Hurts


―***―
 セカイは紡ぐ。苦難に屈しろというのなら、この両足を断とう。立てなくなっても、起き上がることならできる。悲痛に涙を流せというのなら、この視界を断とう。視るものはなくなっても、願い夢見ることはできる。屈辱に泣き叫べというのなら、この喉元を断とう。言葉を発することはなくなっても、想う心はある。喉を斬って君自身を殺しなさい。セカイは見つけました。それは特異なるもの。それは本来在るはずのなかったもの。
 セカイは繁栄を持続させるため、トゥリニセッテの継承者に9代目の2人目の子ども、XANXUSを選定。1人目の子ども、沢田家光を彼を守るための駒にしました。それは、トゥリニセッテが受け継がれるのに充分過ぎるほどの配慮。これ以上駒を増やしたところで、欲深い人間の数が無駄に増すだけでした。それ故沢田奈々に子どもは不要であり、満を期して子種が宿らない身体にさえしたのです。けれどセカイの思惑が罷り通ることはありませんでした。完全などんでん返し。XANXUSが9代目の養子として現れ、家光と奈々の間に生まれる可能性の万が一もなかった子どもが生まれてしまったのです。その子どもはセカイにとって接触を拒まれる唯一のイレギュラーな存在でした。セカイは予定調和を狂わせたその異物に危機感を覚えて、9代目の兄という新たな存在を生み出したわけですけれど。弟である9代目に全てを奪われた人間。憎しみに染まったその人間の手にイレギュラーな子どもが掛かればいいと仕組んだわけですけれど。それはとんでもなく軽薄な行為でした。愚かしいにも程があるこの行為は、今はもう懺悔の対象でしかありません。幼子が胎内から引きずり出され、その瞳がセカイに向けられ恐怖する様を見て、セカイは考えを改めました。人間の概念で言うなら後悔したと言うべきでしょうか。思惑は的外れだったどころか、今となってはセカイに仇名す凶器として矛先を翻している始末です。その幼い身体が内包する力。流れる血。子どもが失われれば手に掛かるのはセカイの方でした。気付いた時にはもうトゥリニセッテの適合者である彼を消すためのいくつかの歯車の仕掛けが動きだしていたのです。生憎セカイは一度定めた予定を変えることが出来ません。彼に触れることも傷つけることも到底叶いません。はてさて、弟の直感から逃れ得る兄の手から彼を逃がす術はないものかとセカイは必死に考えました。そしてそっとリングに触れてその中に渦巻いている人の業、人の生きるという概念、子どもの特異をセカイは知ったのです。欲をむき出しにして生きる人間。それを見て、彼らの様に生き、強大な力で以って絶対的な繁栄を築きたいともセカイは思いました。そのために必要なもの。
 あぁ…あぁ、彼が欲しい。

―***―
 バミューダは語る。暗闇で煌く炎よりも純粋で暖かい彼を想いながら、バミューダは知る限りのことを逡巡させた。沢田綱吉の身体は途方もないエネルギーを内包している。人間の身にはいささか大き過ぎるそのエネルギーを彼が抑えていられるのは、彼が無意識化で人間足ろうとしているからだろう。それは何故か。セカイの根源の願望が「生存」であるならば、異物の願望は「存在」だからだ。生きようとする人間の意志が集まったセカイと、如何なるものとも異なった生を強固に示す異物。これら「生存」しようと必死なセカイと「存在」することに重心を置く異物に明確な違いはない。その理に反するということはつまり、存在意義、もしくは存在定義を失っているのと同義。人間の意志が「生存」するために予定調和を定めなければならないのと同じように異物もまた、セカイで「存在」するために人間で在らねばならないのだ。比較できる人間がいるからこそ彼が異物だという証明になり、異物がいるからこそ人間は危機感から生の欲求を強くするという持ちつ持たれつの関係がそこには窺える。だからこそ、セカイは世界に在り余る命を犠牲にし彼に分け与え、『人間』として延命させた。つまり、エネルギーで生きていた異物を人間の命で生かせることでセカイの領分である人間にしたというわけなのだけれど。それを、彼を支配下に置けるよう彼の命の根源であるエネルギーを、指輪を通して人間の命にすり替えた。