彼が怒っているのは明らかだった。暗い空気をこれでもかと言うほどあたりに漂わせて、私の正面の席に座ってトントンと指先で机を叩いている。さっきまで紅明様達といつもと変わらぬ様子で話していたのに、私と二人きりになった瞬間この態度だ。いきなり態度を変えるなんて、さすがに彼と付き合いの長い私でも反応に困ってしまう。もしかして、彼が不機嫌な理由は私にあるのだろうか。今日中に提出しなければならない書簡に筆を走らせながら、私は心の中で原因を模索する。私は彼に何かしただろうか。まったくもって彼を怒られせるようなことをした記憶がない。今日もいつも通りに一緒に朝食をとり、紅明様を混じえて談笑し…そして現在に至る。いつもとまったく何も変わらない平凡な一日だ。多分。では何故、彼は不機嫌なのだろう。普段から気まぐれで喜怒哀楽が激しい彼のことだからしばらく放っておけば自然といつもの彼に戻るとは思うのだけど、…思うのだけど。

…見ている。正面にいる彼がこれでもかと言うほど鋭い視線を私に突き刺して、今度は爪でかつかつと机を叩いている。どうやら、彼が不機嫌な理由はやっぱり私にあるらしい。

「こ、紅覇」
「…何ィ」
「何かあった、の?」
「はぁ?」
「いや、だってめっちゃ機嫌悪いじゃん。だから何かあったんじゃないかなー…って」
「…別にぃ」
「…(嘘つけ)」

機嫌が悪くないならその反応は何だと聞きたいところだけど、余計に紅覇の機嫌を損ねてしまうのは目に見えてるから私はグッと言葉を飲み込んで俯いた。せっかく書簡があと少しだというのに、紅覇の視線が気になってそれどころではない。さ迷う筆先から顔を上げると、紅覇とバチリと目が合った。

「あの、集中できないんだけど」
「…ねぇ」
「う、うん」

紅覇が突然表情を変えて私を呼ぶものだから、思わず声が裏返ってしまった。紅覇はさっきまで辺りに漂わせていた暗い空気をしまい込んで、今度はなんだか不安げな表情を浮かべている。ここまで喜怒哀楽が激しい人間はなかなかいないな。強いて言うなら、ジュダル様もその稀な類に含まれるかもしれない。いや、そんなことより今は紅覇だ。

「なまえは明兄が好きなの?」
「…え?」
「さっきも僕じゃなくて明兄のことばっか見てたし。明兄のこと好きなの?明兄のどんなところが好きなの?」
「え、ちょ、ちょっと待ってよ。何のことかさっぱりわからない」
「なまえは明兄が好きなのかそうじゃないのか、そう聞いてるの」
「えっと…好き、だよ。そりゃあ…でもそんなの今更じゃない?紅覇のことも好きだし…」
「…言い方を変えるね。明兄のこと、愛してる?異性として」
「え、ええ!?」

全く予想していなかった質問が投下されて、思わずガタンと椅子から立ち上がった。紅覇は私から視線を逸らさずに、真剣な表情を崩さない。紅覇の様子がおかしかった原因は、この質問に隠されているのだろうか。とりあえず落ち着こうと、私はゆっくり椅子に腰を下ろして、なるべく真っ直ぐ紅覇を見つめる。

「何で紅覇がこんなこと聞くのかはわからないけど、紅明様は異性として愛してるというよりは敬愛しているよ」
「…それって単に尊敬してるってこと?」
「う、うん」
「ふぅん」

聞いてきた割に興味なさげに爪をいじり始める紅覇がよくわからない。結局何に怒っていたのかも、変なことを聞いてきた理由もイマイチわからないけど、紅覇が少しずついつもの調子を取り戻しているように見えるので、あまり首を突っ込まない方がいいだろう。心の中でそう結論付けて、墨をつけた筆先をそっと紙に当てる。

「じゃあ、僕のことは愛してる?」
「はぁああ!?!?」

べしゃっ。

「あはは!びっくりし過ぎだよなまえ。手元狂ってるよ〜」
「ああああ!!書簡が!墨塗れに!なんてこと!」
「あはは、なまえおかしい。変なのぉ〜」
「こ、紅覇が変なこと聞くから…!」
「変なことぉ?僕は至って真面目に聞いてるんだけどなぁ」

椅子の背凭れに体重をかけて座りながら紅覇は肩を竦めて笑う。どの辺りが真面目なんだよ。昔から紅覇はこれだ。私をからかっては何らかの反応を求めて笑う。それを趣味としている、超が付く悪趣味の持ち主なのだ。私に「愛してる?」と、聞いたのだって、私の反応を楽しんでいるに過ぎない。書簡を一から書き直す羽目になった私を笑ってるだけだ。これまでだって幾度となく紅覇に振り回されてきたのだ、もう紅覇の思い通りになってたまるか。特に今日はこの書簡を終わらせなければ上に何て言われるかわからない。何が何でもこの書簡を夕刻までに必ず終わらせてやる。紅覇に構ってられる時間は一秒だって無い。

