人影は無く静まり返った校庭に、電気が消えた薄暗い校舎。夜風に揺れる木々のざわめきとそれに重なって時々聞こえるカラスの鳴き声。夜の学校ってどうしてこんなに不気味なのだろうか。怖い要素が盛りだくさん過ぎて足の震えが止まらない。この馬鹿みたいに広い氷帝学園の敷地内をたった一人で歩くという貴重な体験をしているというのに、全くテンションが上がらない。

ガサガサ

「ヒィイッ!なんだ…風の音か…」

 成績に大きく関わってくる提出課題の期限が明日までとも知らずに部室のロッカーに置いてきてしまうなんて、私ってばうっかりさん。しかもその課題が終わっているなら未だしも、まだ半分以上埋まっていないという絶体絶命の境地に立たされている。明日早起きして登校したとしても絶対に間に合わない。そんなすぐに終わらせられる量じゃなかった気がする。だからこうして夜の学校に忍び込んで部室棟に向かっているのだ。課題のためにここまでやる私は偉い。自業自得だけど。

「静かだから怖いんだよな。よし、歌を歌おう。何が良いかな?勇気100%とか良いかな?勇気なんてないけど」

 とりあえず無音が怖いからベラベラと独り言を話してみる。普段なら絶対に独り言なんて話さないけど、今はせめて自分の声だけでも聞いていたい。風が吹く度に聞こえる不気味な音がゾクゾクと背中を撫でる。もう嫌だ。思いっきり叫びたい。そして帰りたい。でも部室はもう目と鼻の先だ。あともう少しの辛抱で帰れる。頑張れ私。と、自分を励ましながら部室のドアに鍵を差し込んでドアノブを掴んだ。す、と目を閉じて深呼吸する。大丈夫、何も怖くない。

「もう何も怖くない!!!」

 バァンッ!扉を勢い良く開けて素早く電気を付けた。部屋が明るければこっちのもんよ。よし、もう大丈夫だ。ゆっくりと目を開けて顔を上げた。ほら、何も怖がることはない。目を開ければそこには見慣れた部室が広がってー…




 一瞬、視界の端にゆらりと立ち上がる人影を捉えた。身の毛がよだつ感覚がして、ゆっくりと息を飲む。誰か、いる。こっちを見ている。




「なまえさん」
「いやぁあーーーーッッ!!!」
「ちょっと、なまえさん。暴れないでください」

 いやいや!?何!?誰!?怖い怖い!こっち来ないで!目を瞑って後ろのドアまで後退りながら抵抗するようにブンブンと腕を振り回していたら、パシンと良い音を立てて手首を掴まれた。うっひょー!!勘弁してください!!こんなところで死にたくないの!私には帰ってドラマの再放送を見るという重大な使命が残されているんだから!

「なまえさん」
「うええええええあ」
「ちょっ…何で泣くんですか。俺です。日吉です」
「ひっく…うええもうやだぁああ…あ…え、え…?日吉?」
「そうです」

 日吉って、あの生意気な古武術馬鹿の日吉?そういえばさっきから私の名前を呼んでるし、声も聞いたことがある。え、でも何で日吉?ゆっくりと目を開いて恐る恐る顔を上げると、そこには本当に日吉がいた。呆れたような驚いたような、複雑な表情で私を見下ろしている。

「本当に日吉だ…」
「だからそう言っているでしょう」
「馬鹿ーーーー!!!!!」
「何でですか」
「何でこんな時間に日吉がいるんだよぉ!!ていうか何で真っ暗にしてたんだよぉ!!電気くらい付けろよぉ!!電気ついてないから誰もいないと思うじゃあん!!」
「はあ…すいません。携帯を部室に置き忘れたのを思い出して取りに戻ってたんです。いくら探しても見つからないんで、兄の携帯から自分の携帯に電話をかけてたんですけど」
「普通に音でわかるじゃん!暗闇の意味は!?」
「マナーモードにしてるんで。着信の光を頼りに探してました」
「……あ、そう」
「ようやく見つけたところで外からなまえさんのアホみたいな独り言が聞こえてきたんで、こっちも驚きましたよ」
「アホとは何だアホとは」
「だから良い加減泣き止んでください」
「わかってるよ…でも緊張の糸が切れて止まらないんだよ…ふざけんなよ日吉…」
「俺が悪いんですか」
「タイミングが悪いんだよぉ!!」
「わかりましたから、叫ばないでください」

 腹いせにとことん泣いてやろうと気が済むまで涙を流した。無駄に一生分怖がった。この気持ち、マジ遣る瀬無ぇ。多分もうお化け屋敷も一人で入れるわ。嘘、それはさすがに無理。

「なまえさん、鼻水」
「ディッジュ取っで!」
「はあ…泣くにしても、もう少し静かに泣いてください」
「うるせぇ…」

 床に座り込む私と目線を合わせるように膝をついていた日吉がやれやれと言った感じで肩を竦めながら立ち上がり、テーブルの上にあったティッシュを数枚取って戻ってきた。手渡されたティッシュを乱暴に受け取って豪快に鼻をかむ。残ったティッシュを目元に当てて丁寧に涙を吸い取った。顔中の水分を全て拭き取って一息ついていると、日吉は私の手からティッシュを抜き取ってそれをゴミ箱に投げ捨てる。そしてまたさっきみたいに片膝をついて私の顔を覗き込んだ。

「涙は止まったみたいですね」
「…うん」
「立てますか?」
「うん、」
「手、掴まってください」
「あっ…立てない、どうしようっ!力が入んないっ!」
「早くしてください」
「せっかく千尋っぽく言ってるんだから日吉もハク様やってよ」
「何ですかそれ」
「マジで言ってる?香港映画ばっか観てないでジブリの名作も観なさいよ」

 日吉を引っ張るように体重をかけながら「よっこらせ」と立ち上がる私に日吉は続けて「ハク様って誰ですか」と聞いてくる。もういいよその話は。気になるならググれ。

「そういえばなまえさんはどうして部室に?」
「ああ!忘れるところだった!」

 ビックリの連続ですっかり課題の存在を忘れていた。そのためにここまで来たのに危うく日吉のペースに流されるところだった。ギリギリ思い出せて良かった。さて、ロッカーのどこに閉まったかな。日吉に背中を向けてロッカーの中をガサガサと漁る。

「何を探してるんですか?」
「課題。明日提出の」
「そんな大事な物を忘れるなんて…」
「何だよ」
「前々から思ってましたけど、なまえさんって抜けてますよね」
「お前先輩に対して失礼だな。その通りだけどさ」
「それに、無謀ですよ」
「何が?」
「こんな夜中に一人で誰もいない学校に来るなんて」
「あーうん、まあね。親に付いてきて貰おうかと思ったんだけど、お風呂入ったから外出たくないって断られてさ」
「そうですか」
「そんなこと言ったら日吉だって無謀だよ。たかが携帯でしょ?明日まで待てば良かったのに。どうせ朝練あるんだから」
「その通りです。変ですよね?」
「…?日吉?」

 違和感を覚えて振り向くと、日吉が見たことのない表情をしていた。薄く微笑んでいるだけなんだけど、なんか、雰囲気が変というか。もう一度日吉の名前を呼ぶと、日吉は肩を揺らして笑った。

「なまえさん、あなたまだ気付いて無いんですか?」
「…?」
「どうして俺が部室に入れたのか不思議じゃないんですか?」
「え?」
「この部室の鍵はマネージャーであるあなたが管理してるんですよ?現にあなたはさっき、鍵を開けて入って来たんですから」

 そう言われてハッとした。確かにそうだ。テニス部の部室の鍵はマネージャーの私が管理している。「鍵は一つしか無いから失くすんじゃねぇぞ」と跡部に釘を刺されていたことも思い出した。その鍵は今私の手にあるのだから日吉が持っているはずは無いのに、何で日吉は私より先に部室に入ることが出来たんだ。おかしい。何で言われるまで気付かなかったんだろう。

 おかしいことならもう一つ。普通に考えて、あの日吉が携帯のために夜中の学校に侵入するだろうか。日吉の性格からすると考えられない。向日とかならまだ可能性はあるけど、普段からあまり携帯に触れない日吉がわざわざ真夜中の部室に入り込んで携帯を取りに来た理由は何だ。

 考えれば考える程に疑問は大きくなっていく。床を見つめるように少し俯いて思考していたら、視界に足が映り込んだ。日吉の足だ。

「なまえさん」
「…えと、あれでしょ?実は合鍵持ってたとかでしょ?」
「本当にそう思いますか?跡部さんなら確かに合鍵くらいは持っているでしょうね。だけど今ここにいるのは俺ですよ」
「跡部から、借りたとか…?」
「さあ、どうでしょう」

 日吉は少し首を傾げて意味深な笑みを浮かべる。どうしてかわからないけど、日吉に対して恐怖心を抱いた。こんな顔の日吉は見たことがない。私の知っている日吉では無いようで、全くの赤の他人とこの密室にいる感覚に陥った。落ち着かなくて思わず逃げ道を探すように目をキョロキョロさせていたら日吉がまた私に近付いて、手を取った。その手に気を取られている内に背後のロッカーまで追い詰められ、顔の横に日吉のもう片方の手が置かれた。日吉にまっすぐに見つめられて、私は視線を逸らすことができない。背中がひんやりと冷たい。なんか、イヤだ。こんな気味の悪い空気。これは日吉の冗談だ。何も本気にすることない。こっちはさっさと課題を持って帰りたいだけなんだから。

「も〜日吉やめてよ冗談キツイって。その笑い方も日吉っぽくないから怖いわ」
「…っふ」
「日吉?」

 少し顔を上げてから日吉は小さく吹き出した。

「どうして俺を日吉だと思うんですか」



 一拍置いて、「…え?」と声が漏れた。言っている意味がわからない。日吉が突然突拍子もない事を言い出すものだから、私は反応に困ってしまった。

「なまえさん、どうして俺を日吉だと思うんですか?」
「いや…だって、日吉でしょ?」
「どうして?」
「どうしてって…顔も声も私が知ってる日吉だし…。逆に日吉じゃないなら…何なの」

 確かにさっきから日吉らしくないという違和感はあったけど、今目の前にいるのが日吉じゃないなら誰だと言うのだ。日吉のそっくりさん?誰かの変装?意味がわからない。何でそんな意味深なこと聞いてくるのだろう。

「なまえさんは可愛い人ですね」
「は、はあ?」
「そんな無防備だから目を付けられるんですよ、俺みたいな人間に」
「え…!?ちょ、ちょっと!?」

 目の前にあったはずの日吉の顔が視界から消えたと思ったら、直後に首に生暖かい息がかかった。「なまえさん」耳元で湿っぽい声を囁く。手首を掴んでいた手が腰に回り、そして抱きしめられた。何で抱きしめられてるの。日吉とはそういう関係じゃないのに。何で、何で。これから先のことを想像するのも怖くて、止まったはずの涙がまた溢れてきた。震える声が漏れる。

「う、うぅ〜〜…」
「なまえさん…?」
「う、うええ…もおおやだぁあ…」
「!?なまえさん、ちょっと」
「ううう…うええっ…怖い…日吉怖い…離れてよぉ…」

 鼻を啜りながらいやいやと首を横に振ると、それを押さえつけるように日吉が私の頭を抱き抱えた。さっきみたいな乱暴なものではなく、優しい動作で。

「すみませんなまえさん。少し、冗談が過ぎました」
「え…?冗談…?」
「はい。全部冗談です」
「全部って…全部?」
「はい。なまえさんの言うとおり、鍵は跡部さんから借りたものです」
「え…じゃあ日吉…日吉は日吉なの?」
「当たり前じゃないですか。俺以外の誰がいるんです?逆に」
「………コノヤロォオオオオオ」