指輪を通し、彼の邪魔をするいくつもの人間の命を奪っては彼に還元する方法。これは、何十人何百人もの命を与えられた彼が何十人何百人分もの命を生きなければならないという事に他ならない。これからも与えられ続けるということはそれ即ち、不死身になるということ。それを指輪に頼らなければならなかった経緯というのは、だから、9代目の兄が彼を殺してしまわないようにする手段、つまり、直接干渉できない彼に間接、絶対的干渉が出来る唯一の方法、この場合ボンゴレリングの改変を行うことが最善の策だと思われたからだ。改変。彼がリングを手にした瞬間無限に生き続けるといった細工は、セカイに直結し彼と深く関わるトゥリニセッテでしか出来ないことだった。生まれた彼を見守り、彼にとって害あるものを殺し、念を押すように彼に呪詛を与え、そして終にセカイは彼という器を手に入れた。後は中身だけ。指輪で繋がれた彼が逃れることは最早不可能。これで永遠に彼は世界のものだと豪語するセカイが目に見えるようだった。

―沢田家―
 「…早く、生まれてこないかしら。」
熱をもった腹部を優しく撫でて、その熱源に囁きかける。肉の内に守られたこの世でたった一つの存在。写真も指輪も家も元をたどれば、他人の手垢に塗れた人工物だ。故に、愛しい人と交わり出来た形あるものは特別以外のなにものでもない。沢田奈々は誓う。己と手前とで成し得た命を自身の命と引き換えにでも、大切に、大切に、育てて行こうと。それは、添い人との特別な合作で、添い人と同じくらい愛しいものであるから。
「あなたとわたしの子なんですもの。きっと、とても勇ましくて優しくて…。」
大空の様に心の綺麗な子に育つわ。
 痛みで目の前が暗む。数時間前には、お腹を下したのかしらと呑気にトイレに籠ろうとしていた程度の鈍痛が今では激痛に代わっている。病院に運ばれて、もう何時間も経ったように思うのだけれど、目の前にいる助産師と付き添いに来た夫の顔さえ正視できない有様で、今が一体何時なのか確認しようもなかった。一定の間隔で訪れる痛み。脳に響くそれに、もしかしたらこのまま自分は死んでしまうのではないかと錯覚しだんだんと心細くなっていく心を手を握り締める温もりだけが支えてくれる。痛い痛いと叫んでも手を強く握り締める夫がこの痛みを共有できるわけでなし。一見してなんの益にもならない繋がりだけれど、その温もりはこの先、生まれてくる赤ん坊への愛を目一杯助長させるには十分だった。乗り切れる。乗り越えた先、あんよも出来ない我が子を抱きしめて、頬ずりして、幸せそうに微笑んでいる自分と夫の姿が見える。今の自分に出来ないことは何一つないのではと思えるくらい希望が一杯溢れて、退室しようとする夫に精一杯の声で、この子とたくさんしたいことがあるの、と囁きかけた。振り返った夫の顔は果たして笑っていただろうか。確かめる余裕もなく意識が斑になる中で、脳裏に夫の笑顔を浮かべた沢田奈々は確信する。この子どものために自分は自身の全てを捧げよう。この子が命の危機に直面しようものなら、それを自身の身を呈して退けるのは勿論のこと、時には叱って、時には自分から離れたりもするけれど、それでもやっぱりこの子を自身の存在意義として、世界の中心として、全身全霊で守っていこうと思うのだ。小さな産声が徐々に鮮明に成っていくのを聴きながらゆっくりと目を開ける。待望に胸躍らせ、歓喜に内震える心。痛みなんて忘れた。
 そのすべてが打ち砕かれた要因は布にくるまれた我が子を視認して笑いかけた瞬間に起こった。泣き声がぴたりと止んで、小さな体が急激に強張っていく。足を曲げ、手を固く握り、くるまれたタオルに身を縮めたその姿。爪なんて柔らかなものだろうに、強く握りしめた掌は皮が裂けて血が滲んでいて、その赤ん坊が、恐怖した、沢田奈々という存在を拒んだのだとそう思い至る。希望も喜びも何もない。