「ねぇ、質問に答えてよ」
「後でね」
「後っていつ〜?」
「一昨日」
「は?ふざけてんの?斬るよ?」
「あんたのせいで書簡がめちゃくちゃになっちゃったんだろーが!ちょっと静かにしててよ!」
「そんなの知らないよ。なまえが大袈裟な反応するからだろぉ。僕は真剣に聞いてるのにさぁ」
「わかったわかった。愛してる愛してる。これで良い?」
「何それ。全然愛情篭ってない」
「…(面倒くせぇ)」
「ねぇ、愛してるなら僕の目を見て言ってよ。できるでしょ?」
「ちょ、何で顔近付けるの」
「なまえが僕だけを見るように」
「ほ、本当にやめてよ。書簡終わらせないと…」
「僕を誰だと思ってるわけ?煌帝国の第三王子だよ?そんな書簡、下の奴らにやらせれば良い。命令だよ、なまえ。僕の目を見て愛してると言え」
「そ、そんな横暴な…」
「もしかして言えないの?僕は言えるよ。なまえの目を見ながら、本心から愛してるって」
「…っ、な、何で…」

何でこんなことになったんだっけ。何故私は紅覇に愛の告白を強要されているのか、全くもって理解できない展開に無性に泣きたくなった。…ああ、そうだ。これは紅覇お得意の突然の思いつきであり、単なる暇つぶしなんだ。つい数分前まで相手にしないと決意したはずなのに、早速紅覇の思い通りの流れになっている。私は単純な人間なのだと痛感せざるを得ない。こんなだから紅覇に良いように遊ばれてしまうのだ。…そう自覚した所で、紅覇を前にしてしまうと何もかもが意味を成さないんだけど。それを理解していることがまた悲しくて、悔しい。

「…あ、」
「?」
「あ、愛してないって、言ったら…?」

紅覇の片眉がピクリと動いた。本当に紅覇を愛していないわけではない。ただ、このまま紅覇の思いのままに事が進むのは癪だから、悪あがきをしてみたのだ。でも、私が何を考えているのかなんて紅覇にはお見通しらしい。ふっを息を吹き出すように小さく笑った紅覇は俯いて肩を震わせている。

「はは、粘るねぇ」
「し、質問に答えてよ」
「質問に答えないお前がそれを言う?まあ良いけどぉ」

机に膝をついて身を乗り出し、更に私との距離を縮めた紅覇は何を考えているのか、私の首裏に両腕を回して指を絡めた。私を見下ろして、余裕綽々な表情を浮かべている紅覇が何をするつもりなのか、わからない。いや、私は頭のどこかでこの次に何が起こるのかを理解しているのかもしれない。「冗談だよ」って、紅覇が笑ってくれるのを期待している。必死に現状を嘘で塗り固めようとしている。嫌だ、壊れてしまう。これまで大切に守り続けてきたものが、砕けてしまう。これ以上紅覇が私に触れようものなら、私はどうなってしまうかわからない。

紅覇は絡めていた指を解いて、するすると己の手首を交差させた。

「無理矢理にでもお前を抱く」
「…は」
「本気だよ」
「…っ。ま、待って紅覇。ダメ、ダメだよ。私と紅覇はそんな関係は許されない、身分が違うんだから。私は紅覇の目付役、それだけ、それだけなんだから」
「うるさいなぁ。もう我慢するのは懲り懲りなんだよねぇ。なまえもそろそろ折れてよ。…身分なんてどうでも良いよ。何を気にする必要があるの」
「お願い、やめて、お願い」
「僕が良いって言ってるだろ。なまえは逆らえる立場なの?」
「…や、やめてください。紅覇、様」
「…うわぁ、ムカつく。最低な気分だ」

瞬間、視界が歪んだ。その次には後頭部に鈍器で殴られたような痛みが走り、鈍い音が鼓膜を揺らした。書簡の束が床に落ちる音が聞こえる。下唇を噛み締めて頭痛を堪えながら恐る恐る片目を開けば、逆光で顔を黒く染め上げて、焦点が合っていない目をこれでもかと言う程見開く紅覇が肩を震わせていた。紅覇の後ろには天井が見える。私が彼によって机上に押さえつけられてると気付くのに、あまり時間はかからなかった。

「お前、本当に悪趣味だよね。いつも僕の愛情から逃げ回るくせに、僕自身からは離れていかない。卑怯な人間だよ」
「ち、ちが…、」
「ねぇ、なまえはどうしたいの」
「わ、わた…私は…」
「…馬鹿みたい」
「紅、覇…。紅覇、」
「鬱陶しいよ、お前の理想は」
「違うの、私は」
「でも、もう待ってあげない」

紅覇の甘い息吹が唇にかかる。これまでお互いを隔てていた男女の一線を、紅覇は何の迷いも無く乗り越えてくる。私が血の涙を飲んで守り続けてきたのに。私だってそんなもの邪魔で仕方くて、取っ払ってしまいたかった。でも私はそれを守らなければならなかった。私は、紅覇の目付役だから。私がずっと彼の側にいるためにも、私は彼と男女の一線を越えてはいけないのだ。主人と下部。それ以上になっては、もう私は彼の隣にいられないのだ。だから、わかって欲しい、紅覇。私は紅覇を心から愛しているけれど、私の恋が成就することよりも、紅覇の側にいることの方が大切なのだ。これがきっと、お互い幸せでいられる最善の関係なのだと思う。しかし紅覇は一生理解してくれない。私が守り続けてきたものに価値なんてありはしないと、紅覇はそう思っているから。自分の気持ちに従って生きている紅覇はどこまでも美しく、そして気高い。そんな紅覇が羨ましいと心から思う。私だって、本当は。

「意地っ張り」

耐えきれず呆れたように息を吐き出して、紅覇は笑う。

「愛してるって、言ってごらん」

優しい指先が私の唇を撫でる。まるで魔法にかけられたみたいに、その言葉だけで私は全身の力が抜けるように軽くなった。ああ、きっと私ももう限界なのだ。早く楽になってしまおう。満足げに細められた紅覇の目を見つめて、私はゆっくりと口を開く。


青い春は息絶える




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