昼間の気温を引き摺った熱帯夜でもなんだか心地よく感じた。だから、そっと手を握られても特別嫌だとは感じなかった。
結局、私と後輩は何か言葉を交わすことなく改札を通り、ホームに滑り込んできた電車に乗った。少しだけこの熱が離れていくことに寂しさを感じたけれど、それ以上に思ったよりも低かった体温に心臓がうるさくて、どうにかなってしまいそうだった。また明日、と託された言葉を後生大事に胸に仕舞って、アルコールで緩んだ筋肉をなんとか引き締める。

その途端、ブーと自分のバッグが揺れたのが分かった。振動の長さからして、電話だ。バッグの奥に入れていたスマホのディスプレイが知らない番号を示していて、思わず眉間に皺が寄った。誰だろうか、と思ってしばらく出ずに画面を見ていても、コールが途切れる気配はみえない。
こんな夜遅い時間にセールスの電話なんで掛かって来るわけがない。もしかしたら緊急の電話かも、と電車を降りて、緑のボタンをスワイプする。むわりと夏の夜らしい、纏わりつくような熱気が体を包んだ。
地下鉄のホームから残響が消えた頃を見計らって声を掛ける。「もしもし、名字ですが」と語りかけても、電話の向こうの相手が喋る気配がない。いたずらかな、と思ったけれど知り合いだったら気まずいし、と再度声を掛けた。

「……どちらさまですか」
『名前』
「……お母さん?」

静かになったホームで拾った音は知ったものだった。知ったと言っても、五年ぶりに聞く母の声に確証が持てなくて思わず聞き返す。「そうよ」という返事が聞こえて、思わず息が詰まる。
母との関係は良好とはいえなかった。分かりやすく言えば絶縁状態だ。だから電話番号も登録していなかったし、番号を教えてもいなかった。父は私と弟の番号を知っていたけれど、母には絶対教えないことを条件にしていた。それなのに、どうして電話をかけられたんだろうか。父が喋ってしまったのだろうか、と内心で父を責め立てたい気持ちでいっぱいになった。

「何の用?なんでこの番号知ってるの?お父さんから聞いたの?」
『……』

母は沈黙していた。人のいないホームに私の声だけが落ちる。電光掲示板は3分後の未来を指していた。早く来て欲しかった。そうすればこの会話を無理矢理切ることができる。会話のリズムが違うせいか、お酒のせいか、淡い余韻を消されたせいかわからないけれど、私の気持ちはささくれ立っていた。語気が強くなる。急かすように母に言葉を促した。

「ねえ、ちょっと、なんか言ったら――」
『お父さんね』
「は、お父さんがなに?」
『死んだの』
「……は、」

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