 そのまま意識を失って、目覚めた時、差し出された赤ん坊は、曇り空の様に黒ずんで見えた。沢田奈々は考える。自分の存在意義が無に等しいものだとして、それを如何に挽回すべきか。普通に考えて、そんなのは存在意義を手ずから見つければ済んでしまう話なのだけれど、自分の場合は勝手が余りにも違っているために、変えて挽回できる話ではなくなっていた。そもそも存在意義を見つける云々を、このような簡潔な言葉で締めくくってしまうのはどうかと思うが、それは人の程度に関わることであるし、存在意義を持たない死にたがりの人間の話をしたいと思う酔狂な心は持ち合わせていない。だからつまり、この化物をどうするべきか。沢田奈々にとっての存在意義はこの答えを考えることにある。沢田奈々はこの世にあってはならない化物を目の当たりにしてしまったのだから。どうしてその子どもは幼いながらに本能に逆らってまで母親という存在を認めず、恐れることが出来たのか。答えは簡単。その子どもが化物だからだ。では、自分はその化物をどうすべきか。自分の存在意義を奪った、つまりは自分を殺したこの化物をどうしなければいけないか。答えは簡単。殺してしまえばいい。しかし、この化物は、殺されて当然のことをしておきながら今ものうのうと生き続けている。それは、この化物が人間の皮を被っているために、社会の法が適用されてしまうからだ。すべてを捧げたかったのに。忌々しくて殴り殺してしまいたい。あぁ、殴り続けていれば、いつかは死んでくれるだろうか。
 いつの間にか化物は人間になっていた。これでは、自分が悪者になってしまう。だから悪者にならないよう、自分が思う理想の母親を必死に演じた。しかし演じているうちに、自分はどうやら完璧な理想の母親になれたのだと錯覚してしまっていたらしい。ある日、化物だった我が子を殺す自分の夢を視た。夢だと分かって、醜い自分が露わになって、どうしようもなく嫌になって。全部、化物が悪い。そう思って、玄関から入って来た化物を睨みつける。物干し座を突き刺した肉は柔らかかった。人間のようだった。さぁ、化物はもういなくなったのだから壊れた心を元に戻すために全ての記憶を消そう。

―イタリア―
 メルキオッレの生涯は恥辱に塗れている。彼のプライドがズタズタに引き裂かれ、身の内に憎悪という怪物を飼うようになった頃には、弟の目に映る自分が酷く醜い塊である様に眉を顰める程になっていた。果たして幼き頃よりメルキオッレはボンゴレの系譜に自分の名前が連ねられる未来を魅ている。期待と偽善で満ちた大人が利用価値のある自分に媚びを売りながら、生地の屋敷に飾られた系譜の最下部にある名前を指して言っていたのだ。この下にあなたの名前が加わるのはそう遠くない未来だろう、と。その言葉が嬉しかったのか、つまらなかったのか。幼いながらも家の在り方に理解と誇りを持ち、家督を継ぐことを当たり前として来たメルキオッレは、にっこりと笑ってその人間に、家名を継いだならばお前にそれ相応の地位を約束しようと告げた。どこを歩いていても両脇に整列した人間が頭を下げている。そんなことだから自分の後ろにはボンゴレという大きな力があって、だからそんなことは容易く出来てしまうだろうと錯覚していた。恍惚と自信に満ち溢れた心持でボンゴレリングに指を通した時、力も未来も自分にはなかったのだと知るまでは。
 リングをはめた途端に全身から真っ赤なものが噴出して初めて痛みを実感する。壮絶な痛みの余り、形振り構わず周りに助けを求めても、いつも頭を下げて機嫌をとっていた連中は全く手を貸そうとはしてくれなくて。どころか、能力の発露もなかったようだしやはりだめだったか、と呟く大人達の目はメルキオッレという存在を全く見ていなかった。
「下の子どもは、これと違って優秀らしい。そちらに期待するとしよう。」
それらの目にはもう既に次の肥やしが映っていた。メルキオッレが気にも留めなかった弟。今頃、どんな顔をしているのかも思い出せなかったどうでもよかった弟に、どう媚びを売ったものかと彼らは思案しているのだろう。その中には地位を約束した男もいて、弟に同じ笑みを浮かべて言っていた。系譜にあなたの名前が加わるのはそう遠くない未来だろう。悔しいよりも苦しくて。哀しいよりも痛くて。憎くて憎くて堪らない。溢れ出て来る涙は止まらなくて、何も知らずに微笑んでいる少年を殺してやりたくて仕方がなかった。少年が前まで自分がいた場所で悠々と笑っているのに対し自分はこうして無様に地面に這い蹲っている。リングを嵌めて地面に伏した自分に手を差し出す弟の顔が歪んで潰れた。
