02




「外に出たいだなんて思ってはダメよ。外はバケモノだらけなのだから……ね?」


お母さんの優しい声が頭の上から降ってくる。
あたしの頭をくしゃりと撫でるお母さんの手はいつも温かくて、もっと撫でて欲しくなっちゃうの。


「あなたはここに居るのが一番安全なの」


分かっているよ、お母さん。あたし、良い子だもの。
言いつけを破ったりはしないの。
ねえ、あたしの優しい優しいお母さん。
あたし、良い子だよね? 悪いことしてないよね?
だから、もっと撫でて。もっとお話しして。もっと抱きしめて。
もっと、もっと。もっと、もっと――。


「いい? 皆さんの言うことを聞いて良い子にしているのよ?」


本当は、次はいつ会いに来てくれるの?って聞きたいけれど。
そう聞くといつもお母さんは困った顔をするから。
良い子のあたしはそんなことを聞いたりはしないの。
にこやかに手を振ってお母さんが次に来てくれる時をただただ待つの。


この部屋の中で、ずっとずっとずっとずっと待つの。








パクノダが到着した時は高い位置にあった太陽も、数時間経った今ではもう、西の地平線へと姿を隠し始めていた。
そんな中、パクノダは西日を受けて赤色に輝くステンドグラスの光を受けながら、ベッドの上にちょこんと座り続ける少女に溜息を吐いた。

「ねえ、あなた、退屈じゃないの?」

この部屋から逃げ出す可能性は極めて低いとの団長の判断から、少女を拿捕していた縄はしばらく前に解かれていた。しかし、縄を解かれてからも少女は何をするでもなく、ベッドの上にこぢんまりと座り続けている。
何をするでもなく、ノートを片手に壁や床に描かれた紋様を忙しなく調べている団長やシャルナークや、あるいは少女の監視役としてベット脇に配属されながらもやることが無くて筋トレをし始めたフィンクスを、温度味のない瞳でぼんやりと見つめるだけで、お絵描きを始めたり手遊びを始めたりと、この年頃の子供なら普通に行うようなことを全くしようとしなかった。

「まあ、いいわ。私も時間を持て余していることだし、絵本を読んであげるわ」

首を傾げるだけの少女に一方的にそう告げると、パクノダはベッド奥に並べられた女児用玩具の山から一冊の絵本を取り出して広げる。

「『精霊テレジアの物語』? この街の成り立ちの話かしら。面白くも無さそうな絵本ね。でも、いいわ」

パクノダは本から視線を外すと、相変わらずベッドの縁に足を揃えて腰掛けている少女を見ながら、自身の膝をポンポンと叩いた。しかし、少女は首を傾げるばかりで動こうとしない。

「……もう、鈍い子ね。そこに居たら絵本の読み聞かせにならないじゃない、こっちにいらっしゃい」

数秒経ってから、膝を叩く仕草が「こっちに来て膝の上に座りなさい」との意味だとやっと理解した少女は、ハッと顔を上げてパクノダの顔を見つめながら太ももの間に指を挟み込んでもじもじと身体を揺らす。

「なあに、絵本読んでもらったことがないの? いいからいらっしゃいな」

半ば強引にたじろぐ少女を抱きあげて、パクノダは少女を膝の上に乗せた。その時パクノダの「絵本を読んでもらったことがないの?」との質問に刺激された少女の原記憶が、その答えをパクノダの脳へと語りかける。

「……そう。擦り切れてしまうほど遥か昔にしかないのね……。思い出せないほど記憶が磨耗しているだなんて。まだ親からの愛情が必要な年頃なのに可哀想に……いいえ、いいわ、最初から読んであげましょう」

パクノダに親はいない。それはここにいる他の三人にも言えたが、そもそも世界中のゴミが集まる流星街では親が親らしく機能することの方が珍しかった。親なんて必要ない。パクノダはそう考えていたが、パクノダには共に生き合う仲間がいた。
パクノダが腐臭が立ち込める汚濁の街であっても孤独の闇に苛まれることなく常に前を向いて生きることができたのは、彼らがいたからだった。

膝に乗せた少女から、低体温ながらもちゃんとした人間の温もりが伝わってくる。ここ数時間、少女があまりにも動かなかったので、もしかしたら彼女は実体化した幽霊ではないかとそんな馬鹿なことをパクノダは思ったが、少女のそれは間違いなく人間のそれであった。

