長女、目をつけられる
宙に放り出される感覚と共に、慣れ親しんだ空気がイルトを包んだ。赤い絨毯、大きな窓、オレンジの斜陽。深夜だった向こうとは違い、こちらは夕方のようだった。ハンバーグらしい夕食のいい香りがした。
自身の念能力で、イルトはククルーマウンテンの実家に帰ってきていた。
久々の帰宅ではあるが、今はどうにも疲れているらしく、一刻も早く落ち着きたいと体が休息を欲していた。誰かしらは帰還に気付くだろう、と思いイルトは気だるげに自室へ向かう。
年に数えるほどしか使わない自分の部屋に戻ると、使っていないにも関わらず塵ひとつないほどに綺麗にされていた。
流石我が家の執事である。ふう、とため息をついて、イルトはベッドに倒れ込んだ。
厄介な相手だったと、イルトは天井を見つめた。
イルトがこの能力を使ったのは久しぶりだった。
イルトの能力のひとつはイルトの逃走を手助けするものだ。イルトの定めた条件を満たせば、自動的にパドキアのゾルディック家に送還される。
イルト自身の逃走能力と、相手の力が同等、もしくはそれ以上にならないと使用しない、いわばイルトの奥の手だ。
この仕事をしてもう長い。彼らのような手強い相手に遭遇したことがないわけではなかった。ただ、イルトはあの団長の執着心の強さとカリスマ性は今までに見たことがない。その力にイルトは言い知れぬ不安を覚えた。だから逃げた。
ましてや相手はあの団体である。
「幻影旅団、か…」
標的、時期、構成員のレベルから見ても間違いないだろう。加えて去り際のあの表情。特にあの黒い団長のレベルはイルトも中々対峙したことのない手練れだ。
盗賊と暗殺者の畑が違うこともあって、イルトもそんなに詳しいわけではない。ただ、旅団ほどの知名度なら、どこかから噂がたってもおかしくはない。それが出て来なかったのは、一重に情報収集が甘かったせいとおそらく向うにもそういうことに長けている人間がいるせいだ。
「ちゃんと調べとくべきだったか…。ミルキに偉そうにしていた癖にこの様だよ…」
はああ、と深いため息を溢し、イルトは天井を見つめる。
執事とミルキがある程度ロックをかけているから、ゾルディック家の情報がクラッキングされることはないだろう。
しかし旅団のことだ。もしかしたら僅かな情報からアタリをつけてこれる能力者がいるかもしれない。後で個人情報のセキュリティウォール追加して、経由するサーバーを増やして、とこのあとの事を指折り数える。
その時だった。
バン、という音と共にイルトの部屋の扉が勢いよく開かれた。
「イルト、帰ってきたのか!」
しまった。絶でもしておくべきだった。イルトの後悔はもう遅い。ノックも無しに部屋の扉を半分壊してイルトの帰還を喜ぶ父のデリカシーのなさに、イルトはぶちギレた。
「いつもいつも…!ノックしてっていってるでしょバカ親父――!!!」
パドキアの山脈にイルトの叫びが響き渡った。
「だめだ、団長。どこにもいないよ」
「こっちもいねえ。あのヤローどこに隠れやがった」
ぐちぐちと文句を溢すフィンクスとマチが西棟から帰ってきた。東棟はパクノダとクロロがくまなく探したが、彼女の姿はない。
「団長、アイツ、もうここにいない気がする」
「それは勘 か、マチ」
「ああ、 勘だね。なにより、あたしらがこんなに探していないなら、いないと思う」
「俺もマチと同意見だ。おそらくもうここにはいない」
マチのその意見に、団長も頷く。クロロが他人から奪った念能力で探しても見つからないということは彼女は完全に逃げおおせたということだ。
そして蜘蛛が獲物をみすみす横からかっさらわれたということでもある。
今回のターゲットは物ではなく人だった。先ほどあの女に殺された男の左手。それが今回の目当てだった。
男の左手は『闇のおくりもの』と呼ばれていた。その左手に直接触れられたものはやがて災厄に見舞われ、死に至るという。アイジエン大陸のタタルカという民族に、数百年に一度、確認される稀有な力だった。
その噂を聞き、目をつけたのが、幻影旅団が団長のクロロ=ルシルフルだ。そもそもは情報屋から流れてきた本当か嘘かも分からない噂だった。シャルに情報を探させたものの、蓋を開けてみればその左手はただの念能力だったのだ。先天的に精孔が開いていた男の、ただの念能力。
しかし、およそ見当を着けていたらしいクロロは、その男の念能力を奪うつもりだった。
つまり、今回の獲物は男そのものだったのである。
「しっかし、何なんだよアイツの念能力はよ。気づいたら動けねーし消えるし。胸くそわりー」
「あなたも?」
「お前らもか」
「特になんかのモーションがあったわけでもねーのにあの拘束力。ありゃー相当厄介な誓約だぜ」
フィンクスの言う通りだ。特に目立った動作は見られなかった。目を合わせたか、言葉を交わしたか。それにしては効力が強すぎる。一体なんだと考えるが、情報が少ない。
「俺達が見たのは対象者を拘束する念能力と逃走する念能力だ。前者は分からないが、後者の発動条件は『鬼さんこちら手の鳴る方へ』という掛け声、それとあの拍手だろう。おそらく時間も関係しているな。間違いなく特質系。しかも変わった念だ」
クロロの呟きに、背筋が寒くなる。たったあれだけの情報からここまで推測するとは。相変わらず恐ろしいほど頭の回転が早い。
パクノダは内心で感嘆しながらも、彼女を哀れんだ。おそらく団長はあの能力を欲しがるだろう。
「いいな」
いわんこっちゃない。
銀の髪。蒼い瞳。隙のない動作。おそらく相当の手練れだ。現に旅団団長を含む4人から逃げおおせたのだから。
「…一度アジトに戻る。オレはあの能力が欲しい」
その一言を溢した団長に、3人はため息をついた。
予想通りだ。そして団長の悪い癖だ。貪欲に欲しいものは何としてでも手に入れようとする。とはいってもパクノダは、この人のそこに共感している部分も大きいのだが。
「また始まったわね、団長の悪い癖」
「追われるあの子も可愛そうに」
「なあおい団長!オレだってアイツに一発喰らわせねーと気がすまねえ!」
そのフィンクスの言葉に、クロロは小さく笑った。
「悪いな、フィンクス」
ギラリ、と光ったクロロの瞳は盗賊のそれだ。
――彼女が、幻影旅団を鬼であるというのならば。
「あれは俺の獲物だ」
彼女は、見つかってはいけない鬼に見つかった。