 リングを嵌めた後遺症で子種さえ出来なくなった体は、今も無数の傷で覆い尽くされている。その傷を見るたびに、心の奥底から抱えきれない程の醜悪な感情がどれだけ溢れ出たことか。弟をただ殺すだけでは治まらない。弟が自分から奪ったように、弟から力と未来を奪い帰す。
「沢田綱吉という力と未来を奪ってやる。」
奪って、傷つけて、散々こき使った後に襤褸雑巾の様に捨ててやるのだ。

―並盛中学校―
 腰を抑えつけられて、ベルトを乱暴に引き抜かれる。チャックの下ろされる歪な音とともに、全身から血の気が引いて行くのが分かった。これから何をされるのか。真っ赤な華を咲かせた鏡が教えてくれている。花弁の隙間から見えるそれが全てを物語っていた。自分は、同性愛者に格別な偏見を持っているわけではない。だからと言って同性の者に性的な感情で自身を見られて無心でいられるわけはなく、やはり気持ちの悪いものだと思うくらいの偏見は持っている。否、理解できないものが気持ち悪いが故の他人嫌悪と自己嫌悪と言うべきか。だから自分に欲情し、吐きだめにしようとしている彼らが正直言って気持ち悪い。殴る蹴るの手段があるのにわざわざ自分を穢してまで侮辱しようとする精神が気色悪くて堪らないのだ。一番気持ちが悪いのは結果として彼らを穢してしまう自分で、だからその延長上で彼らを嫌悪しているに過ぎないのかもしれないけれど、怒りを性処理でまぎらわそうとしている彼らを許容しようとはやはり思わない。そもそも彼らのしようとしていることは間違っていない。だから許す事柄もない。怖くて吐き気がするだけ。怒る彼らではなく、自分で己を傷つけてしまった彼らが。下着を脱がされ外気に晒された臀部に直に熱が押しあてられる。
「…なぁ、男に犯されるってどんな気分だよ。」
荒く息をした声が聞こえて、この声の持主が自分を犯そうとしているのかとぼんやり思いながら勝手に零れていく涙を傍目に首を振った。
「何とか言えよ。」
前髪を引っ張られて涙で濡れた顔を上向かせると、にやりと笑った男の顔が見えて息を呑む。熱の塊が肉を穿った。
「…ゃ゛…やだッ……ぁ…ッッ…ごめ…なさ…。」

―手洗い―
 自分の性格を直したいと常々思う。仕方がないと割り切っていたくせに、母親との関係が余所余所しくなって以来、言葉を交わさなくなってしまった事に対して寂しさを覚えているのだから、我儘と言うかなんというか。子どもらに恐怖させまいと嘘まで吐いた口が聞いて厭きれる。苦しくて、切なくて。もういちど楽しく過ごしていたあの毎日に戻りたいなんて考え、烏滸がましいにも程がある。この烏滸がましい性格を直したい。簡単な話、その感情ごと捨ててしまえばいいのだけれど、今度はその感情が生き延びようと邪魔をする。存外、自分はこのダメ人間を形にした性格を頗る気に入っていた。こんなことだから、いつまで経っても欲張りで。益せた言い方をすれば欲張りな自分が生き延びられるほど世の中楽ではないというのに。自分の非を消そうなんて卑怯な手を考える時点で既に性根が腐っているわけだけれど、捨てられればどんなに楽か。その愚直の末、つまりは沢田綱吉の人格は身を守るために他人を真似た偽物であるから簡単に捨ててしまえるだろうと油断した結果、まんまと泥沼に嵌まったのはいただけないにもほどがあるというものだ。

―廊下―
 群れているものは総じて弱いというのが雲雀恭也の見解だ。周りの人間は雲雀のこの持論を不合理だと決まって宣う。持論に合理性があるかないかなんて雲雀の知ったことではないけれど、人が持つ見解にしては随分と偏っている気がしないでもない。いや、全くしない。そういう、所謂草食動物の群れに全く興味のなかった自分が、あろうことか下手をすれば草食動物よりもひ弱な生物と関わりを持つことになるなんて予想だにしていなかった。そのひ弱な生物の名前を沢田綱吉と言う。名前はどこぞの将軍よろしく勇ましいことこの上ないが、本人の性根は何処までも柔らかく脆い。トンファーをちらつかせただけで歩行もままならなくなる、そんな彼の名前を近頃はよく聞くようになった。雲雀恭也、ひいては風紀委員に流れる噂といったら物騒なものに限られる。というか、噛み殺す系に限られる。だから彼の名前を聞いて風紀委員一同が首を傾げたことは言うまでもない。彼の名前を聞くことは何度かあったが、剣道勝負しかり校庭発掘事件しかり、いつも誰かの名前に追随した形で聞いていたから、まさか誰の名前にも付随せず、事件の火種として報告係に名前を挙げられるとは万が一にも予想していなかったわけで。だからなのか、戦う事ばかり考えていた自分が近頃は彼のことばかり考えている。
 だから。本当に、だからなのか。結論付けてしまうには余りにも安直だ。彼のことが雲雀の脳内で戦う事よりも優先されたという事実がこじ付けした理由と矛盾している気がして、雲雀は首を傾げた。その疑心も直ぐに掻き消されることとなる。

―手洗い―
 沢田綱吉は感情を持っている。ただ、その感情の数が人よりも格段に少ない。沢田綱吉が持っている感情は恐怖と嫌悪だけだ。人の振る舞いは全て偽物で、沢田綱吉は喜怒哀楽を自分、或いは綱吉として表現することで人間としてのバランスを保っている。だから、今こうして悲鳴を上げ心中で自己嫌悪している沢田綱吉は素の状態といえよう。その目に宿る恐怖と嫌悪の色は本物だ。授業の最中。セカイを前にした時。双子を初めて見た時。死んじゃえばいいのにと教室の前で言われた時。家の近くで死ねと言われた時。自分が死ねないことに気付いた時。そして今。その目の色が宿る機会は多かったのにその色を見た人間は誰一人としていなかった。

 廊下から階段に移り、下りていく。始令が迫って駆け上ってくる生徒が雲雀に気づいて速度を落としているのを横目で見ながら、最下層まで降りると小さな音が聞こえて首を傾げた。どうやらそれは階段横の男子トイレから聞こえているようで扉の前に立つ。清掃中の板がドア前に立てられているけれど、それにしては荒々しい音がする。ガンガンと壁を叩くような音に混じってくぐもっているが聞こえたのは間違いなく人の声だ。雲雀の頭にいじめ、喧嘩、という言葉が浮かび、次いで群れが連想された。日頃の鬱憤を晴らすには最適かとドアノブをトンファーで壊し、中に足を踏み入れる。
「あ゛?入ってくるんじゃ…。」
足を踏み入れてた雲雀に驚いた声が掛けられる。声の持ち主の顔を見ると汗に濡れて高揚していた。いじめや喧嘩にしては妙な高ぶり方だと思いつつその男の顔から視線を横に移す。壁に設置された洗面台と鏡が真っ赤に染まっておりにそこに項垂れた生徒がいた。その生徒の有様に瞠目して握っていたトンファーが手から滑り落ちる。
「その子…に、なにしてるの?」
その瞳に宿る不吉な色から目が離せなかった。

 校舎に立ち並ぶ木々の葉が少なくなっていくにつれて自室の私物も少なくなった。ゲームや勉強机をランボ、イーピン、フウ太やビアンキが、奈々から貰ったと言って使っていた。漫画は全て捨てられ、ベッドはビアンキの寝床になった。私物どころか綱吉の自室は実質なくなった。洒落を言っている場合ではないのだけれど、殺風景になっていく自分の世界に対して洒落でも言っていなければやっていけない。それくらいに現在の綱吉の自室は寂しく寒い所だった。朝、家の中のどこかで寝ていましたとでもいうような顔をして居候の前に姿を現す前に居る場所、沢田家の屋根上の布団がおかれた場所がそうだ。夜になれば雨具や制服や学校鞄が布団に加わり若干豪勢になる。そこで横になると空が見えて気分が安らぐが、季節が冬なだけにとてつもなく寒い。寒さをしのぐために綱吉は体操服の上にジャージを羽織って寝ている。当然寝汗をかくから洗濯をするのだけれど、学校があるから昼には洗濯ができない。だから雨天日以外は夜明けにコインランドリーで洗濯をしてジャージと布団を屋根に、レジャーシートの上に敷き、日に当てる。日の匂いのする温かいジャージと布団は寒天の下の身には有難い。でもそれらはすぐに冷めてしまうから終いには体をがたがたと震わせながら眠っていた。
 笑ってるみたいだと思いながらいつもは眠りに落ちるのだけれど、体ががたがたと震えている今、眠りに落ちる気配は全くと言っていいほどない。眠っていればこの現実に向き合わなくても済んだのに、流し台に流れる血を見て寧ろ意識は冴えていくばかりだ。冴えた意識で綱吉は考える。考えて、推測した未来を思い浮かべて過去を懐かしんで嗤う。自分はこれから先、一歩たりとも動かない方がいい。動いても、あの双子がいては反って悪い未来にしてしまう。やってみないと分からないじゃない、なんて漫画みたいなことを自問して葛藤しても意味がない。最善の未来を創るには動かないことが最善の策だ。はてさて、最善の未来には誰か傍にいるだろうか。こんなことを考えるなんて傲慢かもしれないけれど、仲間を見つけた後の独りぼっちはやっぱり苦しくて悲しいから考える。大切な人や時間がたくさんできた。こんなことならばもっと早く、手を打てる前に、考えていればよかった。もし、誰もいなかったら偽物の人格を捨てよう。苦しさや悲しさから逃げられないのなら沢田綱吉を殺そう。セカイにあげる。そう思って、綱吉はじいっと血溜に映る背後の男の首元を眺めた。

 沢田綱吉と関わると碌なことがある。強い人間に出会える機会は皿にあるし、退屈することもない。事の中心にいる沢田綱吉には柄にもなく感謝している。沢田綱吉は強い。時々弱くなるけれど、強いからいい。彼の強さに相対したい気持ちがある。だから、沢田綱吉の傍にいても群れを見た時のような不快な気持ちにならないのだと思っていた。でも、思い違いだった。碌なことがあることに感謝はしていない。そもそも感謝をする必要がない。彼の強さに相対したい気持ちはあるけれど、応接室は別として、リング戦、未来戦や代理戦の彼の強さにあった大部分の気持ちは別にある。胸の奥にある、もっと強い、抑え切れない気持ちだ。彼を欲する気持ち。着飾った人形を見てかわいいと思い、かわいいものを欲しがる少女の様に戦う彼を見て綺麗だと思い、綺麗な彼を欲しいと思った。世間ではこれを気持ちとは言わずに欲というらしい。今まで戦う者を綺麗だと思うどころか、その者の内面に興味を持つことすらなかったのに滅多なこともあったものだ。人を綺麗だと自分が思うなんて想像もしていなかったからか、今までその気持ちごとなかったことにしてしまっていた。欲に気付いたのは、手洗い場の綱吉の有様を見たときで、綱吉が穢されていると思ったからだ。彼が穢されていると思ったのは彼が自分にとって綺麗なものだったという証。ショーウィンドウに飾られた人形が少女は欲しい。ショーウィンドウの中を見続ける少女の目の前でその人形が売られる。雲雀にとって綱吉は人形なんて生易しいものではない。その存在を奪われたのだ。胸の奥から怒りがわいてくる。怒りはじわりとではなくどっと湧いてきて、脳の血管をぶちりと焼きちぎった。綱吉に被さる生徒の顔を蹴り飛ばす。その顔が飛んでしまえばいいのにと思う。死んでしまえばいいのにと思う。飛んでしまえ。死んでしまえ。飛んで行った顔を追って拳をぶつけていると、赤い液体が飛んできて鳥肌が立った。頬を伝う液体への嫌悪感に吐き気を催す。よろよろと後ずさっていると腰に何かが触れた。嫌悪感はない。寧ろ、体を支えてくれる何かに安堵感すらある。首を捻ると綱吉の片手が腰に置かれていた。
「沢田、綱吉。」
自分のズボンをもう片方の手で押さえながら見上げてくる綱吉の瞳に先刻の色はもうない。なのに、綱吉から目が離せなかった。どころか綱吉がズボンのチャックを閉め、雲雀の正面に回って血に塗れた手に触れるまで全く動けなかった。
「痛くはないですか。」
綱吉の手が触れた瞬間、その手を払ってトンファーを拾いに体の向きを変える。見渡して雲雀がここに入った当時にいた何人かの生徒がいなくなっていたことに気がついた。トンファーを拾いながら生徒の顔を思い浮かべる。けれどトンファーを拾い終えても思い出しそうにない顔に舌打ちして、綱吉を振り返った。
「ねぇ。君、その男と彼らの名前を知ってる?」
綱吉は壁際で崩れている生徒の前に屈みこんでいる。心配そうに生徒の潰れた顔を伺いながら、綱吉は小さく首を振った。丸まった小さな体が何の反応も示さないことに苛立って仕方がない。怖さや怒りに体を震わせていても可笑しくないことをされた筈なのに、自分が傷つけられたことなんてどうでもいいかのような様に、激昂している自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。加害者の心配なんて。傷つけたことを後悔しているなんて。
「…君は、何をされたのか分かってるの。」
「俺は何もされてません。俺がしたんです。」
「なに、言ってるの。」
頭から血を流してへらへら笑っている綱吉の腕を掴んで生徒から引き離す。
「保健室まで運ばないと。」
「違う。君は。」
自分の声が室内に反響してうるさい。君は、の後に続く言葉を呑み込みながら、音の煩さに顔を顰めた。綱吉から感じる違和感の正体を頭の中でぐるぐると考える。
「人を呼んでくる。」
掴んでいた綱吉の腕を放って綱吉に背を向けた。一刻も早くここから離れたい。ここ、というか、怒りの根源から離れたい。扉を潜りながら背中越しに伝えると、ありがとうございます、と嬉しそうな声が返ってきた。
 草壁を連れて来た時には、もう手洗い場に綱吉の姿はなかった。

閑話「喉」
―家庭教師の毒吐き―
 殺し屋なんて職業に就いたからには、それなりの凄惨な未来が待ち受けているはずだ。人を殺す依頼には怨恨が数多くあって、その怨恨が自分に向けられるのも時間の問題だな、なんて根拠もなしにそう思っていた。人を呪わば穴二つ。人をたくさん殺したら、穴はいくつになるのだろう。呪うことと命を奪うことと、較べてみては自分の背後に目を向けていた。背後には沢山の屠った屍が転がっていて、でもそのうちに何かが起き上がって自分を殺しにやって来るのだ。そうして人の醜悪を飽きるほど見てきて、感情が麻痺してきた頃、ボンゴレに拾われた。アルコバレーノのことも含め、どんなに救われたか、言い表せない。ボンゴレの温もりに救われ、初めはその恩返しにとボンゴレのために働いて、果ては、過去の自分からは想像もつかない教育者の真似事もした。体が縮んでしまった自分に9代目が気を遣ったのかもしれないけれど、仕事が子どもの御守だなんて、平和過ぎる日常に何度自分を嗤ったか知れない。嗤っていなければ、過去の重さに耐えられなくて、これは恩返しだと、それこそ恩着せがましく思いながら、過去への罪悪感を拭い去ろうとしていた。それなのに、綱吉という少年に出会ってから罪悪感は消えるどころか増長した。一緒にいて、楽しい、育ってくれていることが嬉しい、愛おしい、と思ってしまう自分がいた。あれだけ命を奪っておきながら、暖かいところでぬくぬくと生きている自分がいた。平和な毎日に過去を忘れてしまいそうになる自分がいた。何度も首を振ってはそんな自分を叱咤していたのに、綱吉は構うことなく自分の懐に入って来て、慈愛の言葉を言った。その言葉は今も自分の中で根を下ろしている。罪悪感を吸い取っている。少し振り返るだけでも、昨日のことまでも、楽しかった。お前が家庭教師で良かった。絶対死なせない。自分の存在を確立させたその言葉は、綱吉にとって慈愛の言葉でも何でもないのかもしれない。それでも、リボーンにとって綱吉は生徒以上の存在なのだと気付いて、だからそれは慈愛の言葉だった。言葉も綱吉も生きがいだ。だから自分の歩いて来た過去とは無縁の日常で、幸せに過ごす綱吉に酷く安堵した。その実綱吉の殆どはまやかしだったけれど。まさか、過去に見た醜悪以上の胸糞悪い日常に綱吉がいるなんて疑いもせずに、外面に騙されて過ごしていた自分が憎らしい。言い訳をするならば、人の命が御手玉のように弄ばれることが日常茶飯事の毎日を生きて来たから、命が奪われるどころか人が傷つくだけで大騒ぎになる毎日を生きて来た綱吉が、まさか、なんて思いもしなかったのだ。声をかければいちいち嬉しそうにしていた綱吉の顔がぼやけていく。おちょくると呆れつつも直ぐに応えていた綱吉の姿が霞んでいく。
 ふと、玄関先で空を見上げていた綱吉が思い浮かんで、かと思うと背景の空色に溶けてしまった。
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