 まんまと引っ掛かったわチクショー!!!でも冗談で本当に良かった。すごくムカつくけど。ちょっくら殴らせて貰おうと思いっきり腕を振り上げたら片手で簡単に止められた。さすが古武術やってるだけあって動きが素早い。でもこんな笑えない冗談を無に帰するわけもなく、ガチ切れした私は大泣きしながら日吉の脛を蹴った。

「ッッつ!」
「馬鹿ー!!日吉の馬鹿ー!!このオカルト馬鹿ー!!もう嫌いー!!もう帰るー!!」
「泣かないでくださいよ。あなた今日だけでどれだけ泣けば気が済むんですか?」
「オメーのせいだよ!!!」
「この間テレビでやってたオカルト番組のネタを実践しただけじゃないですか」
「だから何!?知らないよそんな番組!ていうか実践しなくていいよ!!何で選りに選って私なんだよ!!」
「ちょっと面白そうだったので。なまえさんにしか通用しなさそうだし、良い機会かと」
「何が良い機会だ馬鹿野郎!!」
「予想通りの反応だったので俺は楽しかったですよ。泣くとは思ってもみなかったですけど」
「お前は楽しかっただろうよ!!私の気持ちは無視か!?」
「だから謝ったじゃないですか」
「謝って許されるなら警察はいらねーんだよ!!」
「台詞が古い」
「古いって日吉にだけは言われたくない」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だよバーカ!!もう日吉とは口利いてやんない!!顔も見たくない!!」
「わかりました。では俺はこれで」
「お前は鬼か!!!」
「何ですか」
「責任取って家まで送れよ!!」
「今顔も見たくないと言ったばかりでしょう」
「こんな怖い思いしてんのに一人で夜道を歩かせるつもり!?」
「…わかりました。送りますから早く課題を探してください」
「上からな物言い腹立つぅう…!絶対に跡部に訴えてやるぅ…!」
「跡部さんもいい迷惑ですよね」
「お前が言うなよ!!」

 後輩の日吉にこんなに振り回される自分が情けなくて仕方ない。遣る瀬無ぇ。何回遣る瀬無い思いをしないといけないんだ。それも、オカルト大好きボーイ日吉なんかのせいで。

「課題、ありましたか?」
「…うん、あった」
「じゃあ帰りますよ」

 私が外に出るのを確認してから電気を消した日吉はポケットから取り出した鍵でドアに施錠した。ていうか、合鍵あんのかよ。一個しかないから失くすなって言ってたじゃん跡部。信頼されてないのかな、私。日吉にも抜けてるって指摘されるし、なんか切ない。今日はもうさっさと帰ってお風呂入って課題やって寝よう。

「そういえばさ、日吉って携帯がないと生きられない人?」
「はぁ?何ですかその質問」
「携帯依存症?ってこと」
「いいえ、全く」
「じゃあ何で携帯を取りに学校に戻ったの?」
「手元に無いと不便ですから。何より今日中に確認したいメールがあったのを思い出したので」
「ふーん?」
「何ですか」
「いや別に」
「それよりようやく涙が引っ込みましたね。泣き止まないんじゃないかと心配でした」
「さすがに止まるよ。まだ怒ってるけど」
「根に持つ人ですね」
「日吉、本当に反省してる?」
「お詫びに怪談話でもしましょうか」
「やめろ!!!」
「冗談ですよ。なまえさんも可愛いところありますね。そうやってすぐ真に受けるところとか」
「…それも冗談?」
「いえ。これは本心です」



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