Hurts


 世界は上に広がっていた。自分より下のものなんてなくて、上にいる人とは誰とも視線が合わない。見下されるために生まれてきたのかという皮肉を問われれば、それは少し違うと答える。生まれて間もない頃は、見向きもされなかった。そうされる心当たりがないまま必死にもがいて、やっと見下されるくらいになったのだから。あの時は生きようと必死だった。見下されても構わない。生きている証として誰かの視線が欲しいと願いもがいたからこそ、今がある。初めは、自分がこの世に存在していないのではないかと疑うくらいに認められることがなかった。それでももがくことができたのはあの人がいたから。この世で最愛の人。一緒にいた時間は少ないけれど、その時間はかけがえのないもので、それを守るためならなんだってしてきた。あの人以外に失うものなんてなかったし、あの人がいない世界で自分が生きていけるとは到底思えなかったから。あの人を失うかもしれないと思っただけで、身体の機能の一部が失われてしまったくらい、狂おしいほどあの人を愛している。あの人の愛情を独占したいと思ったこともあるが、それは叶わないだろう。状況的に不可能だというのもあるが、あの人は認めてくれた人であって、初めから認めてくれたわけではないから。
 見下されるくらいになってようやく分かった心当たり。それは分かったところでどうしようもないものだった。脳性麻痺。母親の胎内で、或いは生後4週間ほどいた保育器内で脳を損傷し、失調型とアテトーゼ型の混合型四肢麻痺を発症した。要約すれば、神経伝達がうまくいかないために転びやすかったり、精神の状態によってできることができなくなったりというようなものだ。物心ついた頃には保育器からコロニーに移っていて、下肢に矯正のための装具を装着していた。装具は成長に合わせ何度か作られる。型を取るために連れられる部屋があって、自分はその部屋とその部屋にいる時間がとても好きだった。たった数分の間だが、足が自由になる唯一の時間だったから。装具を脱がされ、外気に晒された足の解放感と言ったら筆舌に尽くしがたいもので、バケツに張られた水で足を洗われる際はとても心地よかった。装具士が準備をしている間、自由になった足を少しだけ動かす。軽くて、涼しくて、座らされた台の上で束の間の自由を満喫した。台の上のラッピングを乱すわけにはいかなかったので動かせるのは四肢と頭だけだったが、それでも十分だった。素足にラップを巻かれて紐を当てられる。これで自由は終わりだ。水で濡らされたギブス包帯を巻かれ、重さと熱さを取り戻した足に口元を下げる。部屋に漂う石膏の匂いに鼻を鳴らせば、装具士がギブス包帯を馴染ませるために足先を揉んでいた手を止めた。数分ほどして包帯が固まり、紐に添い型が削られていく。カッターがラップを滑る感触に鼓動を速めつつ、こそばゆさに唇を噛んだ。くすぐったいと身を捩っているうちに、削り終えたらしい。型とラップを脱がされ、再び外気に晒された足は、直ぐ様馴染みの装具に仕舞われた。これでしばらく自由はない。お風呂に入るときも袋で装具が濡れないように足を包んで入るから、脱ぐことは決してないのだ。というより、工具を使わない限り脱げない。熱くて夏の夜はなかなか眠れないし、ベッドの横に立てた板を見るとひどく虚しくなる。板は寝返りで壁を蹴ってしまった時に壁が傷つかないよう、母さんが用意したものだった。こんなことなら、脱ぐ経験なんてしたくなかった。腐ってしまったらよかったのに。自分がベッドに潜った頃合を見て、装具の代金を家計簿に書き留める母さんの姿が脳裏に焼き付いている。コロニーのベッドで眠る日の方がよっぽど気が楽だった。二段ベッドの上からナースステーションの灯りを眺めて呆けている方がよっぽどいい。
 リハビリをして、ご褒美に自動販売機で自分の好きな飲料を買うのが日課だった。といっても、リハビリは理学療法士によるマッサージのようなもので、して貰っていたというのが正しい。たまに手摺りを使って歩いたりしたが、支えてくれていた療法士の方が労力は大きいだろう。加えて、四肢麻痺と言っても両手は正常に近く、作業療法士によるリハビリは殆どなかった。あったとしても、手芸や螺子巻きといった小道具を用意するのは療法士で、自分は用意された小道具で遊ぶだけだ。だから褒美はその人たちに譲るべきだったのだろうけれど、情を向ける間もなく替わっていく彼らに母さんの手から渡された硬貨を譲りたくなかった。
