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ぎしり、と腰かけていた椅子の背もたれに体重を預ける。
放課後になってからずっと酷使続けていたおかげで疲れた目の筋肉を解すために、かけっぱなしにしていた眼鏡を机の上に置いた。左手で眉間を揉みながら、右手は反対側の肩の筋肉を解す。学年通信だとか保健だよりだとか、とにかくごちゃごちゃとプリントが所狭しと折り重なる上に置かれたレンズには、白い蛍光灯の光が薄らと反射している。きっと今そこに自分の顔が映ったなら、大層疲れた顔とご対面することになるのだろう。強張った右肩をぐるぐると回しながら窓の外に目をやると、その薄いガラスの向こうに見える風景は全てが橙色に染まっていた。
もうこんな時間になっていたのか、と机が置いてある壁とは反対側の壁に掛かってある時計を見遣ると、確かに自分が思っていたよりも時間は経っていたようで、短針と長針が大体同じ場所で止まっていた。そう言えば少し肌寒くもなってきた気がする。息抜きついでに珈琲でも淹れようかと未だじんわりと重い目頭をまた左手で押さえた。

こんこん。控え目だけれど部屋にしっかりと届く扉のノック音。
この部屋を訪れる生徒たちも割と多くいたが、扉を叩く音もそれぞれに十人十色だった。
その中でも一番聞き慣れた叩き方だったせいか、ずっとパソコン画面を見続けていて疲れていたせいか。生徒に返すべきではないくらいだらけきった声で、どうぞぉー、と一言間延びした返事をすると、律儀にも扉の向こうで「失礼します」と恭しい声が聞こえた後、ずっと閉まっていた扉が開いた。
姿を見せた訪問者はいつも教室で見かける仏頂面で、俺と目が合うと軽く頭を下げて、目線で「今大丈夫ですか?」と問うてきた。おいでおいで、と手招きすると、ようやく扉の前で固まっていた足を俺の居る部屋へと動かした。

長く伸びた黒い髪が真っ直ぐに背中に流れている。扉を閉めるためにとほんのちょっとだけ屈んだことによって、小さな波を描いて音もなく黒髪が揺れた。伏し目がちになった瞳も、それを縁取る睫毛も見事に黒に染められている。
そう、今目に映る人物は上から下まで見事なまでに黒ずくめだった。長髪とはあまり無縁そうな、いや逆か、学ランとはあまり無縁そうな長髪を携えた俺のクラスの学級委員長は、静かに扉を閉め終えると改めて俺の方に向き直った。

「てっきりもう帰ったのかと思ってたよ」
「……先生の方こそ。携帯、見れないくらい没頭してたんですか?」

無愛想な表情は崩さないまま、桂は来客用にと部屋に立てかけられていたパイプ椅子を慣れた様子で広げて腰かけた。そのまま自然と向かった桂の視線は俺の机の惨状を捉えたようで、俺は自分の癖の強い髪の毛をぐしゃりと手で潰した。

「あー…悪い、気付かなかったわ。メールくれたの?」
「ええ、まぁ。今日は夜どうするのかと思って」

じっとこちらを見ている瞳はまるで何か大切なことを聞き出しているかのように真剣で、俺は思わず内心身じろぎしてしまった。
俺と桂の関係は、生徒と先生という一般的なものに加えて、お互いの情と情を交じえる関係(簡潔に言ってしまえば恋人というものなのだけれど)であって、明らかに今の桂の目は後者に挙げた方の目つきだ。

