Hurts


第1章 「屹立する脚」
―沢田家―
 「いて。」
朝、目が覚めて頬の痛みに顔を顰める。霞む天井を見ながら手探りで傍らのものを拾い上げた。コルク栓だ。心当たりがあるだけに驚くことなく、寧ろ慣れてしまった自分に呆れながら起き上がる。目下には心当たりのエメラルドグリーンの銃を構える赤ん坊。おはようと言うと、チャオっすと返された。外見の割に随分と済ました物言いだけれど、可愛らしい事情がそれにあることを知っている。舌が回らないせいでカオスが言えないなんて。
 以来、この返答を微笑ましく感じている。大人びた彼の子どもらしい一面を知れたことが嬉しかった。
「蹴り起こされるのも嫌だけど、これも嫌だよ。」
心中を誤魔化すように付け足した言葉に返事はない。彼は既に身支度を終え、仕掛けの片付けに取り掛かっていた。慣れた手付きに見惚れていると、もたもたするなとでも言うように2発目が飛んで来た。
 「ツっ君、早くいらっしゃい。皆が待っているわ。」
床下から聞こえて来た母さんの声に応え、階段を駆け降りる。危うく階段から足を踏み外して鞄の中身をぶちまけそうになったが、無事に食卓に着くことが出来た。肩に乗っていた彼が子ども椅子に飛び移り、食卓を囲む者はこれで自分と彼と母さんの3人。はて、待っているという皆は何処だと首を傾げる。にっこりと笑う母さんが視線を向ける先には階段があって、そこから眠そうにしている同居人達が降りて来た。やられたと独り言つ。遅刻ばかりしているから、急かすためにわざとあんな嘘を吐いたのだろう。まんまと策に嵌められた。
 全員が揃ったところで手を合わせ、出来立ての朝食に手を伸ばす。コンソメスープにフレンチトースト。濃厚な香りと味わいを齎す料理にほっと息を吐く。ここは温かい。スプーンの食器を弾く音が軟質なものと思えるほどに。その音が心地よくて、耳を澄ませた。思えば、代理戦争開戦前以来の落ち着いた団欒だ。感慨に耽るのも已む無しかとぼんやりしていると、頬に先刻の比じゃない衝撃が走った。小さな彼の飛び蹴りだ。幼体のくせして何という攻撃力。ライフポイントが減ったと文句を垂れる。しかし、彼の懐から取り出された銃と遅刻するぞの言葉に、慌てて食器を傾けた。碌に咀嚼もせず、スープで食べ物を喉奥へ流し込む。
「ダメよ、ツっ君。喉を詰まらせてしまうわ。」
案の定、喉を詰まらせたものの事無きを終え、手を合わせた。

 「いってらっしゃい。」
食事が済んでいないにも関わらず、母さんが玄関まで見送りに来てくれた。母さんだけではない。その足元から顔を覗かせている子ども達に、彼を見送りに来た同居人。
「ランボさんは、家でママンに絵本を読んでもらうもんねー。にしし。」
見送りを嬉しいと思いながらも素直になれず、母さんと同居人達に尻窄みなお礼とぶっきらぼうな行って来ますを言って玄関を出る。真っ先に見た空は澄んだ青空だった。

―イタリア―
 豪奢な部屋の最奥に腰掛けた老人が装飾の施された黒電話のダイヤルを回している。ローマ数字を切り取った輪に肉付きのいい指を掛け、金具に届く半ばのところで指を離す行為を繰り返している。ダイヤルが戻っていく音に続いてベルの鳴動音が室内に木霊した後、老人は重々しく口を開いた。
「おまえか。丁度よかった。頼みがあってね。いつもの件だが、多めに頼む。そうか、助かる。また連絡するよ。」
気遣いの籠った声音とは裏腹に、憎しみに塗れた眼光が鈍く光る。老人は受話器を置いて舌打ちすると、ダイヤルに指を掛けた。苛立ちを如実に表したような金具の衝突音が続く。ぜんまいの巻き戻る音と呼出し音の後、幼さを含んだ声が受話器に響いた。
「爺様、日本に着きました。ここは空気がべたべたしていて不快です。」
幼くも怒りの込められた少年の声。老人の眼光に先刻の剣呑さはなく、受話器から聞こえてくる声に満足したようにその口元に笑みを浮かべていた。

 「長く住むことになるのだから我慢しなさい。」
手元の煙管で紫煙を燻らせ、その紫煙に目を細める。紫煙に浮かんだ少年の顔が不満気に頬を膨らんでいる。忍び笑いに合わせて紫煙が揺れた。
「でも、お爺様。あれがいると思うと、吐き気がして我慢できるか心配だわ。」
受話器から聞こえてくる声が変わった。今度は少女のものだ。吐き出された言葉は少年と変わらず毒を含んでいる。己を前に毒を吐く人物は2人しかいない。忌々しいという感情を惜しげもなく見せる、2つの顔が目に浮かぶようだった。揺れ続ける紫煙に、今度は庭園の中心で戯れる双子の姿が浮かぶ。召使いを侍らせ茶会をすることを常としていた彼らは、現在、ここから遙か遠くの日本に滞在している。
 ボンゴレT世の趣味が高じた余り、引退後に移り住んだといわれる日本。そこにはボンゴレ\世の孫、つまり、ボンゴレ継承者候補がいる。ボンゴレの血を受け継ぎ、その能力を持って生まれた少年。T世に瓜二つの容姿と戦闘型式を併せ持つというその存在は、ボンゴレ本部の気を惹くには充分だった。彼らは容姿が酷似していることを安直に血が濃く表れていると考え、それを裏付けるようにグローブで戦う少年を見、T世の再来を夢見ている。否、夢見ていた。数か月を待たずに次々と報告される輝かしい功績に、再来したと彼らは断言した。そして今、異国出身のハンディを帳消しにしてしまうようなこれらの要素は、T世の写し身と言わしめるに留まらず、崇拝するまでに及んでいる。年齢にそぐわない見事な実績の数々に、最早T世を超えた存在だと頭を垂れた者までいたという。初めは、気にも留められていなかった少年。候補者が彼だけになり、ようやく目が向けられても出来損ないの子どもと罵られていた彼が半年後にはボンゴレの救世主だ。己を差し置いて、なんて不愉快な。
「爺様?」
思えば思う程、人を小馬鹿にしたような同情めいた顔をする老人の顔を思い出す。憎らしい顔。知らず歪んでいた口元を隠すように煙管を咥えた。

―並盛中学校―
 陽の光を反射し爛々と光る並盛中学校の名が彫られたプレートに目を細め、慣れ親しんだグラウンドに足を踏み入れる。そこで感じた違和感に首を傾げるも、人の列で掻き消されたこの景色に払拭されてしまった。異様な光景に驚いたというわけではない。来るべき時が来てしまった現実に落胆したのだ。気を引き締めなくてはなるまい。そうしなければ呑まれてしまう。風紀の2文字が刺繍された腕章をその腕に纏い、仁王立ちする彼らを前に気の緩みは禁物だ。たかだか持ち物兼身嗜み検査に何を気張る必要があると、この学校の関係者でなければ笑うことも出来ただろうが、少なくともこの場で笑える者はほんの一握りしかいない。
 ベルトコンベアのように流れていく人の列の左隣で、風紀委員が長机の上に置かれた鞄の中身を物色している。一方、列を挟んだ右隣では、空港の保安検査場の如く金属探知機ならぬ毛取ブラシを手に持って生徒たちの身嗜みを正している。恐ろしい光景だ。逆らってもいいことはないので、そもそもそんな勇気もないので静かに列に並ぶ。最前列を覗き込むと、動きに全く無駄の無い風紀委員と調べが済んで足早に校舎へ向かう生徒の姿が見えた。感心する。風紀取り締まり対象になった生徒がいることを思えば、感心もしたくなるというものだ。学ランを着崩した男の制裁に遭い、風紀委員に保健室へと担がれていく痛々しい生徒の横を素通り出来る余裕が自分にはない。不敵な笑みを浮かべて次の獲物を待ち構えている制裁の主、泣く子も黙る風紀委員長を怖くて直視できない。果たして、検査が終わった後、小鹿のように震えているこの足は動いてくれるだろうか。
 順番が回って、風紀委員に鞄を置くよう促される。規定に反するものは何も入れていないけれど、条件反射で恐怖に手が震えてしまう。登校を共にした獄寺と山本の後ろにいることがせめてもの救いだった。
「今日もやってんなー。」
苦笑混じりに呟く山本に苦笑いを返すしかない。入学し立ての頃は地面に山積みになった人を見て心底怯えたものだが、今では気張れば乗り越えられる学校行事と思えるようになった。
「十代目の貴重な朝を邪魔するなんざ、守護者の風上にも置けねぇ野郎だ。」
不服そうに呟く獄寺が、それでも素直に鞄を置いているのを見て口元が緩む。2人とも出会いがしらの一件からこの方、雲雀とは馬が合っていなかったようで心配していたのだけれど、紆余曲折を経て打ち解けたようでほっとした。お節介と言われれば返す言葉もないが、負けん気の強い3人の面倒事に巻き込まれたくないという思いもある。御相子ということにしておこう。
 悶々としていると、検査を受けていた獄寺が鞄の中からダイナマイトを没収されて雲雀に殴り掛かろうとしていた。お節介を掛けようが掛けまいが、どの道巻き込まれるらしい。
「獄寺く―――」

 列を抜け、出来るか分からない仲裁をしようと掛けた呼び声が喉の奥で堰き止められて消えた。視界に入った人物に釘付けになる。苦しくて気持ち悪くて痛いのに、目が離せない。体中の血が沸騰しているのではないかと思う程、熱い。血管が焼かれて痛い。息が出来ない。人混みを外れた校庭の隅、教員と並んで歩く異国を思わせる風貌の男女。この苦痛がその物珍しさから来るものではないと分かっていても、縋りたくなってしまうようなかつてない警告に、歪んで誤った光景を茫然と客観する。校舎に消える2つの背中が憎悪を物語っているように見えた。
 「どうした、ツナ。」
地面から文字通り湧いて出たリボーンが訝しげに尋ねる。なんでもないと笑って答えるだけでいい。なのに、平気な旨を伝えようにも口は吐き気を抱えたまま頑として開かなかった。笑おうにも足は独りでに笑うだけだった。熱さが引いて背中を走った悪寒に体を震わせながら、吐き気と目眩に耐え切れず地面にしゃがみ込む。ヘルメットを被り、シャベルを手にしたリボーンが驚いたようにこちらを見上げている。心配を掛けたくないのに。周りには子どもと話しているように見えているようで、時折リボーンの外見に関する感嘆が聞こえてくる。よかった。地面に手をついて意識を保とうと歯を噛みしめている情けない姿は、リボーンにしか見えていない。リボーンの心配を取り除けば事は済む。だから早く動け。早く嘘を吐け。
「おい。」
焦燥に駆られた声とともに小さな手が伸ばされる。これまで幾度となくこの体を支えてくれた手。 労るように肩を抱いたその手の温もりに体の不調が薄れていく。それでも未だ重い体に鞭打ってゆっくり立ち上がると、肩に飛び乗ったリボーンが再度尋ねた。
「…なんでもない。」
嘘を吐いた。自分にもリボーンにも。弱音を吐きたい。弱音を吐けない。吐いたら後悔してしまうから。きっと、無様に泣いてしまうだけだから。正解を答えたくない。答えられない。答えたらリボーンはこんな自分を殺すだろうから。きっと、噛み合わない歯の音が無様に響くだけだから。壊れてしまわないよう、壊してしまわないようにそっと嘘を吐いた。自分が自分で在り続けられるよう、目を瞑って真っ黒な底に心を沈める。後は黒に染まった心を白に染め直すだけ。

 恐る恐る目を開いた。視界の中、自分を見つめるリボーンの顔が余りにも真剣で思わず笑ってしまう。掠れた笑い声が気になったが、些末なことだと一蹴した。
いつものリボーンに戻ったのは獄寺と雲雀の死闘が苛烈を極めた頃。小刻みに震える肩の上で、大きな瞳を不機嫌に歪ませ片足を上げたリボーンに笑いを引っ込める。静止の声を掛け、顔を霞めた風圧に小さく悲鳴を上げた。
「ご、ごめん。助かったよ。」
足を下ろしたリボーンにほっとして擦り落ちた学生鞄を掛け直す。列に加わろうと踵を返したものの、目の前の惨状に回れ右をして昇降口に向かった。何故か獄寺と雲雀の死闘に山本が加わって三竦み状態になっていた。1人増えた分、戦闘範囲が広まって検査どころじゃなくなっている。近付けば死ぬ。逃げよう。逃げるが勝ちというやつだ。幸いなことにリボーンは大人しかった。3人の喧嘩を止めて来いと蹴り出されることはなかった。
 上靴に履き替えても、なかなか肩から動こうとしないリボーンに首を傾げる。珍しい。おかしい。いつもならさっさと何処かへ消えてしまうのに。そして、思いもしない時に思いもしないところから現れるのだ。砂糖3杯のエスプレッソを飲みながら。
「秘密基地に行かないのか?」
肩の上のリボーンは何やら物言いたげな顔をしていたが、ヘルメットを目深に被り直すと履き入れに飛び乗った。軽くなった肩を解しつつ、履き入れの内を覗き込む。小さな体が勝手知ったる我が物顔で外履きの上を踏み歩き、その奥にある小さな扉を開け、中に入っていった。いつの間に秘密基地を増築していたのだろうか。以前より履き入れが一回り大きくなっていること、奥行きが広くなっていることに、今気付いた。一目で分かる改造具合なのに。まさかチェルベッロに頼んで幻術で誤認させていたとか。単に、ドアノブも扉も履き入れの塗装と同色で気付かなかっただけなのか。何れにせよ、また一つ校舎に秘密基地が増えたことが判明したわけだ。アルコバレーノの呪いを解呪してから急激な速さで成長していく体に合わせ、急ピッチで増築された秘密基地の数々を思い出し、ため息を吐く。今月に入って、既に指で数え切れない数の秘密基地を見た。校舎が空洞化で崩れてしまったらどうしてくれる。休校は嬉しいが、同伴の責任で雲雀さんの餌食になるのだけはごめんだ。

―教室―
 件の三竦みで大半の生徒が足止めを喰らっているのだろう。人通りの疎らな廊下を歩く。検査を抜け出して正解だった。
「ツナ君、教室はそこじゃないよ。」
背中越しに声を掛けられる。引き戸に手を掛けたまま上を見上げると、違う教室の看板がぶら下がっていた。気恥ずかしさで、目を伏せたまま頭を下げる。恥ずかしいところを見られてしまった。
「おはよう。」
恐る恐る頭を上げると可愛らしい笑顔を浮かべるクラスメートの姿があった。彼女は気にしていないようで、安堵しながら言葉を返す。容姿に加え、内面まで天使みたいだ。
「お兄ちゃんを教室まで見送ってきたところなの。」
他愛も無い話をしながら教室に向かう。人が疎らなお陰で、並んで歩いていたにも関わらず、歩みを阻害されることはなかった。そのせいか、あっという間に辿り着いて、名残惜しくも別れた後、自席に腰掛けて友人2人の空いた席を見る。遠回りをしたとはいえ、こんなに早く戻ってくるわけないか、酷い怪我をしていないといいけれど。傷だらけの彼らと穴だらけになった校庭を想像して痛み出した腹部に眉を顰めながら、教科書を机の中に詰めていく。詰め終えて頬杖を付いていると、天使のような笑い声が聞こえて来た。天使の笑い声がどんなものかは知らないが、こんなにも可愛らしい笑い声を他に何と表現すればいい。見れば、近くの席で京子ちゃんと黒川が楽しそうに話している。微笑ましい光景に口元を緩めていると黒川と目が合った。面白いものを見たという目をしている。弧を描いた目元に目を逸らしたものの、時既に遅く。弁解しようと口を開けば声を上げて笑われた。揶揄われていたらしい。
「おはよう、沢田。相変わらず揶揄い易い奴。」
黒川の個性を否定するつもりはない。やめろとは言わないけれど、心臓に悪いから揶揄うにしてももう少しばかり手加減して欲しい。
「…おはよう。」

―***―
 世界ノ調和ハ保タレナケレバナラナイ。声なきコエがバミューダの脳漿を揺らす。光の無い無の空間に独り佇む彼の周りで、色めく7つの宝石が円の軌跡を描いていた。7つの宝石、世界のトゥリニセッテの一角を担うおしゃぶりが煌々と炎を灯らせながらも輝きを持たないのは、その炎が死色そのものだからだろうか。おしゃぶりの中で揺れる黒炎を眺めながら、バミューダは皮肉に口元を歪めた。
「一つたりとも欠けてはならない、ね。」
おしゃぶりの一つを手に取って握り締める。器を持たないそれは、手の中で容易に形を変えた。7つが1つであれば、こうして掌に握っていればいいだけなのだけれど。情けないことに7つでなければ死炎が足りない。バミューダが一度に放出できる死炎の量は、7つに分けたトゥリニセッテ1つを満たす程度。一つずつに灯すので精一杯だ。だから握っていられない。管理に気を抜けない。能力不足だということくらい分かっている。分かってはいるけれど、いい加減張り詰めなければならない緊張に嫌気が差す。7人分の緊張感だ。人の身であるバミューダには堪える。だから皮肉を思う。
 一塊だったこれらは、古代人の手から離れ無価値なものとなっていた。これを機能させるためにある古代人が人に灯せる大きさに散開させた。その結果がこれだ。欠けたら終わり。とんだ皮肉だ。それは人類の過ちか否か。機能させるための行為が危険性と数々の業を生んだ。ただその存在だけが虚しさの中にあって、守るべきその欠片は多くの人間を試してきた。呪い、焦がし。それは支える柱が欠けないよう、柱によって構築された世界の存続のために幾多の犠牲の上に成り立ってきた王冠だ。その王冠は縦の生贄となった人の子に魅せられている。その頭蓋に被さるために命を散らすことを許さず、その肉体に呪いの如き宿命を刻んだ。その身勝手な本能を持っているのは原石ではない。世界だ。原石そのものを受け継ぐ力を併せ持った彼の死を世界は絶対に許さない。
「哀れだな。」
無限の生は死んで逃れる快楽を許さないという残酷さを孕んでいる。世界という名の抑止力が穿つ来るべき未来への無慈悲な裁断はまるで呪いのようだ。
 「…チェルベッロか。」
暗闇から現れた人影を一瞥する。そこには黒い布に身を隠す妙齢の女性が2人いた。体を覆う布から見え隠れする黒い仮面は暗闇であるにも拘らず、その存在を誇示している。
「我々は沢田綱吉の死を阻害する。」
淡々と呪詛を吐く声に嘆息する。代弁者であろうとその言葉が意味することを推測することは彼女にとっても容易いことだろう。それを何でもないことのように言う。その揺らぐことのない忠誠心には呆れ果てるばかりだ。
「それこそ死も同然だろう。」
待ち受ける未来のある場所で横たわる少年の姿が頭に浮かぶ。寂寥感が胸の内に溢れて、あの力強い燈色の目を再び目にしたいという衝動に駆られた。思った以上にあの少年に肩入れしていたらしい。周囲の人間を案じるように、争いを拒むように、彼はその柳眉に苦痛を湛え、己を真っ直ぐと見据えていた。彼の細い体躯から発せられた言葉は今でも鮮明に記憶に残っている。それが今の己を己足らしめていると言っても過言ではない。情けでも憐れみでもなく、ただの言葉。けれど、だからこそ最も言って欲しかった言葉。純粋な言葉だからこそ、後悔と懺悔の中で生き続けようと思えた。彼に肩入れしているどころか身も心も浸かっていると言った方がいいのかもしれない。初めこそ、どこにでもいそうな少年にまさかこの身が助けられようとは思いもしなかったけれど。戦闘時、何処までも澄んだ彼の瞳は砕ける前のトゥリニセッテの原石を想わせるとても美しい色をしていた。その瞳が曇ってしまうことがあったなら、それこそこの世の終わりなのだとそう思える程に幻想的なものだった。彼の御蔭で光を見ることが出来たのだ。己は間違いなくあの少年に救われた。だから、命の恩人たる彼の死を阻害しようというその意見には賛同したい。見殺しにしたくない。けれど。
「彼に死ぬという選択肢は与えられません。抑止力に」
「もういい。」
結局のところ、己も答えを持ち合わせていないのだ。やるせない怒りをぶつけるようにチェルベッロの言葉を遮る。トゥリニセッテとは、生命を守り続ける装置であり、世界の心臓である。世界の心臓にこの身を捧げて幾日か過ぎたが歪な美しさを持ったそれらに慣れることはない。寧ろ日に日に違和感が募っていって、それらの在り方やその周辺の有り方への理解を早々に諦めた。そもそも、正常な部位が何一つないそれらを理解したいとは思えなかった。残酷な世界に彼は活かされ生かされ続ける。それを黙って見ているなんて我慢ならないけれど、出来ることは何もない。彼に生きていて欲しいと願っている己に彼を殺すことは出来ない。力もない。
「どんなに絶望しようと世界は彼を救わない。抑止力によって、沢田綱吉の死の概念は抹消された。血の継続は最早無駄事。セカイも世界も彼個人を望んでいます。」
そう言い残して世界の手駒、調律者によって叡智を結集された脳が闇の中へと溶け込んでいく。残されたバミューダは握っていたおしゃぶりを手放した後、チェルベッロの言葉を小さく反芻した。彼は己とあの男と同じ道を辿ることになる。あの男、チェッカーフェイスが長く生き永らえているのは世界存続のために必要で、活かされ、生かされ続けているからだ。彼は間もなくそれを自覚することになる。否、彼のことだからもう自覚しているのかもしれない。世界が帳尻合わせに行った調律によって己等は災厄に巻き込まれた。巻き込まれた先は一度入ってしまえば二度と抜け出せない地獄という名の監獄だった。遠くない未来、彼はその底に堕ちる。
「呪いじゃないか。」
アルコバレーノの呪いなんて目じゃないくらいに残酷な呪いだ。苦笑交じりに呟いたその声は誰にも届くことなく歪な世界に響き渡った。

―教室―
 「ラファエーレ・カミッロ・レオナルディです。イタリアから来ました。気軽にレオと呼んでください。」
黒板を背に髪を小さく揺らし小さくお辞儀をする少年に、興奮した女子生徒が口々に賞賛の声を上げる。イタリアからの来訪者に興味深々な様子のクラスの騒めきが収まらない中、少年の隣に立ち並んでいた少女が真新しい制服のスカートの端を掴んで、優雅にお辞儀をした。今度は男子生徒から歓声が上がる。
「ミーナ・ノヴェッラ・レオナルディです。日本にまだ不慣れで、いろいろ教えてくれたらミーナとっても嬉しい。」
にっこりと笑う双子に教室中の生徒が激励の言葉を掛ける。席を案内され席の合間を縫う双子に生徒達が浮かれる中、綱吉だけが口元を押さえて黙り込んでいた。とても綺麗な赤茶色の髪の毛。2人とも目が燈色なのね。肌が真っ白。何を言っているの。違う。クラスメートの言葉が綱吉には分からなかった。目に映る2人にそんな特徴は一つも見当たらない。異国風を思わせる2人髪は赤茶色ではなく金髪で、眼はくすんだ茶色をしている。少年は褐色の肌を、少女は若干白いものの所々にそばかすが散る黄色の肌をしていた。クラスメートとの食い違いという不可解な現状に、間近で見て漸く気付いた 2人の歪みに、とても見れたものではないと目を逸らした。この空間で独りだけ間違っていることが怖い。今も嗤っている2人が怖い。怖くて吐き気がする。自分だけが間違っていることに気づいた時、その笑みに内包された生々しい人間の感情が自分に向けられているのだと気付いた時、背筋が凍った。独りが怖い。2人の歪んだ顔から一刻も早く逃れたい。

―手洗い―
 教室を出て真っ先に見つけたこの場所に閉じ籠って暫く。落ち着いてきたものの震えの収まらない体を抱きながらやっとの思いで立ち上がると、流し台の蛇口を捻って血の滲んだ掌を洗い流した。血が流れ、現れた肌には爪痕が残っている。久しく見ることのなかった痕だ。初めは物心がついたばかりの頃。何だったのか酷く恐ろしいものを理解し、どうすることも出来ず手を握りしめてその場を耐えていたら、そうなった。それが癖になって顕著に現れ始めたのは、何をやっても失敗をしてしまう自分に拳を振るう同級生の顔を見た時。笑っていたその顔が、殴る蹴るの行為よりも幾倍恐ろしく感じられた。大怪我を負ったことを忘れるほどそればかりが記憶に残って、今でも思い出しては息が苦しくなる。真顔で殴られてもそれはそれで彼らしくはなかったのだけれど、せめて苦痛に歪んでいて欲しかった。殴る痛みを感じていて欲しかった。彼の拳は殴り過ぎて血が滲んでいたのに、彼は痛みよりも暴力を優先したのだ。痛みが分かれば、その拳が傷付く前に止めていたかもしれない。痛みが分からなくなるほどの感情を彼に抱かせてしまった。自分を殴ったせいで彼が傷付いた。それは、自分が彼を傷付けてしまったということ。何度もごめんなさいと呟いて、傷付けてしまった事への罪悪感から掌に爪を立てた。血が乾けば何度も抉って。その自傷行為が警告だということに気付いたのは、彼の笑顔が不気味さを増してから間もなく、日々行われていた暴行の末路が自分の死を招いていたかもしれないということを知った時だ。それから、危険が迫る度起こって来た発作に、恐らく今回もその類だろうと濡れた手をハンカチで拭う。窓の外に見えた空は灰色の雲に覆われていた。

―教室―
 分刻みの時計の音、スピーカー越しのチャイムを聞きながら溜息を吐く。授業の内容が全く頭に入って来なかった。いつもことなのだけれど、明瞭な阻害を感じながら受けたのは初めてで、 今までが不明瞭な不安に囲まれながらのものだったのに対し、双子という明確な原因があったのは余裕がある反面、慣れない苦痛の授業だった。教師が言葉を発する度、心中を蝕む何か暗示のようなものに脳が痺れるあの感覚が懐かしくすらある。 これなら不明瞭な不安を感じていた方がまだ良かった。賢いというわけではないから、学力に違いが出るというわけではない。ただ、精神的な苦痛が慣れたものであれば構えようがあって良いということだ。

 騒めき始めた生徒たちの中で小さく肩を落とす。緊張の解かれた肩が痛くてそのままじっとしていると、獄寺が傍にやって来て丁寧に頭を下げた。彼がこうするということは、下校の時間か。
「10代目、途中までお供します。」
眼を爛々と輝かせ張り切っている獄寺に苦笑しながら頷く。初めの頃は彼の雰囲気が恐ろしくて断ることができず、渋々一緒に帰っていた。それから、彼といるとただの厄介事が事件になるわ、仰々しい態度にも壁を感じるわで、悩みの種が尽きないしどうしようもないじゃないかと思っている内に、いつの間にか彼と帰るのが楽しくなっていた。悩みの種が尽きなくてどうすればいいかを考え、一生懸命で優しい彼を見付ける。そうして結局、どうしようもないと苦笑してしまう毎日が楽しいと気付いた。彼がこんな自分の傍にいてくれることを堪らなく嬉しく思う。 畏まらずに親友になってくれたら、尚更いいのにと惜しく思うところはあるけれど、そんな怖ろしいことはとても本人の前では言えない。何でも出来て格好良い彼が傍にいてくれるだけでも十分で、何も出来なくて格好悪い自分なんかが親友になって、だなんて。恥ずかしさで顔に血が昇るのを感じ、鞄に荷物を詰める体を装いながら、前髪で顔を隠した。
「昼間は姿をお見掛けしませんでしたが、どうかなされたのですか?」
帰り支度が終わるまで少しの間待つように言って直ぐ、沈黙を払うように背後から掛けられた声に教科書を詰め込む手が止まる。昼放課、山本と3人でご飯を食べる約束を断ったのは、記憶がなかったからなんて心配を掛けるようなことを言える訳がない。
「どうもしなかったよ。」
荷物を詰め終え振り返り際、にっこり笑いながらそう答える。曖昧な答えに、獄寺が腑に落ちないというように首を傾げた。心配そうに見つめる彼に返って心配を掛けてしまったことに胸が締め付けられる。
「大丈夫。ありがとう。」
再度笑顔を返すと、曇っていた彼の顔が少しだけ安心したように晴れた。自分で言うのもなんだけれど、嘘を見破るのは得意な癖に吐くのは苦手だ。直ぐにばれてしまうから嘘を吐き通せない。嘘を吐き通したいのに、それが出来なくて心配を掛けてしまう。案じてくれた、自分の嘘に付き合ってくれた獄寺に感謝の言葉を贈ると、彼は滅多に見せない満面の笑み浮かべて嬉しそうに笑った。不甲斐ないばかりに胸が痛い。
 「よっ。」
その笑顔も束の間、不届き者に出くわしたような表情へと一変する。獄寺の目線の先へ目を向けるとそこには山本がいた。獄寺の威圧的な視線に臆することなく、山本はいつも通りの爽やかな笑顔でやって来る。場違いにも感心していると、肉刺の出来た掌で乱暴に髪を掻き混ぜられた。
「一緒に帰ろうぜ、ツナ。」
くすぐったさに目を細めながら頷く。いざ、帰路に立とうと不満げな獄寺と楽しそうな山本に挟まれながら扉に向かう途中、教室を振り返ると様々な誘いを受けている転校生の姿が見えた。嗤っている。そしてそのことに教室の誰も気付いていない。言いようのない不安に大きく響く心臓の音を聞きながら、逃げるようにその場を後にした。

―901号室―
 日の光りを遮るように聳え立つビルの最上階。数室に割り当てられている下の階とは異なり、一階分を占領し最大の広さを誇るその一室で豪奢に着飾った双子が羽毛の敷き詰められたソファに体を沈み込ませ、ティータイムを満喫していた。
「レオ、あれをどう思う?」
少女の足の爪を磨いていた正装の男の頭を軽く足蹴りしながら少女が楽しそうに呟く。俯いた顔を足先で上向かせて、覗く額に踵を落とすその繰り返し。その過程で長い爪が眼球に直撃し悲鳴を挙げ転げ回る男に、少女が指を鳴らす。その音で背後の扉が開き、直様別の男が走り寄って来て爪を磨ぎ始めた。その顔には明らかな恐怖と玉の様な汗が浮かんでいる。少女はそれが愉快なようで爪先を男の顔に近付けながら微笑んでいる。紅茶を飲んでそのやり取りを見ていた少年はにやりと笑い、近くで紅茶を注ぎ直していた女性の裾を掴み引き寄せると、髪の毛を毟り始めた。髪を毟られた女性からは痛ましい悲鳴が上がる。後には痛々しく血を滲ませる頭皮が覗いていた。
「どうって、凄く虐めたくなった。」
毟り取った髪の毛を放って、特に気にする風もなく返す少年に少女がにっこりと笑い、足元に転がって来た女性を見下ろすとそこに紅茶用のレモンを落とし、鶏の様な泣き声を上げる女性に薄く笑った。
「ミーナもね、あれを虐めたら面白いなぁって。ふふ、あれったら何もないところで転ぶのよ。馬鹿よね。」
腹を抱えて笑い出したミーナに、レオも笑みを零す。
「ねぇ。あれ、どう壊れるかな。」