 幼稚園に入園が決まった頃、装具が着脱可能なものになり、通院もコロニーではなく福祉センターになった。母さんに教わった方法で独りセンターに通いリハビリをして貰って、帰宅してからは療法士に教わった方法で独りリハビリをする。寝る前にはプラスチックの装具を泣きそうになりつつ着けて、体温で徐々に熱くなる装具に泣きながら眠った。そして入園した日、軽度のものだったが歩行が不自然で視線を集めるかと思いきや、関わりたくないと思う気持ちの方が大きかったのか、視線を向けられることはなかった。上からの視線も、同じ高さの視線もない。コロニーとセンターしか知らなかったから自分の歩き方を不自然だと思うことも、意図して向けられない視線を知ることもなかったが、知ったことで、自分がどこか間違っていることに気がついた。気づいて、不完全な自分を大嫌いになり、恥ずかしく思った。母親も入園時の周りの反応が恥ずかしかったのだろう。福祉センターに出かける時と幼稚園に通う時以外、日の昇る内は外出を許さなかった。そんな中であの人は母さんのようになることもなければ、こちらを見ることもなかったけれど、恥ずかしいとか関わりたくないとかじゃなくて、多分受け入れられなかったのだと思う。それに気付いて、何故かとても悲しくなって、認めてもらうために必死にリハビリをした。その甲斐あってか不自然な歩行は改善されたが、頻繁に転ぶのは相変わらずだ。
 転んでばかり、試験時など、緊張を強いられた時に体の自由がなくなることを差し引いて、見た目には何の問題もない。にも拘らず、母さんは明るい内の外出を許さなかったので、夜に出かけた。日付の変わる一時間前までには家に帰るように言われていたので、遠いところには行けず、巡回の警官に注意を払いながら、よく近所の公園で遊んだ。小さな公園だからか、酩酊している中年がたまにベンチで休んでいるくらいで夜の公園には殆ど誰も来ない。今日も誰もいなかった。幼稚園で遊べなかった分、今日もここでたっぷり遊ぼうとブランコに駆け寄る。幼稚園のタイヤのブランコとは違い、ここは板だ。滑り落ちないか不安になりながらも腰かけ、昼間、園児がやっていたのを思い出しながらブランコを漕いでみる。重心を変えてみたり、勢いをつけたりすること数分。ブランコが弧を描き始めた。思わず口元が緩む。それから苦戦しつつもこつを掴んでブランコがある程度の高さまで揺れるようになると、漕ぐのをやめて揺れに身を任せた。夜風が心地いい。見ることのない高さの景色を目の当たりにして思わず溜息が零れた。明日も明後日もやろう。卒園するまで後数か月。母さんが小学校は幼稚園から少し離れたところにすると言っていたから、新しい場所で恥ずかしい自分を知らない友達を作って一緒にブランコに乗って遊ぼう。きっと、とても楽しい。
 小学校に入って何もかもうまく行くと思っていた。見た目を重視し過ぎていたのだと思う。階段を昇り降りするときの恐怖や乏しい体力とバランス感覚、緊張状態の不自由さといった外見では判断できない問題が引き起こした弊害に、夢見ていた人間関係は構築できなかった。階段の前でもたもたしてるうちにクラスメートに置いていかれたり、体育の進捗を滞らせてしまい非難の目を向けられたり、自転車に乗れないことに気が付いて必死に練習してる間にクラスメートの中でグループが出来て孤立したり、緊張で息が出来なくなり、芳しくなかった試験の結果を嘲笑されたり。数えれば切りがない。己の能力不足が招いた息苦しく生き苦しい世界。そんな中で、母さんの表情が少し明るくなったことが唯一の救いだった。どじを踏むと顔を顰めるものの、一緒に外出することを嫌がらなくなって、授業参観にも来てくれるようになった。公の場で一緒にいたことなんて、コロニーとセンターでの数回を除いて一度もなかった。幼稚園では、どうしても必要になった時、例えば熱を出して歩けなかった際は父さんが迎えに来ていた。だから、初めて来てくれた時は失敗をしないように、活躍できなくてもせめて周りと同等に見えるように、二度目も来てもらえるように、今までになく緊張の糸を張っていたと思う。
 小学生三年目も折り返しの時期、日課にしていた夜の散歩の途中、ふと立ち寄った公園でブランコを漕いでいると、公園の入口から背中に大きなものを背負った男性が入って来た。公園に自分の姿を認めると、警戒させないようゆっくりと近づいて来る。面識はないが、なんとなくだけれど、その人は悪い人ではないように思った。悪い人ではない、というより、悪いことを考えていない。悪いことについて、漠然とした知識しかないくせに、こういう見立てはよく当たる。傍に立った男は、無精髭の生えた顎を軽く撫でると、隣接したブランコに腰掛けた。