パクノダは少女が驚かない程度の弱い力でぎゅっと後ろから抱き締めると、本を開いて物語を読み始めた。


『昔々ある貧しい村に、ヴェルヘルムと言う名前の男がおりました。
ヴェルヘルムは大変真面目な男で、貧しい村の未来を誰よりも憂いていました。
しかし、村人総出で朝から晩まで働いても、村はちっとも豊かになりません。貧しさで死んでゆくものもどんどん増えていきます。
困ったヴェルヘルムは、どうかもっと豊かになりますようにと、雨の日も風の日も熱心に祈りました。神はそんなヴェルヘルムの姿に心を強く打たれ、ついにはその願いを聞き入れて下さり、神は聖霊『テレジア』をこの街につかわして下さったのです。
そして、昼と夜を二つに分かつ日の真夜中、たくさんの光を振りまきながら降り立った聖霊『テレジア』は村の人々にこう言いました。
「我が名はテレジア。そなたたちの中で最も強い願いを叶えてしんぜよう」
その声を聞いた村の人々は、『お金持ちのなりたい』『もっと稼げるようになりたい』『美味しい食べ物をお腹いっぱい食べたい』などと口々に言ったが、聖霊『テレジア』は首を振って『そなたたちの願いは弱い』と言って願いを叶えようとしなかった。
そして、ついにヴェルヘルムの出番となった。
『この村を豊かにして下さい』
ヴェルヘルムの願いに聖霊『テレジア』は微笑んだ。
『そなたの願いが一番強い。あいわかった。そなたの願いを聞き入れよう』
その次の日から枯れ果てていた井戸に水が湧き出し、荒れ果てていた田畑は緑豊かになり、人々には活気が満ちるようになりました。
聖霊『テレジア』が姿を現したのはその時だけでしたが、その次の年も、その次の年も、村は栄え、いつしか村は街となりました。
その豊かさに人々はヴェルヘルムの信心深さと聖霊『テレジア』の偉大さを心の底から讃えました。
以後、街の人々は、聖霊『テレジア』が降り立った昼と夜とを二つに分かつ日を特別な日として、その日を盛大に祝うようになりました。

心優しいヴェルヘルム
偉大なる聖霊『テレジア』

かの者らに多大なる感謝と敬意を込めて、今宵も祈りは捧げられる。
それは途切れることなくこれからも受け継がれてゆくのであった。

おしまい。』


「……思った通りつまらない話だったわね。……あら?」

物語を読み終え、溜息をつきながらパタンと本を閉じたパクノダの目に留まったのは、目をキラキラと光らせている少女の姿だった。

「……あなた、そんなにこの話が面白かったの? 何度も読んでいるはずなのに?」
少女はコクンと頷いた。
「……人の趣味にとやかく言うつもりはないけれど、他人にすがっている時点でこの主人公どうかと思うわよ? 自分の道は自分で切り開かなくては。この世の中、そんな甘くはないんだから……って聞いてないわね、あなた」
今一度読んで欲しそうな顔で絵本を開いて見上げる少女に、パクノダは溜息をつく。
「……もう一度読んで欲しいって? あなた、この主人公同様、『街の幸せ』を一心に願いたい人間なのかしら? まったく、この話のどこが良かったのかちっとも分からな――……そう、あなたは『街の幸せ』を何も疑問なく願い、見えもしない存在に祈りを捧げ続ける人種なのね……」

パクノダの脳裏に浮かんだのは、生まれ故郷である流星街――四方八方から煙が立ち上る中、腐敗した空気がべとりと肌に纏わりつき、吐瀉物のようなすえた臭いが絶えず鼻につく、何を捨てても許されるあの場所で死んだ魚のような顔をして生きる人々の顔だった。

この街から出るという選択肢を選ぶこともせず、ただただ理不尽な境遇を受け入れて生き続ける生きた屍のような彼らに、かつてパクノダはこの街から脱出するよう説得したことがあった。流星街を統治する上の連中たちに、もっと外に出れる選択肢を住人に与えても良いではないかと掛け合ったこともある。

しかし、結果は徒労に終わった。状況が悪かったのではない。幼馴染以外の住人たちに、外に出ようという意思が――宿命にあらがおうという考え自体がなかったのだ。

世の中に全く異なる選択肢があることに気づいていない、気付こうともしない。この子はあの人たちと同じだわ……。

パクノダは、幼い少女の時に感じたあの遣る瀬無さを胸の奥で感じていたが、だからと言って何を言うでもなかった。人を変えることはできない。人が変わるのはその人自身が変わりたいと願ったその時だけなのだと、パクノダは痛いくらいに知っていたからだった。


「なあ、腹減らないか?」

ノルマが終ったのだろうか、ベッドの脇でひたすら腹筋・腕立て・スクワットと筋トレをしていたフィンクスが突然立ち上がって言った。

「あら、なかなか良い時間ね」
時刻を確認すると、とうに八時を過ぎていた。
「なあーお前らまだ調べ物終わらないのかー? 俺、腹が減ったんだけどー」

少女が軟禁されていた部屋には、映画館の映写室のように礼拝堂を見下ろせる小窓が付いていた。少女の背では高過ぎるその小窓も、大柄なフィンクスには障害とならない。フィンクスは階下に居るであろうシャルナークと団長に向かって大声で問い掛ける。

「まだ調べ途中ー! お腹空いたならフィンクスがどっかから盗ってきて用意してよー。……あ、南南西1.8kmの所に宅配ピザがあるみたい。今確認したら八人前の出前があと十分くらいで完成するみたいだよー?」

