獄都夢 | ナノ




いらっしゃいませ


 


今日は良い天気。絶好の行楽日和でしょう。
そう朝の天気予報では告げていたはずだった。だがそれは太陽が西へ傾きだしてから嘘に代わってしまったようだ。


「ありがとうございました」


朱音はレジで預かり金を片づけながらカウンター越しに笑いかけた。少しくたびれた背広を着た老紳士は軽く手をあげてそれに応え店の出口へと歩んでいく。通りに面した壁は全てガラス張りである為、日の沈んだ薄暗い灰色の空と降りしきる雨、反射する車のライトと外灯の明かりに老紳士も溶けていくようだった。カランと鈴が鳴って開いて、そして閉まった扉から外気の冷たい空気が入り込んだ。通りを過ぎていく人は皆傘を差し、どこか憂え気に脚を進めている。朱音はほっと息をついて店内を見渡し、ちらほらと席に座っている客を確認した。明かりを抑えた落ち着いた照明とアンティークな木造の店内にはその雰囲気を害さないヒーリングミュージックが流れているが、幾分か耳を澄ませると外から雨が地を叩く音や、車のタイヤが水を跳ねる音が紛れてくる。夜へと更け行く時間帯にしても、今夜の店内の静けさは何処か異常に感じてしまう。そんな奇妙な感覚を飲み込むように朱音はやる事を探してバックへと下がろうと踵を返した。


「うわー!ビショビショだな!」


背後からの突然の声。まるで雄叫びのようなその声は静かな店内の時間を一瞬だけ止めたようだった。客は全員驚いた顔で店の出入り口を振り返り、朱音も慌てて体制を戻して声の主を迎えようとした。


「ぃいらっしゃいませ!おひとり様ですか?」

「え!?あれ!?」


入口に立っていた青年は朱音の言葉に自身の後ろを振り向いた。誰かと一緒に来ていたのだろうか、背後を覗いたまま首を傾げたり店の外の人を目で追ったりしている彼はしきりに「あれ?」と繰り返す。視線がこちらに向けられていないのを良い事に朱音はその青年をまじまじと見つめた。オレンジに近い明るい茶色の短髪姿はどこかのサッカー選手かと思う程に似合っている。身長も高めで、先程一瞬見えた顔つきもなかなか端正であった。ただ恰好が一昔前の兵隊さんのようで、今は上着を脱いで腕にかけているようだが、その襟が円を描くようになっている所を見るとやはりこれは学ラン型なのだろうかと想像する。その手に持った帽子も軍帽の様に見えるし、間違いないだろう。そこまで考えを巡らせた所で青年が再びこちらを向いた。やはり端正な顔である。瞳が黄色く光って見えるのは照明のせいだろう。


「田噛来なかった?」

「たがみ……様のご予約は入っておりませんが」

「田噛がさー、うまいコーヒー飲めるとこあるって言うからさー、教えてもらったんだよここを。教えてくれたし一緒に来るかと思ってたんだけどなー…、アイツまた館戻ったかなぁ……」

「……」


独り言なのか話しかけられているのかわからない為言葉が出せない。彼の状況も理解が追い付かないのでもういっそ気にしないでおこうと朱音は思い、青年がどう判断を下すのかそれだけを待つことにした。


「……あれ、席って勝手に座っちゃっていい感じ?」

「え?」

「案内してくれる感じ?」

「あ、えっと、おひとり様でよろしかったでしょうか?」

「そうみたいだな!」

「えっと……」


何だか今更『お好きな席どうぞ』と言えず、こちらへどうぞと窓際の二人席に案内する。青年は音を立てて椅子を引き、音を立てて座った。此処まで空気の読めないお客様は初めてだと半ば好奇心に似た驚愕を抱えながら、これが所謂DQNなのだろうか、と結論を出す。注文は決まっていないだろうと踏んで「どうぞごゆっくり」と声を掛け、今度こそバックへ下がろうと踵を返した。


「なぁなぁ!うまいコーヒー!飲めるんだろ?くれよ!」

「え、あ、種類が…」

「一番うまい奴!」

「……ホットかアイス、どちらに」

「熱い方!」

「、かしこまりました」


三度目の正直でバックに戻った朱音は、別段疲れたわけでもないのに深く息を吐いてしまった。ホールへと向かうアルバイト仲間が、すれ違い様に軽くその肩をなだめるように叩いて行く。
うまいコーヒーと言われても結論はお客様に委ねられるわけで、件の「たがみ」様が何のコーヒーを飲まれたのか分かりかねる朱音は腹を括ってオリジナルブレンドを淹れようと決めた。コーヒー豆に特別詳しいわけではないが、店長の計らいで豆の特質や味の特徴を教えてもらっていた。このカフェで働き始めてから2年程経つ朱音は、オリジナルブレンド作りを一任される1人であった。その日のオリジナルブレンドを担当する人は決まっており、基本曜日によって変わるオリジナルブレンドはこのカフェのちょっとした看板商品でもある。