「こんばんは。こんな夜分に…、いや、キミは音楽が好きか?」
穏やかで低い声が夜の公園に響く。男の斜め後ろにある街灯が頼りない光を灯していて、声に呼応するように揺れた。不思議だ。子どもがこんな時分に独りでいる事に何か言おうとしてやめたこともそうだけれど、何より好みを聞かれたことが不思議だった。自分の好きなものはいくつかあった。でも、それを聞かれたことなんて、そもそも自分のことを聞かれたことなんてなかった。目立たないように生きてきて、他人から興味を持たれることがなかったから。なかったからといって、興味を持って欲しくなかったわけではない。寧ろ誰かに構ってほしかった。その答えを持ち合わせていない自分を情けなく思いながら、俯く。
「俺は、大好きだよ。」
そんな自分に何を思ったのか、男に頭髪をかき混ぜられた。心地良さに目を細める間も無く男の手が遠ざかり、背負われた荷から伸びる肩掛けを外していく。名残惜しく思いながらも膝の上に置かれたその荷に目を向ければ、ファスナーの割れた先からアコースティックギターが現れた。商店街で似たようなものを見たことがある。
「これは、俺が初めて買ったギターなんだ。」
懐かしむようにギターの弦を撫でる男を羨ましいと思った。好きなことの為に行動できる幸福を自分は知らない。果たしてそれを知るときは訪れるのだろうか。
 「何か、知っている曲はあるかい?」 
糸巻を回してチューニングをする男の手は自分のそれより一回りも2回りも大きい。弦を張る音、弾く音を生み出すその手を眺めていると、男が照れ臭そうに笑った。全てが新しい。自分に掛けられた優しい声。向けられた笑顔。見止める視線。耳を塞いでいたのは、優しさを偽った声が恐ろしかったから。眺めることを止めていたのは、異物を見るような、認められない物を見るような周りの目が怖いからだった。それでも寂しくて、哀しくて。初めて聞く優しい声に縋るように目を啓いた。そうして啓かれた視界の先には己を映した嫌悪のない目があって、ああ、自分はこの世にきちんと生を受けていたのだなと実感する。頬を伝う涙を隠すように首を振れば、男は少し考える素振りを見せた後、ギターの弦をピックで弾き出した。自信に満ちた手で紡がれた音は懐かしいものだった。CDよりもレコードの音楽を好んで聴いていた父さんが、その中でもよくかけていた音楽。自分も好きで、その音楽が流れたときは忍び寄って傍で聴いていたし、母さんと父さんが家を空けた時には、レコーダーの前に陣取って針が消耗するまで聴いたことがあったくらいだ。その時は針が消耗することを知らなくて、雑音の入り始めた音楽にひどく驚き、怒られることが怖くて、帰ってきた2人の顔をまともに見ることができなかったっけ。怒られはしなかったけれど、聴こえてきた溜め息が悲しくて、それ以来、勝手に音楽をかけることはしていない。少し前から父さんが家を空けることが多くなったので久しく聴いていなかった。懐かしさに、歌詞を口遊む。
「…とても、きれいだ。」
溜息交じりの声に釣られて男の顔を見上げれば、とても優しい顔がそこにはあった。
 また会う約束をして、帰りを心配する男に圧されるがままいつもより早い時間に家路につく。男と出会ってからほんの数時間、一生分の感情を経験した気がする。初めて認めてくれた人。初めて温度をくれた人。この人に出会えてよかった。生まれたのは神様の手違いじゃなかったんだ。家まで送るという男の温かい手に引かれて辿る道は、とても短く感じられた。
 それから毎晩男は公園に来て、隣で音楽を奏でた。知っている曲、知らない曲、毎夜毎夜異なる音楽に、明晩への楽しみが募るばかり。知っている曲であれば、弾き始めから歌う。知らない曲であれば、男が一度歌ってから歌う。これが暗黙のルールになった頃には、手取り足取りギターを教えて貰うようになった。硬く、間隔の開いた弦を押さえきれず、思うように音は出ない。頭では分かっていても実行できないもどかしさに溜め息が絶えないけれど、決して諦めようとは思わなかった。指の先に出来た豆が潰れても、手が痺れても体は止めない。痛み以上の胸打つ思いが体を突き動かしているとでも言わんばかりに、ただ我武者羅に、馬鹿の一つ覚えみたいに弾き続けた。そうしてあっという間に過ぎた一か月。男はそんな自分に呆れることなく傍に寄り添い、初めて一つの曲を弾けたときには自分のことのように喜んでくれた。
 ある晩、待ち合わせに指定された商店街の一角に向かうと、ブルーシートの上で胡坐をかき、いつものようにギターの調節をしている男がいた。日没に併せて点灯した商店街の明かりが錆びついたシャッターとともに男を照らしている。灯に照らされて青白く光るブルーシートの上の男は公園にいた時とは別人のようで近寄りがたい。恐る恐る近付くと、自分に気づいた男が嬉しそうにブルーシートを叩いて、隣に座るよう促した。目と鼻の先に来て、ようやくいつもの彼だとほっとする。促されるままブルーシートの上に腰掛ければ、地面とシートが擦れる乾いた音がした。
「こんばんは、綱吉君。寒くなかったかい?」
聞き慣れた声に相槌を打って、差し出された水筒のカップに口を付ける。ホットココアだった。ココアの独特な甘さに、いつの間にか口が苦くなっていたことに気付く。誰かに誘われて何処かへ向かったことが初めてで緊張したのか、それとも向かった先に誰もいないことを恐れていたのか。カップの中のココアの香りとそれに映る自分の顔がここに来るまでの自身の心細さを浮き彫りにしていた。その心細さを飲み干して、カップを男に返す。
「さぁ、歌おうか。」
 いつものように、いつもとは違う場所で歌う。知らない人間がいる場所で、知らない人間が見ている場所で歌う。けれど、緊張はない。不思議だ。聞こえる音は男と自分のギターの音だけ。視界にはいつも通りギターを奏でる男がいて、その瞳には男を見上げる自分の姿が映っていた。男はまっすぐ自分を見てくれている。ここは横の世界だ。上も下もない。常に考えていたことが頭から消えていく。男は自分が欠けていることを知ったらどう思うだろうか。嫌うかもしれない。知らないままだとしても、こんな自分が傍にいて迷惑に感じていないだろうか。恥ずかしく思っていないだろうか。口から全ての感情が流れ出されていくようだ。体の底から得体の知れないものが沸き上がってきて胸が苦しく熱いのに対して、体の表面は凍えそうな程寒い。自身の頬を汗が伝い落ちていくのがわかる。それが体内の熱によるものなのか、体面の寒さによるものなのか分からないけれど、この横の世界に自分という存在が生きていることを確実に示していた。
 ふと、ギターの音が止んだ。歌い終わったのだと気付いて思わず自身を抱き締める。小刻みに震える体を抑えようと躍起になっていると、鼓膜を破る勢いで歓声と拍手が聞こえてきた。それだけじゃない。空気の音。照明の音。シートの音。人の生きる音。時間を取り戻すように、いろいろな音が聞こえてくる。頭に響く耳鳴りに眉を顰めつつ男から目を外せば、いつの間にかシートの周りに人だかりができていた。
「綱吉君。キミが彼らを動かしたんだよ。」
 その言葉に視線を戻せば男の指が弦を弾いていて、突き動かされるように弦を鳴らし歌う。認められた。見止められた。横の世界から覚めても、周りは横の世界のままだった。嬉しい。幸せ。これ以上を表す言葉を知っていればよかったのに。
 それから幾度となく熱くて寒い世界を生きた。あっという間に時間は過ぎて、気付けばいつもの公園に連れられていた。ブランコに腰かけた男に促され、その太腿に腰を下ろす。体に伝わる体温に突然目頭が熱くなって、堰を切るように涙が溢れた。
「どうだった?」
あの経験を上手く表す言葉を自分は持ち合わせていない。けれど、確かなことが一つだけある。どうだったではなく、どう感じたかになってしまうけれど、あの時間はとても心地の良いものだった。今までになく自己中心的で、傲慢な感想。だから気持ちよかったと、そう答えた。
「そうか。…でもね。独り善がりはいけない。それは、彼らへの冒涜だよ。僕らは彼らから力を得て初めて、その力で思いを彼らに届けることができる。僕らと彼らは持ちつ持たれつの関係なんだ。」
男の言葉に、自分もその僕らの一人になりたいと思った。なれるだろうか。なれるだろう。横の世界を知ることができたのだから、いつかきっとその願いも叶う。そうしたら男は喜んでくれるだろうか。
「大丈夫、キミは彼らを動かした。彼らに動かされるようになれるさ。」
優しく頭を撫でる大きな手はどこまでも暖かい。泣いていることを知られたくなくて、涙を拭うことなく俯く。俯いた先の地面には街灯で大きな影ができていた。ブランコと男の影。そして、そこからはみ出る小さな影は、紛れもない自分の影。この先、滲んだこの光景を忘れることは決してないだろう。
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