階下からピコピコと携帯をいじる電子音とともにシャルナークの、明らかにフィンクスに盗ってこいとばかりのいけしゃあしゃあとした声が聞こえてくる。その返事にフィンクスは表情を曇らし、パクノダを振り返った。

「……あなたが行きなさいよ、言い出しっぺでしょ?」

それから十五分後、少女のベッドの前には出来たてホクホクの八人前のピザが並べられていた。

「あー、疲れたー。ここ、結構構造が複雑でさ、調べること多くて嫌になっちゃう」

そう言って一番最初にピザに手を出したのはシャルナークだった。俺が盗ってきたのに……と言いたげな顔をしていたフィンクスだったが、芳しい香りを放つピザにどうでも良くなったのか、そのままモッツアレラチーズのたっぷりのったピザへと手を伸ばす。

「なんだ、お前食べないのか?」

手の動きに合わせてびよーんと伸びたピザを頬張りながら、フィンクスはベットでちょこんと座っている少女へと問い掛けるたが、少女は挙動不審に視線を左右に彷徨わせるばかりであった。

「……ん? なんだ、俺たちと一緒に食べるのが嫌なのか? ……違う? じゃあなんだよ、もしやピザを食べたことないってか?」

ピザ屋が存在しない流星街ならいざ知らず、まさかこんな街中でピザを食べたことがない人間がいるとは思っていなかったフィンクスは冗談交じりにそう言ったのだったが、少女はフィンクスの予想に反して小さくコクンとうなづいたのであった。

「マジかよ!? ピザ食べたことないってお前どんな生活してきた……って、あー……この部屋にずっと居たのか。……はぁ、しょうがねえな。こっち来いよ、このピザすっげー美味いぞ?」
「そうよ、こちらにいらっしゃいな」

パクノダの手招きに少女は戸惑っていたが、中央に座る団長がコクンと頷いたのを確認した後、ホッと息を吐いてとてとてとパクノダの隣へと向かった。

「これがシーフードピザ、これがミックスピザ、これがデラックスチーズピザ、それでこれが……」
「スパイシーベーコンピザだね。あと付け合わせのハッシュドポテトとポップコーンシュリンプとコールスローサラダ」

にんまりを笑いながら注文表片手に合いの手を入れるシャルナークに少女が肩から力を抜いた。

「ウボォーがいたら別だけどな。なんせ八人前もあることだし、全種類食べても問題ないぜ? ほら、どれを選ぶんだ?」

少女は迷った末に、トマトソースの上にベーコンとサラミの乗った王道のピザを手に取った。くんくんと匂いを嗅いでそれがどんなものか確認したあと、おもむろにピザを口へと運んだ。ベーコンとサラミの濃厚な肉汁と甘みと酸味の残るトマトソースとが、もっちりとしたパン生地の上で絶妙に混じり合いながら濃厚な味わいとなって少女の口の中に広がってゆく。

「……美味しい」

初めて食べたその味に少女は目を見開きながら、もう一口もう一口と頬張ってゆく。

「だっろー? なんかその店、店の外に行列出来てたし、配達のバイクも引っ切り無しに出てたからな。この辺りでは有名な店なんじゃねえの? さすが俺、見る目あるだろ?」
「……その店探したの俺なんだけど」
「いいじゃねえか、細かいことは気にすんなよ」

シャルナークの背をばんばんと豪快に叩くフィンクスに、どこからともなく笑いがあがる。黒いフードを被った男たちが不定期に持ってくる一切れのパンと一杯のワインを黙々と口に運ぶだけの食事しかしてこなかった少女にとって、それはとても心温まる光景であった。


お口を閉じて。しゃべってはだめ。
お外の人は怖い怖いバケモノだから。
心を開いてはダメ。
良い人だなんて思ってはダメ。
お外の人は怖い怖いバケモノなの。
信じたら頭からパクッと食べられちゃうの。


二つ目のピザを食べ終え、次のピザをどれにしようかと迷っている最中に、少女は正面から視線を感じ、手を止めて恐る恐る顔を上げた。目の前には、出会った当初より幾分優しい目をした黒い目の男――クロロがいた。

「……口にソースが付いている。せっかくの綺麗な顔なんだ、少しは気を使え」
そう言うとクロロは紙ナプキンを手に腕を伸ばして少女の口元をぐいと拭いた。
「……ありがと」

口を拭う仕草は、強い眼光とは裏腹にとても優しいものだった。

お外の人を信じてはダメ。
あたしを食べちゃう怖い怖いバケモノだから。

だけど――、それは本当なのかしら?
この人たちも怖い怖いバケモノなの?


結論が出ないまま手に取った三つ目のピザも、頬が落ちるほど美味しいものだった。
礼拝堂の外では世の覇者たるフクロウが、ホーホーと静かなさえずりを響かせていた。





第二話、完


[ *prev | back | next# ]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -