紫原敦というクラスメイトに気に入られている自覚はあった。入学当初に席が隣同士だった私たちは、次の授業は移動教室だ明日の授業はあれを持って来なければいけないだとか、授業の情報共有しながら世間話をする機会も多かったから。私がお菓子をあげた時にお返しのお菓子をくれたり、他の子には見せない優しさを私に向けてくれる。だから、一応私は紫原くんの友達の枠組みの中に入っていて、その友達の中でも『やや特別』というポジションを持てているのだと思っていた。けれど、それを誇りに思うとか自慢するようなことはなかった。紫原くんは女の子からモテる。だから、私みたいに紫原くんとしょっちゅう会話できることを羨む子も少なくなかったけど、私は決してそれを鼻にかけることはなかったのは、私にとって紫原くんはただのお友達でしかなかったからだ。彼女にして欲しいと思ったことは一度も無いし、異性としての特別な感情を抱いたことも無い。紫原くんは好きだ。人として、クラスメイトとして、お友達として。とても、とても好きだ。でも、紫原くんの好きと私の好きは違う。

「なまえちん、俺と付き合って」

放課後の教室に二人きり、西日は傾き始め、教室が夕日で赤く染まっている。ドラマや少女漫画でよく見かけるベタな展開だ。ベタだけど、私にとってこんな展開は生まれて初めてだ。私は紫原くんみたいに顔の作りは良くないし、頭も良くないし、得意なこともない、平々凡々な女子だから、そもそも告白に慣れていない。反対に女の子からすごくモテる紫原くんが何で、そんな。こんな私のどこを好きになってくれたのか、どうして付き合いたいと思ってくれたのかが本当に理解出来ない。きっと、今私はすごく間の抜けた顔をしていると思う。一方で紫原くんはいつもと表情は変わらないものの、どこか変だった。どこが変なのか特定は出来ないけど、何と無く変だ。紫原くんの様子がおかしい。いつもお菓子を握っているその手は、今は私の手首をつかんでいる。離さないと言わんばかりに強められた力に手首が小さな痛みを覚えた。いつもの紫原くんじゃない。

「い、いきなりどうしたの」
「えー。俺としては毎日アピールしてるつもりだったんだけど」
「ごめん、気づかなかったよ」
「なまえちん鈍ーい」
「ごめん」
「謝らなくていーからさ、返事」
「えっと…」

紫原くんは嫌いじゃない。嫌いじゃないけど、それだけでは付き合う理由には不十分だ。すぐに「はい」と言えないのは、私が彼を異性として見ていないからだ。それなら返事は簡単だ。今すぐに返せる。でも、でも。うまく声を出せずに、私は紫原くんに掴まれた手首に目線を落とすように俯いた。何を躊躇しているのか。はっきりしない自分に苛ついた。

「もしかしてさー、俺をフったらこれまで通りの関係には戻れないとか考えてるの?」

紫原くんが小さく笑う。

「知ってるよ、なまえちんにとって俺は友達でしかねーこと。今だってすぐに付き合えると思ってねーし」

手首が解放された。掴まれていた私の腕がぶらりと宙に浮く。心臓に針が刺さったような小さな痛みが走ったのは、紫原くんに愛想をつかれたのでは無いかという不安からだと思う。私は紫原くんの彼女になりたい訳ではなく、ただ彼の友達でいたいのだ。友達という肩書きで彼の側にいたい、この先ずっと。それではダメなのだろうか。紫原くんは、納得できないのだろうか。

「なまえちん」

再び紫原くんの手が私に伸びる。ゆっくり、ゆっくり。徐々に距離を縮めてくるそれに触れてはいけない気がして、思わず、ほぼ無意識にその手を払ってしまった。紫原くんは一瞬目を丸くした。でもそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間には彼の目は怒りの色を含ませてギラギラと光り、私の目を捉えていた。蛇に睨まれた蛙とはまさしくこのことだろうか。背筋が凍り、肩が震える。私は何をしているんだろう。嫌われた。今の行為で完全に紫原くんに嫌われた。もう、きっと友達という関係も終わる。何もかもが終わる。何故か泣きそうな自分の身勝手さが本当に嫌で何もかも投げ出してしまいたい。とにかく紫原くんと二人きりという空間から離れたい一心で、鞄を抱えて教室を飛び出した。



廊下の小さな明かりを頼りに下駄箱に全速力で走った。ほぼ無心で、振り向くこともせず。振り向くなんてできない。だって、紫原くんが追っかけて来ているかもしれない。紫原くんの手を払って拒絶してしまったことを今になってすごく後悔している。ごめんなさい紫原くん。手を払ってしまったこと、それから告白の返事も含めて明日ちゃんと謝らないと。それでも、もう元の関係に戻れるかはわからない。今までみたいにお菓子を交換したり、テスト範囲を一緒に勉強したり、そんなことも二度とできないのかな。嫌だ、紫原くんを失いたくない。だんだんと大きくなる自分の呼吸と心臓の音が余計に感情を高まらせる。ブレザーの胸元をギュッと握り締めながら、クラスの下駄箱が見えてきたところで徐々にスピードを落とした。肩で息をしながら自分の靴箱に手をかける。周りを見渡してみても紫原くんの姿はない。どうやら追っかけてこなかったようだ。一気に押し寄せる安堵感に足元がふらついた。「…はぁ」

下駄箱に寄りかかりながら、その場で崩れ落ちるように座り込む。何をそんなに焦っているのだろう。友達だと思っていた紫原くんに告白された、ただそれだけなのに。こんなに必死に逃げ回るなんて、どうかしてる。
いや、どうかしてるのは紫原くんもかもしれない。あの時、紫原くんに腕を掴まれている時に感じた違和感、あれは間違いなく恐怖だった。怖かった、紫原くんが。紫原くんに恐怖心を抱いたことはこれまでになかったから、困惑したのだ。もうどんな顔をして明日を迎えればいいのかわからない。明日になったら、紫原くんはいつもの紫原くんに戻ってくれているだろうか。

とにかく、こんなところにいても仕方ない。帰ろう。ふらふらと立ち上がり、自分の靴箱に手をかけたら、人肌に触れた。心臓を掴まれるような感覚に顔から血の気が引くのを感じた。靴箱に当てた私の手を包み込むように握る、大きくて温かいその手を私は知っている。足元にあるはずの私の影は一回り大きい影によってかき消されていた。

「なまえちん、見っけ」

瞬間、凛、と空気が震える。

耳元に響いたその声に、完全に私の体は硬直した。私の体を下駄箱に追いやり、その大きな体で逃げ道を塞いでいる。

「逃げないで、なまえちん」

紫原くんが、切なげに息を吐き出しながら呟く。

「俺が怖い?」
「む、紫原くん」
「俺の目を見て、なまえちん」
「や、ちょ…」
「ねー。いいから、ほら」

逆らうなと言わんばかりの声質だった。催促されておずおずと見上げると、冷え切った目で私を見下ろす紫原くんと視線がぶつかった。ひ、と悲鳴に近い声が漏れる。身長差ゆえに彼の顔は陰ってほとんど見えないはずなのに、その二つの目の在処だけははっきりとわかる。
一度だけ、友人の誘いでバスケの試合を観に行ったことがあった。今の紫原くんは、その時に見たコートに立っている時の紫原くんだ。目が鋭く光っている。獲物を狩る獣の目だ。その目から逃れられないことを、私は知っている。

「好きだよ、なまえちん」

私が声を出す前に静止する。紫原くんは呟く。私の声はもう彼には届いていないようだった。どんなに名前を呼んでも、彼は壊れた人形のように話し続ける。

「なまえちん、俺のこと表面でしか見てくれてねーから、知らんぷりすんのもいい加減疲れたんだよねー」「俺、好きでもない子に自分の菓子やったり優しくするほど器用じゃねーから」「初めて会った時から、ずうっとなまえちんが好き」「絶対に誰にもやんねーって、なまえちんを俺だけのものにしたいって思った」「だから、付き合って。俺の彼女になって」「友達なんて、思わないで」「好き、大好き、なまえちん。俺だけのなまえちんになって。もう、誰も、何も見なくていいから」

紫原くんの大きな手が私の目を覆った。急に真っ暗になった視界が、何故だか妙に落ち着いた。もう何も見たくないと、私はそう思っているのだろうか。自分のことなのに何もわからない。ただ一つわかることは、今の紫原くんを止めることはもう出来ないということだ。抵抗する気力も失い、為す術もなく、私は力いっぱい紫原くんに抱きしめられる。背中に回るこの二本の腕は鎖だろうか。

「キスするから」

もう、いいよね。

嘲笑うように吐き出された紫原くんの息吹が唇を撫でる。その唇が、私に触れようとしている。

「ねぇ、なまえちん」

寸前で紫原くんが静止した。私が静かに唾液を飲み込むと、私の反応一つ一つを楽しんでいるように、紫原くんは目を細めて笑う。もう少しでも動いたら唇が重なる程の距離で。紫原くんが声を出すたびに感じる彼の息吹は甘い。ほくそ笑む紫原くんの唇が重なる。

「俺のこと、好きになって」

私の知っている紫原くんはもういない。



∴むっくんのキャラわかんない




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