―教室―
 早朝にもかかわらず活気の溢れる教室の止まない喧騒は、戸を引く音さえ掻き消してしまう。転校生がやって来て一週間ばかりが経ち、当初の僅かな緊張感もなくなって馴染みのある空気に戻った教室に、躓きながらも入った綱吉は安堵する。自分の席に腰を落ち着かせ、クラスと打ち解けて楽しそうに会話をしている双子の姿を見て、以前よりましになった、というより慣れてきたとそんな事を思った。とは言え、依然として胸中を渦巻く不快感に眉根を寄せずにはいられない為、早々に視線を切り上げる。現実と入り混じり歪んだ姿と、自分に向けられた笑みと敵意が原因だということは分かっているものの、払拭し切れずに溜まっていく泥のようなものの存在が、それだけでは説明しきれない警告を発していた。そうしたところで、一週間経っても長らく視線を合わせられない2人を理解することは到底叶わず、よってその警告が一体何に対してのものなのか分からず、手の打ちようがないというのが現状だ。成す術もない危険への警告なんて、無意味でしかない。そんな不毛な事を考えながら、手に持ったシャープペンシルをくるくると回していると、朝練を終え、女子がいるのにも関わらず着替えていた山本が心配そうに顔を覗き込んで来た。嬉しいが素直に喜べないのは、視界に映る女生徒たちが原因だ。自分よりも、山本の後ろにいる放心状態の女生徒を心配した方が良いと思う。彼女達に全く気付かないのは、らしいというかなんというか。狡いと分かっていても、周りに気付かないくらい心配してくれることが嬉しくて体が軽くなる。
「顔色わりぃな。保健室、付き添うか?」
獄寺と同様に笑って誤魔化すが、きっと嘘が下手な自分のことだ。念を押したにもかかわらず、昨日と合わせて2桁に昇った安否確認からして誤魔化し切れていない。それでも薄々感付いていながら尋ねるだけに留まってくれている山本に、感謝してもし切れなかった。自分にはもったいないくらいの友人だ。かと言って手放したくはない。
「ありがとう。大丈夫。」
これは正常な事情ではない。知ってしまったら山本は自分の傍から離れて行ってしまうだろう。自分が最も愛する人でさえ、一度はこの異常を敬遠し去って行ってしまったのだから。でも、信じて教えてくれと言われたら、正直耐えられる自信が無い。言ってしまうかもしれない。それは、自分の欲求そのものだからだ。信じること。信じて、愛する者に身を任せること。宗教染みているけれど、それはきっととても幸せで大切なことだ。その欲求を抑えているのは単なるエゴに他ならない。自分はとても弱い。精神面でも、肉体面でも。そうで在らねばならないと知ったその日から。そうして、弱さ故の後悔の念に押し潰されながら、着替え終わった山本の顔が照れたように綻ぶ様を見る。後悔する余り、このまま感情が麻痺してしまえばいいのにと思う。
「ツナ、何かあったら言えよ?オレ、聞くからさ。」
去り際に山本が呟いた言葉に心臓が高鳴って思わず見上げると、にっこりと笑った顔が見えた。心の揺れだけは隠したつもりでいたのに、誤魔化しているどころか悩んでいることさえあっさりと見破られてしまったことに苦笑する。世俗に言う親友とはこのようなものなのだろうかと、嬉しく思った。親友がいること自体信じられていないというのに、その考えは何処から来るのか。自惚れとしか思えない。100歩も1000歩も譲って、もし仮にそうだとしたら、親友のいる自分は幸せ者だ。こんなに幸せなのだから、無粋なことを考えるのはよそう。
 死んじゃえばいいのに、と教室に入る前聞こえた声を頭の中で反芻した後、やっぱり気のせいだったと言い聞かせて、熱くなった頬とともにざわつく心を抑えた。

―沢田家―
 絢爛豪華な食卓を大勢の人間が取り囲む。遡ればいつも2人だけで取り囲んでいた寂しい食卓が随分と華やかになって、いつしかそれが当たり前になっていた。子ども達がいつ問題を起こすかが気掛かりで休まっていられる食卓ではないけれど、それでも食べることが楽しみと思えるほどの拠り所になっている。欲を言えば、世界中を飛び回っているというあの人も居てくれたらいいのにと思っているのだけれど。手を休めて視線を後ろに向けると、それぞれが慣れない箸を握り締め真剣な面持ちで向かい合っていた。これはお決まりの流れだと確信する。
「ママンの肉じゃがは、オレっちのだもんね。」
一先ずの冷戦を終え、沈黙を破った子どもが狙った獲物、角切りにされたジャガイモを刺さんと箸を握り締めている。
「何を言ってるの。それは私のものよ。誰にも渡さない。」
それに相対する女性も同じく獲物を食らう捕食者たらんと狙いを定めている。当人達は必死なのだろうけれど、微笑ましい光景だ。しかし、やはりいつもの食卓、団欒に、物足りなさを感じて、沢田奈々はそっと溜息を吐いた。見上げた天井のその先には、団欒に加わる筈だった息子が眠っている。脳裏に浮かぶのは血の気のない真っ白な顔で笑っていた息子の姿。
 帰ってから居間にも寄らず、真っ先に上へと上がっていった息子を心配して後を追った。振り返ったその顔は驚くほど真っ白で、どうしたのと迫っても弱弱しく笑って、何もと言い張る彼に、とうとう折れてその場は引き下がったのだけれど。親子と言えど、話せないことくらいあって当然で、時が来たら口を割って話してくれるだろうとその場は言い聞かせた。けれど、あのような顔をされてそう簡単に割り切れることでもなかった。正直今も心中穏やかではない。死刑台に上がる前の囚人のように真っ白な顔の彼は自覚がないようだった。何に直面しているのか自分でも分かっていないのだろう。もしもそんな状態で、途轍もなく深刻な、自分だけではどうにもならないような事態に直面しているのだとしたら。以前にもあったことだけれど、ここまで如実に表れていなかった。もっと隠す余裕を持っていた気がする。隠していたけれど隠し切れなかった部分が大き過ぎたのだろう。夕飯が出来たと呼びに行った時、死んだように眠る姿を見て、彼がずっと堪えていたのだと、意識を失って始めて見せた素の顔に漸く気付いた。近付いて来たリボーンを抱き締めて、事の深刻さに肩を揺らす。起こすのが恐ろしくて起せなかった。
 「ぅ、ぐっ。…が、ま――――ぅぁああああっ。」
雷電の如き泣き声が居間中に響き渡る。水に打たれたような衝撃に、気付けば調理箸が手から滑り落ちていた。後ろを振り返り、無表情で口を動かしている女性と涙を流している子どもの姿に安堵する。どうやら、肉じゃが争奪戦の勝敗が決したようで、調理台に向き直りコンロの火を消すと、煮込んでいた鍋の蓋を取って新しい取り皿に肉じゃがを注いだ。泣きじゃくる子どもの前にそれを置くと先程までの涙は何処へやら、爛々と目を輝かせ、がつがつと肉じゃがを食べ始めた。
「熱いからふぅふぅして食べるのよ。まだまだたくさんあるから、いっぱい食べてね。」

―数時間前―
 認知ではなく理解という範囲での分かる、つまり見るだけでそれと分かるというのは、凄いことだと思う。家族で例えるなら、よっぽどのことが無い限り、大抵の人間は見ただけでその人が家族だと分かるけれど、そうした時にただ分かるのではなくて、ここが居場所なのだと無意識のうちに安らいでしまうようなそんな理解。見て分かるどころか、見て休まる場所と分かるのはとても凄い。凄いことであるし、認知のそれとは程度が違う。それが滅多に実感できないのは口惜しい気がするけれど、実感するという事は反面、精神が何かに傾いているということなので、出来ていいことなのかの判断は正直難しい。それでもやっぱり家の一部が見えただけで気が抜けて崩れ落ちてしまうというのは認知だけでは成しえない、心的依存故の至極当然な現象で、いいも悪いも仕方のないことなのかもしれない。
 ここまで来るのにとても時間がかかった。リボーンは先に帰ったようで、気に掛けられる心配はなかったのだけれど、これはこれで心細く、一人では抱えきれない程の恐怖が湧いてくる。何故だか分からないなんて今更惚けるつもりはないが、今朝の声が信憑性を帯びたことへの恐れなのか、それともずっと続いている吐気が悪化していくことへの不安なのか、正直曖昧だ。否、同じか。どちらも喜べない点で同じなのだからと薄く笑って、後ろを振り返った。誰もいない。誰もいなかった。それでも聞こえた僅かな足音からこれからのことを類推する。これから起こることに凡そ検討は付いているけれど、それを認めたくないのはエゴ故か、或いは不信な自身からの逃走願望故か、検討が付いているだけに思いは強まる一方だ。逃げたい。避けたい。そう願っても、結局痛い思いをすることになるのだろう。考えるだけ無駄だ。笑えば元気になるなんて、誰が言ったのだろう。辛い時は笑えと、どこの詐欺師が言ったのだろう。耳に残る足音に笑い切ることが出来ず、気休めに作った笑顔の代わりに涙がぼろぼろと零れた。
 形のない気配が後ろから音を立てて付いてきているのが分かって数分、家を知られるのは不味いと遠回りをして撒くまでの間、必死に平静を装ってはいたものの内心穏やかではなく、恐怖の撒いた音が今も耳にこびり付いている。死んでしまえと、去り際に形のないそれが呟いた言葉が忘れられなくて、幻術の類だと認識していても、形が無いという点で過去を彷彿とさせるそれに、立っていられず門を背に擦り落ちた。頭を膝の上に乗せ完全に光を遮断する。黒という逃避の色を視る。幾分か落ち着いた気分になって感覚の戻った掌から痛みを感じ顔を上げると、血の気の失せた肌に対して掌は真っ赤に染まっていた。

 「痛い。」
誰にでもなく呟いてよろよろと立ち上がり、鞄に付けておいた鍵で扉を開ける。奈々が出迎えに来たものの、急激に襲ってきた眠気に曖昧な返事をしながら気付けばベッドに沈みこんでいた。心配されると気にする間も無く脱力し微睡みつつ、今日は修行をさぼってしまったから目が覚めたらリボーンが怒っているかもしれない。夕飯を食べた後に修行をすれば許して貰えるだろうか、なんて考えていたら、いつの間にか意識を失っていたらしい。夕食までの仮眠を取るつもりが、起きたのは真夜中で、怠さの残る体を起して新しくお湯を溜めるわけにもいかず、風呂場で軽く体を流した後に、ハンモックで横になっているリボーンに手を合わせて再び眠りについた。

―教室―
 「抜き打ちテストをする。席に着きなさい。」
教室に入り、意気揚々と告げるとクラスのあちらこちらから不満の声が上がった。それでも席に着かない生徒がいないのは、テストは受けたくないが反抗したら内申を下げられる、仕方ないことだ、と割り切っているかららしい。ただ、抜き打ちという単語にどうにも反感を覚え、日頃の頑張りを調べるにしても心の準備ができていない不利な状況でやっていいものか、不公平だと大半の生徒たちは訴える。しかし、堂々と訴えておきながら、彼らは正論を一つも唱えていない。抜き打ちテストは週末の恒例行事、そんなものは言い訳にしかならない。やるべきことをやっていないから焦るのだと言う教師の言い分に彼らが口籠るのはいつものことだ。
「こんなもの、復習していればすぐに解けるのだがね。」
前回の授業の問題をいくつか取り入れただけのテストなのだからと締め括る言葉の意味するところは、分かる人間と分からない人間、やったかやっていないかの差がこの抜き打ちテストで浮き彫りになる、というところだ。大袈裟に言えば脅しである。
「復習していない人はどうしていればいいですか。」
どうやらこの教室にはやっていない生徒が大勢いたようで、視線を向ける生徒達を誕生日の数字でも書いて暇を潰していろと軽く受け流し、背後の時計を見ながら試験開始の合図を告げた。開始から数分。自身の発言に後悔の念を抱く。このクラスの特殊性を、常人の予想の遙か斜め上を行く彼らを全く考慮していなかった自身に。誕生日と言ったのが不味かったのか、言葉通り誕生日を書くまでは、時刻を書くまでは良かったのだけれど、解答が2から4桁の数字だと推測するに、数字を書いてその上に先月の打率と書くのはどういうことだろうか。高打率、なかなかやるなこの野球部員と感心している場合ではない。鉛筆を転がしている生徒がまだ微笑ましいと思えるほどの珍解答をする生徒が何故かこのクラスには集結していた。それを分かっていたのになんという失言か。止めの合図は自身の盛大な溜息だった。
「もう嫌だ。降参だ。採点が楽しみだよ、全く。」
教室中に溢れ返る溜息に、収集した用紙の束を封筒に仕舞いながら、溜息を吐きたいのは私の方だと皮肉交じりに応える。
「僕は、優しい大人になりたいです。易しいテストを作ってくれる先生のような。」
「それは、暗に易しいテストを作れということかね。」
「そうですね。」
「目標にされるのは心地いいが、それは偏見だ。私は、難解なテストを作る優しくない大人だよ。」
チョークを片手に、口を尖らせる生徒の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜる。
「授業を始める。」

 抗議の声が上がる中、素知らぬ振りをして黒板に向いた教師の横顔は穏やかで、野次が飛び交いながらも同様に穏やかな雰囲気の教室から、その教師の人望が窺えた。

―イタリア―
 丈の揃った芝生が野を駆ける風に揺れる。日の光を乱反射して光を鏤める青草は、さながら戯れる子どものようで。あの双子を思わせるそれに、庭のコテージで紅茶の入ったカップを傾けたメルキオッレは笑んだ。
「どうかされましたか?」
突如、さざめきの中に落とされた柔らかな声に視線を向ける。その先には目尻に柔らかい笑みを湛え、眉を寄せる慈愛に満ちた男の顔があった。
「いいや、気にするな。」
微笑んだ顔をそのまま彼に向けて応えれば、あっさりと身を引いた男はこくりと頷いて紅茶を一口啜った。
「では、本題を言ってください。私に出来ることならば、何でもしましょう。」
柔らかい物腰でゆっくりとティーカップを置く所作はその人柄を表していて、案じるようなその声にやはりと苦笑する。誠意を見せるかのように、慣れない紅茶を飲んで。昔も今も変わらない慈悲の塊のような男。それが落魄れた者にとって、どれほどの侮辱となるのか知りもしないで。
「ならば、後を任せる。わたしに出来るのはここまでだ。情けないがね。」
顔に笑顔を貼り付けたまま、部下に持ってこさせた資料を手渡す。受け取った男は一通り目を通すと、大きく目を見開いた。
「こんなに…。」
その資料には人身売買、麻薬流通に関わったマフィアや商人の名前がずらりと並んでいる。自警活動を主とするボンゴレマフィアにとってこれは欠かせない情報だ。情報を売ることで、自分はこの男の信頼を得続けている。情報なんていくらでもある。無くなることはない。自ら作っているのだから。全ては男を嗤うために。見下すために。悪と手を結び、悪を売る。何も知らず、仮初めの兄弟愛に盲目になっている様を見るのはとても愉快だ。疑いより同情が優り、直感の鈍った男は恐怖に値しない。好色を見せれば、信じて疑わないその男を俯いたその下で嘲笑った。加えて、悪事の証拠を悪を許さない彼自身が消し去っているというのだから、滑稽にも程がある。可笑しくて、愚かしくて、馬鹿馬鹿しくて。なぜこの男が自らを差し置いて日の目を見ているのか分からない。悔しい。憎らしく恨めしい。彼がコテージを出て直ぐ、激しい憎悪に見舞われた。
「…愚弟の分際で。」

―廊下―
 こうして校舎を歩き回って気を落ち着かせなければ済まなかった。神経質なのか、どうにも平常ではいられなくなる。頭の中に靄が掛かり、視界が歪んで何かが壊れる。この症状が異常だと気付いたのは、他人と触れ合うようになってからだ。気付いたところで、自分にとってはこれが通常で、どうするつもりもなかった。異常と思うことが出来ていれば何かが違ったのだろうか。どうにかしようと動いたのだろうか。或いはこの先を今よりも楽観視していられたのだろうか。視界が歪んで、視界が犯されて、心が死滅して。この症状は数か月前、突如として耐え難いものへと変化した。あれから沢田綱吉という世界が少しずつ壊れてきている。打開することは容易だけれど、その権利は自分にはない。自分を罰するために示されたあれを消してしまうわけにはいかない。これは償わなければいけないことだ。
 こうして廊下を歩くのはリボーンに出会う前以来だ。廊下に響く足音に懐かしさを感じながら一階の下駄箱付近を歩いていると、昇降口から男子生徒が飛び込んで来た。覚えのある構えと掛け声に、自然と口元が緩む。
「お兄さん。」
こちらの存在に気が付いた笹川了平が垂れていた顔を勢いよく上げる。
「おお、沢田か!ボクシング部へ入れ!」
声を張り上げ、近付いて来る了平に小さく会釈をして、彼のボクシング部への勧誘に耳を傾けた。貧弱なこの体にボクシングは務まらないと断ると、彼は決まってしょんぼりした顔を見せる。どうも自分はこの顔が苦手だ。いつもは太陽のようなこの人の滅多に見せない顔は、こんな自分を誘ってくれるこの人の悲しむ顔は見たくない。断って直ぐ、逃げるように下を向いた。
「俺は諦めんからな!」
なんて、温かくて優しい言葉なのだろう。自分を諦めないなんて、自分に価値があるみたいで、とても嬉しい。
「体育ですか?」
「いいや、極限にトレーニングだ!」
お兄さんは極限に格好良くて、眩しくて、温かい。これまでの感謝を込めた謝辞と激励の言葉を贈ってその場を後にした。

―階段―
 階段の踊り場でクロームと鉢合わせた。彼女の口元が僅かに緩んだことを嬉しく思いながら、誰もいないことを確認してボスと呟く彼女に挨拶を返す。
「学校は楽しい?」
根城にしていた黒耀から離れて久しく。一時はどうなることかと案じていたものの、知り合いがいたこともあって、学校生活に打ち解けたようだった。感情の希薄だった以前からは想像できない程に、よく笑うようになった。年相応の少女らしい明るい笑みを浮かべるようになった。人と触れ合って変わったのは自分も同じ。リボーンが来てから今まで知ることのなかった感情を知ることが出来た。自分にとってのリボーンがそうであるように、自分や仲間との出会いが彼女にとってのそうであればいいと思った。窓の外、翳りを見せる大空への不安を胸の内に隠して。

―ジッリョネロ―
 整然とした室内、木漏れ日の射した真新しい絨毯が白を纏った少女を飾る。顔を俯かせてその木漏れ日を眺める姿は儚い。部屋に入って暫く経つが、その少女が自身に気付く様子はない。γは溜め息を吐くと、少女の小さな頭に軽く手を置いた。それで漸く自身の存在に気が付いたユニがぎこちない笑みを浮かべる。
「背負い過ぎです、姫。」
頼ればいいと繰り返し言っているのにも関わらず、全てを抱え込もうとする少女は強く、けれど脆い。円卓に置かれたトレイからティーポットを持ち上げて傾ける。ティーカップに流れる紅茶の色を確認して、そのカップをユニの前に差し出せば、口元に運ぶユニに頬が緩んだ。以前は思い詰めた顔をしていたけれど、今はとても穏やかな顔をして飲んでいる。それでも、瞳が不安そうに揺れているということはただ事ではないのだろう。
「沢田さんのことです。」

―応接室―
 窓に掛かるカーテンには皴一つなく、書類はファイリングされ棚に規則的に並べられている。秩序立ったこの部屋で、秩序を破って床に散らばるガラスの破片が日差しに淡く光っている。空は所々雲で覆われ薄暗く、辛うじて反射する程度の日差しでしかなかったが、光る破片は美しく、増していく苛立ちにそれらを踏みつけた。ここまで苛立つ原因が分からない。ここに群れがいようものなら、問答無用でストレス発散用のサンドバックにしていたことだろう。態々探しに行くのは癪だが、我慢は面倒で嫌いだ。戸を引き、群れを探しに廊下に出る。雲雀の群れ嫌いを知ってか、散り散りになって目を合わせようとしない生徒に苛立ちは限界だった。
「死んじゃえ。」
ふと、そんな言葉が聞こえて顔を向ける。学校の風紀を取り締まる立場になってからというもの、その類の言葉は滅多に聞かなくなった。制裁という名の八つ当たりが出来ると期待に視線を向けた先、その言葉の発し主は自身に目もくれず立っていた。そのことに落胆しながらその視線の先を追う。
「沢田綱吉…。」
そこには、教室に入っていく綱吉の姿があった。具合が悪いのか、顔色が悪い。発し主は、綱吉を殺気の篭った鋭い眼で睨んでいる。負の感情が籠った目は腐る程見て来たけれど、恐ろしいと感じたのは初めてだった。
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