「……今日って予定入れてたっけ?」
「いえ、事前には何も。でも……」

言葉を濁した桂の目は、まだじろりと俺を射ている。
約束していなかったのなら咎められる訳も無いはずなのに、どうして桂はこんな鋭い目線を向けているのだろうか。軽口でも叩こうものならそのまま心臓を貫かれてしまいそうなくらいの静かな威圧感を放つ生徒兼恋人に、何か彼を怒らせたのだろうかと今日一日の行動を頭の中で辿ろうとした。が、思ったよりも冷静に頭が働かない。今日一日は仕事ばっかりしてたもんなあ、と頭の中で独り言ちた。
そんな俺の様子を見ているのに飽きてしまったのか、それとも呆れたのか。桂が突然床に置いていた通学鞄を膝の上に乗せて、何かを探し始めた。単純に何を探しているのだろうか気になって、疲れ切った頭でぼーっとそれを見ていると、存外速く見つかったらしいそれは、鞄からその姿を見せた一瞬(緑色の小さめな紙袋だった)、俺の胸にダイブしようと宙に弧を描いていた。

「え、ちょ…!」

慌てて両手を伸ばして、こちらに向かってきた物体を反射的に手中に収める。
中に何が入っているかは知らないが、手に取った感じでは随分軽い。

「……っと、え、なに、」
「あげます」
一体これをどうしろと?胸の内で考えていた俺の疑問に答えるように、桂が俺の言葉を遮った。

「はあ?何で突然、たん……」
誕生日でもあるまいし、と紡ぎかけた言葉は自分の意志で掻き消された。

今日は十月に入ってから、何日経つっけ?

ばっ、と後ろを振り返ってカレンダーを見ようとする俺を見て、桂は眉尻を下げて「やっぱり忘れてたんですね」と小さく呟いた。
壁時計の少し下に位置するところに掛けられたそれ。規則的に並ぶ数字の羅列には、一桁の数字には全てバツ印が付けてあった。

桂の言動をようやく理解したところで、パイプ椅子が軋んだ音が耳に響く。音の方を見遣ると、さっきまで腰かけていた黒髪の生徒は、窓の方へと歩を進めていた。
落ちかけた太陽の光が窓から零れて、窓際に立った桂の影が橙に染められている。綺麗だ、と思ったと同時に、その長い髪に指を絡めたい衝動が生まれる。こちらを振り向いて少し首を傾けた仕草に、どうしようもなく胸の鼓動が早まった。

「……開けていい?」
「先生のお好きに」

さっきまでの疲れが吹っ飛んでしまったと感じるくらいには浮かれてしまっていたが、そこは表に出さないようにと、逸る気持ちを抑えつつも静かに手の内に収まっていた紙袋の口を開いた。

「……これは…」
「可愛いでしょう?」

嬉々として語る桂を見て、紙袋から覗いている白いキャラクターの真ん丸い目を見る。そいつは両目をぱっちりと見開いて、袋の底からこちらの様子を伺っているようだった。
意を決してそっと取り出してみると、それは鍵の頭部分とでも言えばいいのか、そこをキャラクターの顔がすっぽりと覆う形の、所謂キーカバーというやつだった。
俺のとお揃いにしようと思ったんですけど、敢えてちょっと違う表情のにしてみました。そう言ってまた通学鞄に手を突っ込んだ桂は、きっと自宅の鍵だろう、ひょいと持ち上げられた先には今俺の手の中にあるのとそっくり(桂の方のは片目を瞑っている)なカバーがかけられていた。

嬉しい。桂からのプレゼントが嬉しいのは事実だ。
けれどもこいつのセンスを忘れていた。

「……可愛くは、ない」

正直に言ったら機嫌悪くなんのかな、と思いながらも頭の中で考えたままが口に出ていた。
心なしかさっきよりも俺の方を食い入るように(むしろ射殺すと言った方が適切なくらいに)見つめ続ける桂お気に入りのキャラクターに少々気まずい思いになったが、そんな俺に反して桂は何故だか嬉しそうな表情を浮かべていた。