「お待たせ致しました」

「……ん、来た来た」


穏やかな静けさを取り戻していた店内で再び青年に声を掛ける事は躊躇われたが、お客様なのだから仕方がないとまた空気の読めない快活な返事や動作をされると覚悟していた。だが予想外な事に青年は朱音が席へと近付くまでじっと静かにガラス向こうの大通りを見つめ、無表情に近い顔をガラスに反射させていた。声を掛ければその顔は一瞬にして笑顔に戻ったが、彼が発した声は先程よりも幾分かトーンが下げられており、まるでこの店の落ち着いた雰囲気に同化してしまったかのようだった。


「これうまい?」

「……それはお客様のお好み次第でしょうか…」

「自信ないのか?」

「自信は…そこそこ」


にやりと青年は笑んだ。朱音は多様に変化する彼の表情を純粋に面白いと思い、含んだ笑みを向けてからコーヒーを手に取る彼をじっと横で見守った。「まずい」と言われたら返金すべきだろうか、などと大袈裟に考えながら、コーヒーを口に含んだ薄い唇を目で追う。一口、二口。ゆっくりと喉が動いた。


「……これ淹れたのお前?」


カップを口元に近付けたままで、青年は朱音へと視線をやって問う。


「はい」


朱音も青年をまっすぐに見つめて頷いた。すれば彼は大きく口を開いて花が開くかのように明るい笑顔を見せると、まだ中身の残るコーヒーカップを指差した。


「すげぇうまいよ!オレ詳しいこと全然説明できないけど、このコーヒーうまいよ!」


全力の賞賛が店内に木霊するかのように広がって、朱音はあまりの恥ずかしさに肩を竦めて視線を彷徨わせる。素直に嬉しいが、周りの視線も痛い。それでも「お気に召されたようで何よりです」と応えると、青年はとても嬉しげに頷いた。



その後、恥ずかしさで半ばバックに籠るようにしていた朱音だったが、アルバイト仲間に呼ばれてホールへと顔を出す。イヤな予感を抱えて行けばそこには会計を済ませたのであろう青年がレジカウンターを隔てて立っており、彼に背を向けているアルバイト仲間が口パクで「ドンマイ」と告げていた。


「ど、うなさいました…?」

「朱音は毎日ここに居るのか?」

「いえ……、基本的には火木土日の夜に居ます」


突然名前を呼ばれた事に驚いたが、そう言えば名札を付けていたと自身の制服を一瞥する。


「そうすっと、えーと……。今日がー…」

「木曜日ですね」

「あぁ!?じゃあ明日は飲めないじゃん!何だよー…、明日仕事終わってから来ようと思ったのに」

「す、すみません…」

「……ふーん。まあ、その曜日にここに来ればうまいコーヒーが飲めるんだな!」

「そう…ですね」


落ち着いた雰囲気に同化したなんて気のせいだ。この人ただ感情の起伏が激しいだけだ。


「今度は田噛も連れて来るからさ!」

「……はい、お待ちしております」


心よりとは言えないが。


「オレ、平腹!じゃあまたな!」

「はい、ありがとうございました」


何故名乗ったのかと思う暇もなく、平腹は背を向けて出入り口の扉を開けた。朱音はマニュアル通りに軽く会釈しつつ、その間際溜め息代わりに少し長めのまばたきをした。それから顔を上げて見た先の大通りには平腹の後ろ姿が見られず、雨も降っている事だから走って行ったのだろうと結論付け、ふと違和感を覚える。

扉の鈴が鳴らなかった。

慌てて店内を見回すが彼の姿はどこにもない。やはり扉を開けて出て行ったのだろうと思いつつも、朱音は訝しみながら一つしかない出入り口に手を掛けた。取手を引いた時点でカランと音を立てた鈴に、ホールに居た従業員が客の来店と間違えて「いらっしゃいませ」と口を揃える。


「……私が聞き逃しただけかな」


だが思い出す。
そう言えば彼が来店した時も、鈴の音が鳴っていなかった。ビショビショだと言って現れたが、果たして彼の服は濡れていただろうか。手にしていた帽子も上着もブーツもズボンも、濡れるどころか水シミ一つ無かったはずだ。


「いや、……そんなわけないって」


全部気のせいだ。




ひらはら様が扉を開けた時。扉の向こうが全く別の場所に見えたなんて事、あるはずないんだ。





2015.04.10

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