Hurts


ー応接室ー
 草壁に件の処分を任せ、応接室に戻って来た雲雀だったが、あの場所がどうにも気になっていた。あの場所、手洗い場というより、突き詰めて言えば渦中にいた綱吉が気になって仕方がない。認めてしまうと、尊敬ではないし、憧れでもない、憐れみや情に近いような、何だかよく分からないが、そういうものを感じるほどに、自分は彼に惹かれているようだし、そういう理由で気になっているのかもしれないけれど、それにしてはやけに頭がもやもやする。草壁は、雲雀にとって他の人間よりも特別な存在だ。彼がどうなったところでなんとも思わないだろうけれど、どうしてそうなったのか、気になりはする。それは単に彼が特別だと感じるからだ。使い勝手の良い駒、群れないし従順な犬、目障りでない存在という点で他と違って特別と感じるのだろう。それはつまり、彼の人柄に惹かれたということだ。それに類するものを綱吉に感じていたから、惹かれたことに間違いはなくて、それが原因の、気になる、だと思ったのだけれど。どうも違う。どころか、そもそも、惹かれた度合いが違う。草壁よりも深く、色合いの異なるそれをどう表したものか。未だかつて、他人との間に友情、愛情を感じたことのない雲雀に確信はないが、動物を愛でる時と感覚は似ているし、綱吉に対するそれはそういうものなのかもしれない。友情を感じるほどに惹かれたということなのか。だとすればこの、気になる、は綱吉を心配しての、気になる、ということになる。だからこんなにもやもやするのだろうか。なんて、他人を気にするだけでも、稀なことなのに、他人のことでこんなにも悩むなんて、自分でもびっくりだ。頬杖を付きながら、手洗い場での出来事を思い返してみる。男子生徒に囲まれていた綱吉。頭に怪我をしていた。制服が乱れていた。もし、自分が階段で物音に気付いていなかったら彼はどうなっていたか。誰にでも分かる。世俗に言う弱いものいじめ、そんなことに時間を費やす人間の気は知れないが、雲雀の周りでは皿にあることで、よく知っていることだ。雲雀には、単体を殴って、蹴って、とことん一方的な暴行で、鬱憤を晴らせるとは思えないし、優越感に浸れるとも到底思えないけれど、彼らはそういう目的で、綱吉に暴行を加えていたのだと思う。気づかなければ、綱吉はもっと悲惨な有様になっていたに違いない。暴行だけなら、そういうことに慣れていそうな彼のことだから、大して気になりはしなかっただろうけれど、雲雀が気になるほど問題なのは、綱吉の制服が乱れていたことと、綱吉に被さっていた生徒の顔が欲情していたこと。男が男を強姦している場面に初めて出くわしたからなのか、未だに胸の内が鎮まらない。どうも怒りに近いような心持ちがする。加えて自分のことではないのに綱吉が穢された様を想像して、何故だか頭の中がもやもやした。今までにない出来事に対し、綱吉を心配する気持ちが助長したのかもしれない。けれど、もやもやしたところでどうする手立てもないから取り敢えず、彼らが何の目的であんなことをしようとしたのか、もやもやの原因について知ろうと思う。もしかしたら、というか、この一件は単なる弱いものいじめでは片付けられないような気がしてならない。雲雀はゆらゆらと立ち上がると、沢田綱吉のいると思われる教室に早速向かった。向かう途中、見上げた窓の外の大空は黒く、綱吉の一瞬見せたあの目が脳裏にちらついた。

―教室―
 教室の戸を開くと、黒板に向かっていた教師が驚いたような顔をして雲雀を見た。冷や汗を流し始める教師を素通りして教卓の前まで来ると、雲雀を認めた顔馴染みの1人が立ちあがって、何の用だと威嚇した。銀髪の、名前は憶えていないが、顔は知っているいつも綱吉のまわりをうろうろしている犬のような男。その男から早々に視線をずらして綱吉の姿を探す。しかし、一向に見つからない姿に、傍にいた顔見知りのもう一人、綱吉の親友だとかいう男に綱吉の居場所を訊いた。
「ツナならレオの家だぜ。」
「…レオ?それは誰だい。」
銀髪の男が、癪に障ったのか煩くするので、愛用のトンファーで黙らせる。その様に苦笑しながら男が教室のある一席を指さした。その指の先の席は空席で、その隣の席も空席だった。
「そこはミーナの席。2か月くらい前に転校してきた双子でさ、2人ともツナと一緒に早退したのな。」
「どうして、綱吉とその子達は一緒に早退したの。」
「それが、2人はツナと従兄妹だったんだよ。今朝、昇降口で2人が獄寺の指輪に気付いて、そのことが分かってさ。ここじゃあ、出来ない話もあるからって家にツナを連れて行くんだと。」
「随分と急な話だね。綱吉は何か言ってなかったの。」
「いや、その場にいなかった。探して、そのまま連れていくから、早退の旨を先生に伝えてほしいって、レオが嬉しそうに言ってたな。」
「そう。」
校内に居ないのなら仕方がないと、雲雀は教室を出た。休日にでも家に行って、いや、面倒だから、来週にでも、訊けばいい。しかし、その双子、ミーナとレオといったか、の名前は雲雀の頭に妙な引っかかりを残した。

―沢田家―
 金曜の朝、雲雀が草壁を連れて戻るまで、手洗い場に残って床に倒れている生徒の様子を窺っていると、ごんと音がして意識が途絶えた。目が覚めると、窓越しに景色が見えて、陽の高さから時間の辺りをつける。時刻は正午近く。お昼寝なんていつ以来かと考えていると、頭と脚の激痛に思考が途切れ、口を結んだ。蹲って脚を窺うと、足が赤く腫れているのが見える。脱臼したのか、手形の残るそこは腫れていて、足に体重をかけると酷く痛んだ。覚えがないから、自分をこの知らない場所に連れてきた誰かが故意に脱臼させたのだと思う。足の少し上には、その誰か、の手が添えられていた。手形と同じ大きさの手。おはよう、という言葉とともにその手が体を滑って首に巻き付いた。逃れようと体を捩ると、自分よりも少しだけ大きな体に覆われた。見覚えのある顔、レオの顔が近づいてきて、生温かい息と髪の毛が顔にかかる。どうしてか、いや、理由は分かっているのだけれど、目前の顔への恐怖で血の気が引いていく。怖くて、苦しくて、痛い警告の渦。壊したくて堪らなかった、と言うレオの顔は酷く歪んでいる。彼は自分が壊される側になることをまだ知らないのだろう。

 意識を失わないよう、曖昧な意識を掻き集めながら、目の前の男の様子を窺う。顔を腫らしながら、自分の体にナイフを滑らせている男の様は、痛々しい。彼に悪意は感じられないから強制している誰かがいるのだろう。例えば、双子とか。なんでも双子のせいにするのはどうかとも思うけれど、正直に、自分は彼らを嫌っている節があるから仕方ない。綱吉なら、そもそも誰のせいかなんて考えずに、というか何も考えずに、ただ震えていただろうけれど、じめじめした性格を持つ自分が、何も考えずにいられるわけがない。双子のことをぼうっと考えていると、その双子の片割れの座っているソファの横から見覚えのある男が現れた。なんだ、やっぱりそういうことなの、と、男を眺める。並盛中学の学生に定評のある教師。授業中に可笑しな映像を見せていたこの男に不審を抱かない方が可笑しな話だけれど。サブリミナルと言ったか、その暗示の効果は当然ながら自分がよく知っているわけで、上手い具合に双子がクラスに馴染んだ時期と噛みあっているなと、正直、もしもそれ含めて考慮していたならその手腕には舌を巻いたものだった。本心を知るのはどちらかと言えば綱吉の領分なので、憶測でしかないが、教師は飄飄としていて、面倒そうな顔をしている癖にこの状況を楽しんでいるように見えた。教師の足元は真っ赤になっていて、鮮やかさに目を瞬かせる。と、視界の端に自分の手ときらりと光るものが見えた。虚ろな目をした男の首にそれらが添えられる。男が何をしようとしているのか分かった刹那、ぞくりとする悪寒が背筋を走って、体中から裂かれたような痛みが走った。動かない癖に、嫌だ、嫌だと体は叫んでいる。自分の手の合間から迸る赤を見ながら、心の奥底に沈んでいく感覚に目を閉じた。暗闇の中で薄らと笑っているジブンを見た気がした。

 目が覚めて真っ先に目に入ったのは、床の木目。それからランボが飲みものを零してできた染み。子どもたちが追いかけっこをしていて出来た疵。それらを目で辿りながら顔を上げると、見知った階段の上に双子が立っていた。床に横たわっている綱吉を見下ろすその顔は歪んでいる。怖くなって、這って逃げようとすれば、がちゃりと音がして背後の扉が開いた。口を開こうとして押し留まる。扉を開けて入って来たその女性は、床に横たわる自分には見向きもしないで、階段に立つ双子に心底嬉しそうな目を向けていた。
「まぁ。ミーナちゃんにレオくん、いらっしゃい。来てくれたのね。嬉しいわ。」
駆け寄って来た女性、奈々は綱吉を素通りして双子の手を引き、居間へと招いて行く。
「押し掛けて来てごめんなさい。奈々叔母様にどうしてもお会いしたくて。」
「嬉しいわ。私もあの人から貰った写真を見て、2人に会いたいと思っていたの。」
日差しの差し込む明るい居間が見える。眩しくて、温かそうに見えるのは、自分の蹲っているこの場所が、暗くて冷たいからなのか。逃げ出して、その先で泣き崩れたい。あの時のように欠けた体が再生してくれればいいのに、なんて都合のいいことを考える。けれど、きっと、動けたところで、逃げたところで、自分が泣くことはもうできない。もう、消えてしまうから。自分も、綱吉も。全部、全部、呑みこまれてしまう。ジブンの中に消えてしまう。動けない。独りになりたくない。消えたくない。動けない。忘れないで。どうして。嫌だ。歪んだ世界が黒くなっていく。綱吉の、自分の、世界が見えなくなっていく。沈んだ先は黒い世界。黒い世界の中では鮮やかな色彩の粒が集まって形をなしていた。

―黒い世界―
 粒が見覚えのある形を模っていく。
「どうした、ツナ。」
ヘルメットをかぶったリボーンとしゃがみ込んでいる自分。遠くで並んで歩いている双子。あの時は、何も知らなかった。ただ、いつものようにジブンに恐怖を押しつけて、その場をやり過ごした。吐き気がするほどの直感が働いたのは、あの双子が姿を偽っていたからと自分に言い聞かせて、でも本当は、それが直感だけではなくて警告されたからだということは分かっていた。双子がこの先、直面するだろう危機への直感と、セカイが、綱吉を殺そうとする双子に近づかせないようにした警告。直感が働くのは他人の本心と危機に対してだと分かっていたのに、分かっていたから理屈をこねてそれに縋った。セカイがとても恐ろしかったから。
 光の無い無の空間で宝石が円の軌跡を描いている。その宝石から伸びる光が綱吉の心臓と繋がっている。綱吉の形が崩れて、心臓が剥き出しになっては、その心臓に群がるように粒が集まって来て、綱吉の形を模った。繰り返し、繰り返し。
「やはり呪いじゃないか。」
その様を傍で見ていたバミューダが光で薄らと照らされた顔に乾いた笑みを浮かべていた。
 鮮やかな赤色。掌に爪を立てて出来た傷から血が溢れて止まらない。赤く。赤く。誰の手も握ってしまわない様に、誰にも縋ってしまわないように、誰の助けも求めてしまわないように、誰かに迷惑をかけてしまわないように、握って来た。こうなってしまったらもう、誰の手も握れない。
 誰もいない教室で、机の上の用紙と向い合う。紙の上で数列と言葉が躍っている。それらを見ていると頭が痺れた。教卓の上には同じ用紙の束が置いてあるから、急がなければ、と思って目を凝らすものの、踊っている文字を解読できそうな気配は一向になかった。結局諦めて、適当な言葉を書いた答案を教卓の山に重ねる。テスト返しに、教師に、お前はいつまで経っても、成長しないなとどやされることになるだろうけれど、成長したら、お前みたいな化物は見向きもされないでしょう、と嗤うコエがした。逃げるように見上げた先の黒板を隠すように垂れた白いスクリーンの幕には沢田綱吉を嫌悪しろという文字が映っている。
 10代目、途中までお供します。そう言って、嬉しそうに傍にいた彼はいない。帰宅時間になっても、綱吉に駆けよって来ることは無くなって、綱吉を忘れてしまったかのように教室の扉を開けて出て行ってしまった。綱吉の足元には眼鏡ケースが転がっている。綱吉がそれを拾って、獄寺の後に続いて教室を出ると、落し物に気がついたのか戻って来た獄寺と鉢合わせた。
「人のもの盗ってんじゃねぇ。」
綱吉の髪の毛を掴んで放る獄寺の顔は嫌悪に塗れている。床に倒れた綱吉が起き上がろうとすると、獄寺が綱吉の腹部を何度もつま先で蹴った。動かなくなった綱吉の手から眼鏡ケースを取って、気持ち悪いと小声で呟くと、獄寺はそのまま何事もなかったかのように来た道を戻って行った。綱吉がずるずると壁を頼って起き上がっていると、教室の戸口から山本が出てきた。にっこりと笑みを作って、また明日、と言う綱吉に、邪魔、と一言呟いて獄寺と同様に去っていく。ごめんねと呟く綱吉の声は、弾けた粒の音で掻き消された。
 「死ね。」
とぼとぼと帰路を歩いている綱吉にコエが囁かれる。世界は綱吉の死を望んでいると、代弁しているようなコエが、人間らしい綱吉を徐々に殺していく。綱吉が死んで自分が死んで、ジブンが露呈して、化物を倒すヒーローが如く誰かに殺されてしまうよ、とセカイは警告する。警告しているセカイのコエは粒を揺らすほど自棄に弾んでいた。
 昇降口に表れた了平が、下駄箱の戸をあけている綱吉に近づいて腕を振り上げる。
「金輪際、京子に近づくな。」
と、怒りを体現したような了平の足元に綱吉の体が崩れ落ちた。ぽたぽたと綱吉の口から伝い落ちた血液がアスファルトを濡らす。赤い血痕はとても綺麗だった。
 教室に戻ろうと上った階段の踊り場で、綱吉はクロームと鉢合わせた。声をかけようとすると彼女の顔が嫌悪に歪んだ。軽く会釈するだけに留まった綱吉がとぼとぼと教室に戻っていく。そんな綱吉と擦れ違うようにしてクロームに駆け寄っていった女生徒にクロームの顔が明るくなった。クロームの様子を認めた綱吉の表情は、友達ができたのかと、安堵に染まっている。
 暗くて冷たい目がたくさんある。囲む綱吉を見ていないのにそこにある目は、クラスメイトのもの、教師のもの、生徒のもの、家族のもの。最初は、綱吉に触れる手もあった。触れたところには必ず赤い傷が出来たけれど、今は茶色い傷しかない。気持ち悪い。死んでしまえ。言葉だってあったのに、今はとても静かだ。中心の綱吉が壊れて透き通っていく。見えなくなっていく。忘れられていく。
 資料に囲まれている父親の姿。近づいてきたスーツ姿の女性から資料を受け取った家光の顔が険しくなっていく。歯を噛みしめた家光は、忌々しそうに机の上の写真立てをゴミ箱に放った。ゴミ箱の中で、綱吉の写真がゴミに埋もれていく。
 まったく新しい世界で見たクロを表せなくて粒が霧散していく。それは、恐ろしい、綱吉の最初の記憶。クロのナカには何もなくて、何も見えなくて、独りぼっちで、悲しくて、虚ろで。怖くて怖くて、でも、どうしようもなくて、死だけを感じていたから、生きている実感が欲しくて、その時たまたま縋ったのが痛覚だった。だから掌に爪を立てた。爪は柔らかく、掌に傷が出来ることはなかったけれど、代わりに母親を傷つけてしまった。死にたくないという理由ももちろんあったけれど、今にして思えば、母親をこれ以上傷つけたくなくて、弱くなって、綱吉と自分を作ったのかもしれない。
 奈々が綱吉のパーカーを破っている。彼女の眼は現実ではないものを映しているように感じた。よろよろと立ち上がり、玄関に向かう彼女の顔は、自分の汚い心を自嘲するように哂っている。
 笑う。口を少し開いて、頬を上げて笑う。自分は果たして笑えているのだろうか。こんなにも黒い世界じゃ分からない。腕を動かしても何も感じない。自分が失われている。あのクロのナカに失われているのだ。ジブンの代わりに殺される。誰もいなかったから。綱吉が自立しようとしたから。ジブンはセカイと指輪で繋がっているから、自分と綱吉は今、ジブンとセカイの狭間にいるのだろうなと考える。ともすれば、今、指輪の中にいるのかな、なんてそんな冗談を考えて笑った。笑った音すらないから本当に笑ったのか分からないけれど、笑えていたらいいなと思う。笑っていれば、あの粒のように鮮やかでいられるような気がした。粒が小さくなっていく。クロのナカに消えていく。その様に胸が苦しくなった。胸なんてもうないのに、もう全部なくなるのに、苦しくて、痛くて、じわりと何かが溢れる。消えたくない。死にたくない。その一心で声のない声で叫ぶと、視界が白く弾けた。見覚えのある世界が見えて、見覚えのある床、玄関を這って、扉の取っ手に手を伸ばす。取っ手を引っ張りながら扉を肩で押し開け、土砂降りの外に出た。家の門を頼りに起き上がり、空が見えることに安堵して、ただただ、暗い空の下、目的もなく塀伝いに歩いて行く。雨の触れる感覚が心地いい。自分は今、本当に自由なのだと思った。セカイから一時的にだろうけれど解放されたのだと思う。無理矢理、あの黒い世界から抜け出たせいなのか、理屈はよく分からないけれど、セカイとの繋がりが完全に切れていると感じる。ふと、いろんな顔が脳裏に浮かんで、それが全てやさしい笑顔だったことに、ふふ、と小さく笑った。
 その声を雨と別の音がかき消す。のろのろと首を動かして、自分と重なるぬくもりを視界に捉えた。黄色いレインコートの下に、憎悪と歓喜の入り混じった女性の顔が見える。しかし、その顔はすぐに焦燥へと変わり、ずぶりと自分の下腹部から何かを引き抜くと、彼女は向きを変え、手に持っていた何かを投げ出し、躓きつつも駆け出した。投げ出された何かが地面にぶつかると同時に、ブレーキ音がして、女性が視界を横断する。黄色いレインコートはところどころが綺麗な赤色に染まっていて、女性の体が地面を転がり終えると、その赤が雨に濡れて、地面に薄く広がっていった。彼女を轢いた車が走り去っていくのを横目で見ながら、地面に手をついて、四つん這いで彼女に近づく。動くたびに自身の下腹部からぼたぼたと赤いものが流れ落ちて、視界がぼやけた。やっとのことで彼女のもとにたどり着き、口と手首に手を当てた後、赤くなったフードを捲る。頭を強く打ち付けたことが見て取れた。地面に落ちていた何か、真っ赤な果物ナイフでコートを切ってゆっくり脱がし、畳んだものを彼女の頭の下に敷く。これにあまり意味はないかもしれないけれど、自分にできることは他になかった。彼女の顔を濡らす雨に、傘があればいいのにと思いながら、再び立ち上がって、今度は目的地に向かって歩き出す。公園の傍には公衆電話があったはずだから、それを使って救急車を呼べば、彼女は助かるかもしれない。けれど、公園にたどり着く前に力尽きてしまった。
「…やっと…にげ、のに。…でも、そら、きれ…だな。」
雨が降り注ぐ景色が段々と色褪せて、もう、2度目はないというように、覚えのある感覚が体を乗っ取っていくのが分かる。
「…だ。やだよ。きえ…たくないよ。」
綱吉は小さくそう呟くと、ゆっくりと目を閉じた。

−廃墟−
 一人になるために頭の中を整理するために探し出した廃墟で、足元に並べた資料を眺める。椅子の背凭れに背中を預けながら、ぐったりとした姿勢でそれらを眺めていると、意図せず溜息が口から零れた。久しぶりに溜息をついた気がする。綱吉と会ってから1年以上、溜息をつかせない日々を送ってきた。だからこれは1年ぶりの溜息だ。綱吉がいなくなったからなのか、それとも初めから綱吉はいなかったということに気付いたからなのか。どちらにしても、綱吉はいない。だから溜息をつく。綱吉の異常に気付いて、逃げるように家を出てしまって、情けない自分に憤って、でも、現状を何もわかっていなくて、だからひたすらに調べた。調べて分かったことは、自分が綱吉のことを何一つ知らなかったこと。9代目の頼みで綱吉の家庭教師を引き受けた時に一通り調べたはずなのに、確かなソースを提供する情報屋からの情報だってあったのに、そこに綱吉の核心に触れるものは一つもなかった。漫画にでも出てきそうな平凡な子どもを模ったような綱吉。今ではそれが紛い物だと分かる。分かるからこそ、だ。綱吉の中身を探し回って、伝手は全て頼って、分かるからこそ、暴こうとした。したが、何も知れなかった。廃墟に入り込んでくる雨が、綱吉の殻を溶かしてくれたらいいのにと思う。リボーン、あのね、と、ひょっこり現れた綱吉が素顔を見せてくれたらいいのにと思う。 今まで隠していたのに、今頃になって綱吉が曝すなんてこと、あるわけがないのだけれど。とどのつまり、手詰まりだった。正面の資料には、綱吉の資金繰りがつらと書かれている。家にいない綱吉が、外で生活する、具体的にはTシャツを買う資金源がどこにあるのか気になって調べたら、綱吉が株取引をして稼いでいたことが判明した。それは大分以前からやっていたことのようで、株取引の口座開設を3年前にしたことも書かれている。奈々は主婦で働いていないから、生活費は家光からの仕送りで賄っていたのだけれど、家光も奈々も勝手が分からなかったのか、その仕送りは親子2人で暮らすには少なすぎたし、奈々は奈々で、仕送りでは足りないからと、親から譲り受けた貯金を使い果たしてしまうくらいに資金の遣り繰りが荒かった。貯金が底を尽き、仕送りがなくなれば路頭に迷うといった寸前で、綱吉がこれを提案し、見事に儲けたものだから、路頭の迷子は無事免れたということらしい。なんともまあ、単純な話だけれど、年齢の制限も多い中でよくもこんなに稼げたものだと恐々とする。そこら辺りにいる同年代の子どもは友達とわいわいしているか、お受験勉強に尽力しているかのどちらかだろうけれど、そんな中で、綱吉の異質振りはただ事ではないと思う。今更、綱吉が異常だったことに驚きはしないけれど、兎に角、どこかのブラック企業で働いていたわけでもなし、株取引では手掛かりがまるでない。不謹慎だが、働いていたならまだ、手掛かりはあった。勤務先に出向いて、何かしらの手掛かりを手に入れられたかもしれない。けれど、株取引となると、パソコンでのやり取りばかりでどうしようもないのだ。自身の無力さに、憤りを超えて虚しさが募る。結局、自分と綱吉との間には一方向の矢印しかなかった。そのことに、ついこの前やっと気づいた。綱吉の中身に気づいて、それでも、その中身が何であろうと自分は綱吉との絆を絶つつもりはないと思っていたけれど、そもそも、その絆が存在していなかったということ。その事実が胸を焼く。熱くて、痛くて、椅子に預けていた背中を丸めて地面を眺めていると、ズボンのポケットが揺れた。気だるげにポケットを探って携帯を取り出し、耳に当てる。叔父様、と聞き慣れた声が聞こえて、なんだ、と呟くと、揺れる吐息の後に、か細い声が鼓膜に届いた。
「沢田さんが、消えちゃった…。」
ユニが何を言っているのか呑み込めずに、脳内で声を繰り返し再生する。ごめんなさいと謝り続けるユニの声に、心臓が沈んでいくような感覚がした。
「あいつは、今どこにいるんだ。」
情けないくらいに震える乾いた声が廃墟に響く。直後、椅子から立ち上がったリボーンは資料の上に火のつけたライターを落とし、後ろを振り返ることなく廃墟を後にした。

ー並盛中学校ー
 月曜日になった。土砂降りで湿った校舎を歩き、職員室の戸口を引く。朝礼会議をしようとしていたのか、一斉に起立している教師が雲雀を見て顔色を変えるのを横目で見ながら、綱吉の担任だった男の前に立つとその男が小さく悲鳴を上げた。
「ねぇ。沢田綱吉から何か連絡はあった?」
目の前の男が頭を激しく降る。
「そう。」
何も連絡が来ていないということは、綱吉は学校に来る、と解釈して、雲雀が職員室を後にしようと体の向きを変えると、焦った声に呼び止められた。
「来てないかもしれません。」
「どういうことなの。」
「休んだ日も、本人からの連絡がなかったので…。」
「提出された出席簿には体調不良とあったけど。」
「す、すいません。連絡がつかなかったもので。」
「クラスメートからは何も聞いていないの?」
「はい。彼は嫌われているようですから、彼らが彼の休んだ理由を知っていても、面倒なので言わなかったのでしょう。」
言葉のところどころに棘を感じて、ちらりと周りを盗み見ると、嫌悪を薄らと滲ませた多くの顔が見えた。話から伺うに、綱吉に群れている連中も綱吉を嫌悪しているらしい。綱吉とは何の確執もない体を装って、風紀の乱れを嫌う雲雀に嘘をつくぐらいに。どれも雲雀への嫌悪ではない、綱吉への嫌悪。なんとなくだけれど、ここ最近の不可解な出来事を理解出来た気がする。どうして、学校全体がこうも一斉に綱吉に嫌悪を抱くようになったのか、明確なことはわからないけれど、先週、金曜が終わってしまうギリギリにやっとの事で見つけた綱吉に暴力を振るった連中が、暴力を振るった理由を訊いて、その理由を、ただ嫌いだからと言ったことから、おそらくこれは、誰かが仕組んだことなのだと思う。嫌悪の中身が学校の誰にもない。それなのに誰もが嫌悪してしている。こんな不可解な出来事に、綱吉と出会う前なら首を傾げていただろうけれど、綱吉と出会って、色んな不可解に出逢って、心当たりがないとはもう言えなかった。例えば幻術とか。南国果実の男曰く、幻術は相手の脳に働き掛ける技らしいから、それと似たような原理で、誰かがこの学校全体にこの一連を仕掛けた、と検討をつける。間違っていてもいい。風紀を正す前に、ただただ綱吉の顔を見たいと思った。見て、安心したい。自分がこんなことを思うなんて、と薄く笑いながら、綱吉のことを面倒そうに話していた男を一瞥もせずに職員室を出て行く。こんなことなら土曜か日曜に家まで行っていればと後悔しながら、応接室に草壁を呼び寄せ、事務処理と綱吉の周囲を調べるように命じると、早速綱吉の家へ向かった。

−通学路−