「でも、付けてくれるんでしょう?」
「……付けねえ、絶対付けねえ」

「でも、喜んでくれているんでしょう?」

続く桂の言葉に俺は思わず喉を詰まらせた。
何か言い返そうと考えあぐねていると、桂がくすくすと小さく声を漏らして笑いながら俺に近づいて来る。

「そういうのをツンデレっていうらしいですね」
「ちげーよ馬ァ鹿」
「そういうの、ですよ」
「お前なあ…」
「せんせい、」
桂が楽しそうに笑うものだから、まだ俺をからかう気なのかコイツ、とか思っていたのに。段々と縮まる距離につれて徐々に大きくなる俺の鼓膜を揺らす声は、俺の予想がことごとく外れてしまったことを告げた。

「誕生日、おめでとうございます」

言われて頭が一瞬思考を停止する。
桂の声が近い。気が付けばさっき椅子に腰かけていたよりも俺の傍で、桂が笑っていた。
数秒の間を置いてようやく思考を再開し始めた頭を、紙袋を持っていない方の手でガリガリと掻きむしった。

「……どうも」
「おめでとうございます」
「……うん」
「そんなに頭掻き続けたら髪の毛抜けますよ」
「ヅラなのはお前の方だろ」
「ヅラじゃないです桂です」

何時ものやり取りも何処か甘ったるく聞こえて、はあぁ、と大きく溜め息を吐いた。頭を掻き回す手が止められないまま(気恥ずかしいにも程がある)でいると、俺の隣に立っている桂の手がそっと俺のその手に重なった。動かし続けていた己の手をぴたりと止める。自分の体温よりも少しだけ低い温度を感じながら、俺はもう一度一つ溜め息を吐いた。

「……あんがと」
「はい。……やっぱりツンデレ、」
「うん違うから、ちょっともうお前黙って」

早口でまくしたてて、手にしていた紙袋を膝に乗せ直して空いた手で桂の髪を軽く引っ張ってやった。そんな行為でも今漂う雰囲気の中ではただの甘い戯れにしか映らなくて、これから俺の家に向かうまでの間もきっとこの空気が纏わりついてくるんだと思うと、どうしたもんかなぁ、と心の中で呟いた。
掴んだ桂の髪はさらさらと手に馴染んで、橙が溶け込んだその黒が、やけに暖かく心に沁み入った。



溜まっていた仕事に一区切りついたところで、桂と共に俺の車に乗り込んだ。やはり何時もと違ってどこかくすぐったいような感覚に揺られながら、後部座席に座った(助手席に座らせたいのは山々だったが、世間一般から見る俺たちの関係性を忘れてはいけない)桂とバックミラー越しに目が合う度に、胸の奥で燻る感情が静かに積もっていった。

間借りしているアパートの部屋に着き、いざ鍵を開けようと思い鞄を漁ると、俺の鞄の中からこちらをじっと見つめる視線と俺の視線とがかち合って、思わず一瞬固まってしまった。ちらりと無言で桂を見遣ると、「だって先生、付けないって言ってたから」だと。
どうやら俺の家に向かう車の中で、桂は俺にばれないようにとこっそり俺へのプレゼントを取り出して、ここに着くまでの間にいそいそと、ご丁寧にも俺の鍵に装着していてくれたらしい。

「これなら外さないでしょう?」

「どうだか」と笑ってやると「絶対外さないくせに」と、また桂が笑うものだから、黙んなさいと言って桂の鼻をつまんでやった。

どうせしばらくすれば、この吸い込まれてしまうような視線にも慣れるのだろう。
そう思って手元に視線を落とすと、そこからこちらを見ている顔が不思議とさっきまでの表情とは異なって見えたので、すでにその心配も無くなったようだ。
そのキャラクターを可愛いとはやはり思えそうにも無かったけれど、桂が俺のためにと選んでくれたものならば無下にすることもできないし、する気も起きなかった(起きる訳がなかった)。

ぽんぽん、と桂の頭を優しく叩くと嬉しそうに、それでいて得意気に桂が笑うものだから、ちょっとだけ悔しくなって、そっと桂の唇を掠め取ってやった。

(別にお前が付けなくったって、付けてたよ)
触れた先から零れそうになった言葉を、ぐっと喉の奥へと押し遣った。


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