 綱吉に会ったらなんて言えばいい。どんな顔をすればいい。ずっと一緒に生活していたくせに、もう何もかも分からなくなってしまった。いや、それでも、ぎこちない顔で笑って、お前、一丁前に家計支えて、株取引なんてやって、そうではなくて、ああ、ごめん、なんて、しどろもどろになりながらも、綱吉と口を交わしたい。会ったら、会ったら、会ったら。消えた、なんて、考えたくない。電話の声を頼りに、見慣れた路地を走る。走って、走って、やっと、身の丈に合うようになったスーツをびしょびしょに濡らして、土砂降りで灰色な世界を潜っていく。水を吸った靴は重いし、喉の奥から鉄の味がするし、外面も散々なことになっているだろうけれど、それならそれで、この雨の道の向こうにいる綱吉が自分の様を見て、腹を抱えて笑ってくれそうな気がするからいい。いや、あいつの場合、ひどく驚いて、世話を焼くのではないか。それでもいい。とにかく、自分はどうなってもいいから綱吉に。ああ、頭の中が綱吉のことでいっぱいだ。これが世間でいう親馬鹿というものなのか、と珍妙なことを考えてみる。いい加減、酸素不足で思考と足取りが覚束なくなって来た。それでも、止まるわけにはいかないと足を動かし続けていると、何かが踵に当たって空を掻く努力も空しく、リボーンの体は地面に激突した。コンクリートが肌を擦る痛みに眉を顰めて、その何か、に視線を向ける。ひゅっと、喉が鳴って、地面に横たわる肢体を眺めた。綱吉だと思った。綱吉と見間違えた。綱吉と同じくらいの背丈をした女性。見覚えのある柄、並盛中学校の制服を着ていて、だから、見間違えたのだろう。安堵するとともに、いくつかの疑問が頭に浮かぶ。どうして、こんなところに転がっているのか。ご丁寧に頭の下に枕を敷いているくらいだ。転がっている、ではなくて、眠っていると表現した方がいいのか。いや、本当は、分かっている。目を背けた地面の上のナイフも見えている。でも、綱吉がこれに関与していたらと思いたくなくて、唇を噛み締めた後、後が面倒な110番、ではなく、顔馴染みの男に電話を掛けた。この場所を告げて、さっさと先に進む。女しか診ないと言うふざけた男だが、幸いにも、勤務地からの場所が近ければ腕も良いので、彼女は助かるだろう。顔色から、それ程時間が経っていないことと、誰かが彼女の頭の下に布を敷いて頭を高くしてくれたお蔭で、いや、単に雨で流れてしまっただけかもしれないけれど、出血も少ないようだし、医者ではない自分が言うのもなんだが、死ぬことはないだろう。死なないでほしい、ただ単に、綱吉の姿と重ね合わせて、そう望んでいるだけだが、願望込みだろうとなんだろうと、なんだっていい。不謹慎だが、彼女のことはこの際どうでもいい。綱吉が無事ならもうどうでもいい。
 ぽちゃんぽちゃんと水を弾き続けていた足を止める。雨の音が一瞬止んで、灰色の床に埋もれている小さな体躯に目を奪われた。雨に溶けていってしまいそうなその体によろよろと近づき、抱えるようにして抱き起す。胸元に預けられたよく知った顔は、どこまでも真っ白で、血が通っていなくて、その反対に綱吉を乗せた自分の太腿からは、赤いものが雨と一緒に流れている。黒い布地を伝って落ちる水滴はとても赤かい。
「つ、な。」
見慣れているのに、触り慣れているのに、対処し慣れているのに、意思とは関係なしに、体は馬鹿みたいに小さな体に抱き付いて離れない。名前を呼んで、泣いて、何が変わるわけでもなし。それでも、体は頑として動かなかった。

 「な、に。」
頭上から声が降ってきてゆっくりと見上げる。暗い空を背景に、目を見開いた雲雀の顔が見えた。
「…やく。」
雲雀の目には自分の腕の中にいる綱吉が映し出されている。きっと、自分も今同じ目をしているのだろう。同じ目をして、雲雀の目の中の綱吉を映しているのだろう。そんな取り留めのないことをぼんやりと考えているとは、露知らず、震える声で何かを呟いた雲雀は、綱吉をその目に移したまま、自分の肩を揺すった。視界が揺れる。雲雀の声が揺れる。雨の音が揺れる。
「はやく、たすけないと。」
悲痛に揺れるその言葉に、ようやく体の緊張が解けた気がした。


ー雲雀家ー
 「この子について知っていることを話して。」
ふらふらと立ち上がった黒服の男に、沢田家が冷戦状態だということを告げられ、2人を雲雀家に連れて来た雲雀は、綱吉を眺めている男に口を開いた。座敷に敷かれた布団の上、2人に囲まれた綱吉の体の傷は目に見える速さで回復している。湯気が上がるほどの勢いで、血液が循環し、欠けた細胞がタンパク質によって生成されていく。この異常な光景に見惚れているのか、それとも、思考が停止しているのか。ここに連れて来る途中から始まったそれに、彼の目はずっと釘付けだった。ずっと無言で、藪医者にここの場所を伝えるのだって、雲雀が買って出たくらいで、でも、驚いているわけじゃない。この男は、この奇妙な光景を、綱吉の不可解を知っているのだと思う。
「僕も話す。」
目の前の男は静かに顔を上げると、小さく頷いた。

 もう1人、道路に倒れていたという女性を診終えた藪医者がやってきて、渋々といった様子で綱吉を診察している間、積もる話だからと、向かいの座敷に移動した雲雀とリボーンは一連のことを話し終え、口を閉ざしていた。途中、電話を掛かけて来た草壁からの情報を合わせると、合わせなくても、自分の不甲斐なさに言葉を失ってしまう。雲雀とリボーンが、何も知らないうちに、起こったこと。未だに不可解な部分を多く残すこと。
「なんで、…。」
如何して、と沈黙の中でリボーンが呟く。如何して、綱吉は頼らなかったのか。綱吉は頼れなかった。2人とも、綱吉から遠ざかっていたから。リボーンは逃げて、雲雀は無視して。でも、1番の理由は、あの子が優しいから。心配をかけるようなことを言える子ではないのに、気にかけるばかりで、自分のことをないがしろにしてしまう子なのだと、それだけは知っていたのに。綱吉の歪みに気づいていながら、歪める原因を作った存在に気付きながら、我関せずと何もしなかった自分は何なのだろうと、自分の言葉の価値のないことに俯いたリボーン同様、顔を歪めた。後悔ばかりが、先に募る。同情と罪悪感で気持ちが悪い。
「寒い。」
胸を押さえて呟く。
「お前の、それは、喪失感だ。」
帰って来た答えに、胸のあたりがズキズキと痛んだ。
「そう、だね。」
同情と罪悪感と喪失感。きっとこの男も感じているだろうことに、少しだけもやっとした。
 「不可解だ。」
雲雀とリボーンの2人がいる座敷の襖を開けたシャマルが、お手上げだというように頭をふる。
「どういうこと。」
「手の施しようがねぇ。」
「…治せないってこと?」
「いいや、治っていくんだ。」
ついて来いと手で示すシャマルに続いて、綱吉の居る座敷に入ると、綱吉が静かに眠っていた。先程まで綱吉の体から無数に昇っていた湯気は立ち消えていて、着せ替えた着物から覗いていた刺し傷は跡形もなく消えている。
「どうなってんだか。」
頭を掻いて、煙草を咥えようとするシャマルを雲雀が叱咤するのを横目で見ながら、リボーンは綱吉の傷一つない真っ白な肌に触れた。冷たい。人の温もりを探して肌を探っていると、触れた先の唇が僅かに動いて、その上の瞼が震えた。
「っ…、ツナ」
瞼の下から蜜色の瞳が覗く。待ち望んだ懐かしい瞳。その瞳はガラス玉のように、自分と、いつの間にやら枕元に顔を寄せていた雲雀を映している。懐かしい、でも、何処までも澄み渡っていて感情の無いそれに胸のあたりがすうっと冷えた。冷たい手が、口元に添えられた手を伝って、自分の首にそっと巻き付く。沢田さんが、消えちゃった。感情のない目に、脳内で渦巻いていた言葉の本当の意味を理解した。
「…誰だよ、おまえ。」
泣き寝入りするように、顔を歪めて綱吉の顔を手で包めば、綱吉の手が首からゆっくりと離れた。
「この子、沢田綱吉じゃないの?」
さして驚きのない声で雲雀が尋ねる。雲雀も、この子どもが綱吉ではないことに薄々気づいているのだろう。静かに頷けば、どういうこと、と応えが返ってきた。
「俺にも分からねぇ。なぁ、教えてくれ。」
襖の向こうに立っているであろう男に問いかける。はっとして、雲雀が顔を向けシャマルが退いた先の襖が引かれ、見覚えのある男が姿を現した。
「しばらく見ない間に、随分と様変わりしたじゃないか。」
ぼろぼろになった自分に、皮肉ではなく、悔しさの混じった苦々しい笑いを浮かべて入って来たバミューダは、警戒する雲雀の横を通って、座敷の上座に腰掛けた。うるさい、と怒鳴り返す気力もなく、無言を返せば、バミューダは悪ふざけが過ぎた、と言って枕元の綱吉に目を向けた。
「今更だが、お邪魔する。是非もなく、話をさせて貰うよ。」
ゆっくりと息を吐いて、綱吉を見下ろすバミューダには余裕が見て取れる。トゥリニセッテの管理で身動きすらできないお前がどうして、と尋ねようとして、視線を綱吉に向けたままのバミューダに口を噤んだ。
「まずはお礼かな。」
君のおかげで、僕は今ここにいる。こうして、ここに生きている。ありがとう。そう言ったバミューダの顔は、少し翳って、いいや、と、小さく否定した。
「君じゃない。綱吉君。あの子が消えたから僕はここにいられる。」
そうだね、と同意を求めるようなバミューダの視線に、寝床からゆっくり起き上がった綱吉が頷いている。
「いいから、説明して。」
やはり、綱吉の感情の起伏のない所作に、苦々しく思っていると、それを代弁するような雲雀の低い声が聞こえた。
「雲雀君、だったかな。我儘な奴だと思っていい。すまないが、僕に彼と話をさせてくれ。」
ごめんよ。僕はやるせないんだ。やるせなさをどうにかしたいんだ。何も出来なかった僕と話をして欲しい。ずっと見ていただけの、独り言ちていただけの僕には君の声が必要だ。君の言葉が返ってくることが僕の望みなんだよ。だからどうか、身勝手な僕と話をして。というバミューダの言葉に、自分と重なるものを感じて胸が痛くなる。綱吉といえば、そんなバミューダの言葉を無表情で聞いていた。本当に聞いているかは分からないけれど、その目は確かにバミューダを捉えている。
「ねぇ。綱吉君。」
乖離か、消滅、選べるとしたらどちらが、よかったかな。どちらにしても、君には時間がなかったけれど。君は、これから、セカイに縛られる。だって、君は永劫の死を望まないもの。君を殺す要因を作ったのがセカイだったとしても、君を生かせることのできる唯一の存在がセカイなんだもの、しかたないよね。しかたない、よ。これから先、君はなんども殺される。でも、君は何度死んでも何度でもすぐに生き返る。だから、縛られていた方がいいのでしょう。でも、ねぇ、なんて皮肉だろう。まるで、死ぬ気弾みたいだと思わないか。死んで、生きて。何も変わらないじゃないか。あの子が消えたことに、生まれたことに何か意味はあったのかな。いいや、僕が言いたいことは、違う。そもそもないんだよ。どうすることもできない、何をすればいいのやらって考えて、君と取り留めもない話をしたいと思っただけなんだよ。身勝手な話を、いいや、君が聞いているということは、僕の話が、君にとって生きる為に必要なものだったということかな。バミューダは、ゆっくりと、ゆっくりと、まるで自分に言い聞かせるように話していく。
「あの子は…?」
そんなバミューダに、綱吉が初めて口を開いて言った言葉は、やはり、リボーンの預かり知らない事柄を含んでいるようだった。そして、バミューダが首を横に降ると、綱吉は興味が逸れたのか、それともバミューダが言う通り、話に価値がないと判断したからなのか、あっさり体を横に倒した。倒れてきた体を受け止めて、バミューダに目を向ける。
「話は終わったみたいだね。」
自分の視線と雲雀の言葉に、苦笑したバミューダは、そうだね、と言って、小さく息を吐いた。張り詰めていたものを吐き出せたような満足そうな表情を浮かべている。彼は本当に話をしたかっただけなのだろう。今は眠っている綱吉に、一方的にしろ、話を聞いて欲しかった。さっき、バミューダが話したことは、彼がずっと思っていても、言えなかったことだったのかもしれない。それを言った彼が、言えた素直な彼が、不器用な自分には酷く羨ましく感じられた。

−8年前−
 「気になるかい?」
日差しの差し込む居間の絨毯の上、老人の懐の中で栗色の髪の毛を日に当てて輝かせている幼子が丸くなっている。人見知りなのか、幼子に若干のぎこちなさが見受けられるが、無防備に体を預けているところを見ると、警戒はしていないようだった。子猫を想わせる姿の幼子の視線は老人の指輪に注がれて、きらきらとした眼光が揺れている。老人は、そんな子どもに少し寂しそうな視線を向けて、膝の上の小さな頭を指輪の嵌った手で優しく撫でた。
「出来ることなら、君には…。」
平穏な暮らしを、と消え入りそうな声に子どもが首を傾げる。
「幸せかい?」
老人は心配をかけまいと声音を変え、倒れた子どもの細首を抱え込み、頭に回った皺だらけの手で綿菓子のような髪の毛を掻きまわした。髪をかき混ぜられる心地よさに、目を細めた子どもがはにかむような笑顔を見せる。
「その幸せを君がずっと感じていられるように、祈っているよ。」
老人が目を瞑って子どもの頭に顔を埋めていると、卓上にカメラと並べ置かれた携帯が小刻みに震えた。ごめんね、と老人が子どもに囁く。老人が名残惜しそうに子どもから顔を離し電話に出ると、少ししてその顔に深い皺が刻まれた。その皺を背伸びをして撫でる子どもに、老人の硬くなった表情が柔らかく解されていく。いってらっしゃい、と声を出さずに口にする子どもに老人の顔が驚きに濡れて、すぐさま苦々しく歪んだ。そちらに向かう、と一言添えて電話を終えた老人が子どもを下ろし立ち上がると、子どもが老人のズボンの裾をぎゅっとつかんで引きとめた。
「またね。」
「ありがとう。お父さんに、留守を預かっていたのにすまないと伝えておくれ。」
2人並んで玄関を出て、小さな門扉との間で立ち止まったところで、老人が別れを惜しむように子どもを抱き締める。ぎゅうっと子どもを抱える腕は衰えを感じさせないほどに力強く逞しい。温かさに満ち溢れ、頼もしい。その腕が離れ、黒塗りの外車に吸い込まれていくのを、子どもの真ん丸な目が見送る。エンジン音とともに老人を連れていく箱に微動だにしなかった子どもが、別の黒い何かに抱えられて玄関の奥の暗闇に消えていったのは、それから間もない頃のことだった。
「留守は私が預かるよ。」
閑散とした家の中に若い男の興奮した声が響き渡る。その男の腕の中には子どもがいて、先刻から老人の指輪の触れた個所に手を当てていた。熱に浮かされたように瞳を濡らす子どもは、その個所が余程気になるのか、男の存在にすら気付いていないといった様子。自分に見向きもしない子どもに腹が立ったのか、男は子どもを乱暴に床に放り投げると、子どもの服を剥き、その小さな体を自分の体で覆った。男の、体を弄る手に子どもがようやく気付くものの、がっちりとした体躯に押さえられていてはどうにもできないのだろう。子どもは男の体の中でぽろぽろと涙を流している。男の獣のような息が子どもに降りかかる都度、子どもの頬は涙に濡れた。
 気味悪さと恐怖とで、動けないのに、逃げたい気持ちばかりが募って行く。同じ人の筈なのに、目の前の生き物は生々しく恐ろしい怪物のようにみえた。その怪物に抑えられている手足は怪物の熱で痺れるように熱い。いっそ、この熱で手足が溶けきって仕舞えばいいのに。そうやって、太腿、腕、お腹、首、男が触れるところが溶けて仕舞えば、最後には跡形も無くなって男に触れられることは無くなる。そんなことがある筈もないけれど。男は熱くないのだろうか。こんなに熱い手をして、息をして、なのに笑っている。泣き続ける自分とは間逆のこの男の考えていることなんて自分には一生をかけても理解できないだろうから、遠くない未来、訳も分からないうちに、自分は殺されるのだと思った。男の舌が首を掠める。熱いそれが滑った肌が後からすうっと冷たくなって、何度も繰り返されるその感覚に、身を震わせた。
「あぁ、やっぱりかわいいね。白くて小さくて。遠くから見ていたんだよ。ずっと。」
漸く終わりを見せた行為にほっとするのも束の間、男がぎゅっと体を雁字搦めにして、ごそごそと音立てた後、臀部の割れ目に何か熱いものを当てた。熱くて湿ったそれが何なのか分からないまでも、菊口に押しつけられるそれに、何かを入れようとしているということは分かったので、ごめんなさいと何度も小さく謝っていると、男がにいっと白い歯を見せて笑った。興奮で歯の隙間から洩れでる男の息は白んでいる。体を掴んだ手の力が強まって、菊口を押す力にも綱吉の体はびくともしなかった。押されて増す肉の引き攣る痛みに視界が滲む。
「入ったよ。」
痛みに腰を僅かに動かすと、息を吐きながら嬉しそうに呟く男の肌が臀部に密着しているのが分かった。汗で湿って気持ちが悪い。腸を蹂躙される気持ち悪さも相まって、吐き気を誤魔化すために生唾を呑み込む。泡立つ音と吐息音が男の体の中で反響して、誰もいない玄関に木霊した。
 「また出ちゃった。」
その声と体内に広がる液体への不快感に顔を歪める。助けて欲しいという気持ちが多少はあるが、当てがない。自室の時計を見た時は、既に2時間が経過していた。両親のことだから、いつものように買い物ついでに旅行へ出かけたのだろう。この間、買い物に行ってくるといって、1週間後に帰ってきた両親が、日本を制覇したと嬉しそうに言っていた。だから今回は海外にでも行ったのではないか。男もそれを知っていると自慢気に話していて、時間はたくさんあるからと、家の彼方此方で自分を犯した。玄関から先刻まで祖父といた居間に移ってソファの上で数回、そこから台所に行って調理台に寄りかかりながら数回、両親の寝室で、それから自室で、自分の全てを犯すように何度も何度も。浴室に至る頃には体を動かす力もなくなって、男に身を預けるばかりになった。男の足の間に挟まって、男の手に導かれるがままそれを咥える。頭を揺すられているせいで、頭上のシャワーノズルから降り注ぐ水音の音量が変化して、脳をがんがんと打った。苦しさに瞼を閉じると、顔にお湯がかけられて息ができなくなるので、意識を逸らすことも出来ない。少しでも歯を立てようものなら、口は役に立たないと言って下を犯される。平常でさえ引き攣るような激痛を訴えているそこを犯された時の増した痛みを思えば、男のそれを噛みちぎった時の仕打ちが怖くて力なんて入りそうもなかった。馴染んだ苦味を呑み込んで、満足そうに空になった口内を覗く男の顔を見る。眼光がぎらぎら光って、怪物のようだと思った。
 目が覚めて、夢かと思った刹那、覚えのある痛みと匂いと覚えのない景色に瞠目してゆっくりと起き上がる。じゃらん。硬質な音。首を絞める首輪から伸びて南京錠で寝台の脚に繋がれた鎖がゆらゆらと揺れている。逃げられないこと、ここが自分の知らない場所であることを確信すると、恐怖を示すように心臓が大きな音を立てて血液を送り始めた。乱雑に出来た本の山、本に埋もれた机の上のマグカップと食べかけのサンドイッチ、綱吉が眠っていた寝台には皺くちゃな服、レンズ付きフィルムとインスタントカメラが置かれていて、それらで撮ったであろう写真が、散らばっている床。壁にかかった真っ黒なカーテンは一切の光源を遮って、本が香る部屋を黒くしている。机の上のノートパソコンの明かりがなければ、完全な暗闇になっていただろうこの部屋はあの男のものだ。本の香りに混じった匂い、ベッドに置かれた皺くちゃな服はあの男のものだった。いつやってくるか分からない男に不安を感じながらも、ベッドにも散らばっている写真を拾って、その中の眠った自分を見る。公園のブランコに乗ったまま眠ってしまうことが多々あったのだけれど、これはその時の写真だった。また一枚拾って見る。今度は、近所にいた猫を撫でている時の写真。もう一枚拾って見る。これはその猫が公園のブランコの下でばらばらに、ぐちゃぐちゃになっているのを見つけて、その下に埋めた時の写真。餌なんて持っていないのに、公園に行く度、綱吉の後をついて来ていた猫が、ある日突然現れなくなって、ようやく現れたと思ったら、目を凝らさなければ何だか分からないものになってブランコの下にいた。ブランコに巻き込まれたわけではないことは直ぐにわかったけれど、どうしてこうなったのか分からなくて、ごめんなさいと謝りながら肉塊を放った穴を埋めたのを覚えている。その分からなかったことが、次の写真を見てようやく分かった。赤黒い小さな物体や液体が黒い毛皮と綯交ぜになっている写真。おそらく、猫のそれと思われる写真に全身の力が抜けていく。死骸に対してではなくて、猫の頭に当たるであろう部分に貼り付けられた母親の顔に対しての恐怖。その写真が示す意味に薄々気づいて、力が抜けた先から震えが起きた。男の何の琴線に触れたのかは分からないけれど、殺された。そして殺される。今度は最愛の人を失ってしまう。そうして、自分は何を思うのか。悲しむのか、喜ぶのか。自分の履き違えた恐れが気持ち悪い。腹の底が黒い自分が気持ち悪くて気持ち悪くて、なのに自分が腹から吐き出したものは気持ち悪いくらいに白かった。吐いたせいか喉が熱く痛い。一度咳をして、何の感慨もなく自分の吐き出したものを眺めていると、その白に紅い点が滲んだ。その点が多くなって、白を上塗りするように赤が広がる。その赤の出所が自分の口だと気づいて、そっと目を閉じた。口から伝う血が乾いていく。鉄臭い匂いが鼻をつく。がちゃりと音がして目を開くと、ぎらぎらな目をした男が目の前にいた。目が暗闇に慣れていないのか、よろけながら近づいて来た男が、割れ物を扱うように自分の顔を両手で包んで、にやりと笑う。
「出しちゃったのか。また、入れ直さないと。」
ズボンを下げ始めた男には顔を濡らす液体が紅ではなく白に見えたらしい。そのことにほんの少しの妬みが胸を焼いた。
「おじさんは、ころすの。」
そんな、ぎとぎとした心中で投げかけた言葉に男の動きが止まる。 男の黒目がゆっくりと下がって自分の手の中の写真が見える場所で止まり、男は興奮したように白い歯を見せて笑った。
「そいつを含めて君の周りの人間を全て消す。僕と君の生活を邪魔されない為にね。」
「…やめて。」
「君は僕だけを見ていればいいんだ。」
何処までも黒い男の眼を見た直後、ごとんと何かが落ちる音が聞こえた。

 男の声が篭って遠くなっていく。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。そう繰り返した自分の言葉すら小さくなっていく。一連のことを何処か他人事のように思っていながらも、殺すと言われたわけでもないのに男に触れられる度に底冷えする死の恐怖を感じることくらいはあったのに、許容範囲を越えてしまったのか、感情のほとんどが音と一緒にどこかへ飛んでいってしまった。なのに、全身の感覚は恐ろしく冴えている。男の眼球を抉った先の窪みの感触。暴れる頭に腕を回し、目一杯力を込めて噛み付いた首の肉の感触と鉄臭い味。写真もろとも真っ赤に染まった床には男の体と黒猫の頭がいくつも入れられたビニールが転がっている。そして、そのビニールから転がり出て足にぶつかった球体の感触、その他諸々を感触の根源から離れても断続的に体に蘇るほどに色濃く感じた。何も思わないくせに、と思いながら足に弾かれた球体を拾い上げて眺める。言い訳にしかならないけれど、言い訳したところでどうにもならないことだけれど、それは人の頭だった。男が部屋に入って来た時、手からビニール袋を提げていたのは見えていたし、その中の大量の猫の頭も見えていたのだけれど、人の頭は猫のそれに埋もれていて、男が袋を落とすまで気づかなかった。気づいて思う。誰かは知らない髭の長い初老の男性の頭を見て、この男は母を同様に殺すことができる、と。これをやめてもらうには、男が動くのをずっと止めればいい。早く命を摘まないと。壊さないと。奪わないと。首輪に繋がれていても、力や道具がなくても、人には隙間があって、自分には歯がある。男の目の窪みに指を入れて眼球を抉って、首筋に噛み付いて肉を噛み千切れば、血を噴き出しながら男は倒れて死んだ。その瞬間、ぷっつりと緊張の糸が切れて、血液が体を巡るような感覚と何処かに飛んで行ったはずの感情が戻って来た。安堵にほっと息を吐きながら、その男の懐を探って2つの小さな鍵を取り出す。首輪と寝台を結ぶ南京錠の鍵穴と首輪からぶら下がる南京錠の鍵穴にそれぞれ合う鍵を差し込んで回せば、あっさりと南京錠が外れた。それから部屋を歩き回って見つけた台所の物入れとクローゼットから取り出してきたビニール袋とモップを手に、部屋の掃除をする。賃貸の小さな間取りの部屋のおかげと、血が乾く前に掃除に取り掛かれたおかげで、思っていたより早く部屋を綺麗に出来た。血に濡れた物を袋の中に纏めて入れたために、もとより綺麗になったくらいで、加えて、特殊清掃員のように道具がないからと念入りに部屋の彼方此方を見て回ったおかげか、ためになる情報を幾つか得た。持ち運びを楽にする為に男の体を節目ごとに解体しながら、得た情報を元にこれからのことを考えて数十分。赤く色付いた複数の袋を男の部屋にあったスーツケースに詰めて、ものが少なくなった部屋を後にした。
 祖父が家を出てから男の部屋を後にするまで、どうやら1週間が経っていたらしい。男の部屋にあったパソコンの表示した時刻が誤りでなければ、1週間の出来事をたった1日の出来事だと思っていたことになる。違和感は無かったのに。真っ暗な公園のブランコに腰掛けながら、夜空を紅く染める月を見る。世界が紅い。紅い世界。手が紅い。紅い手。染めた自分も紅い。紅く染まった自分。空になったスーツケース、真っ赤な肉、真っ赤な写真は全てこのブランコの下に埋めた。怖いヒトを埋めた。怖いものを埋めた。自分を除いた全ての異物を埋めた。自分は異物。どこに埋めればいいの。自分は化物。どこに埋まることが出来るの。埋めないと。殺さないと。こんな真っかな化物が存在するのはおかしいから、いけないから。うるさい。痛い。自分を責める声が、自分と同じ声が、頭の中に響いてくる。頭の中に誰かがいる。死の恐怖を感じた時から徐々に表れた誰か。自分を卑下してばかりの誰かと、人間臭いどこまでも優しい誰かがいる。全部、いけないの。悪いの。だめなの。代わって生きてよ。喉元に爪を立てて線を描く。ぼたぼたと生温かいものが流れ落ちて、素肌を紅く染めた。
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