夜が怖い。特に厠に行きたくて真夜中に突然目が覚めた時なんて、もう気分は最低最悪だ。何故だと問われたら答えよう、それは私が大の怖がりだからだ。暗闇なんて幽霊が出そうだし、不気味だし、良いことなんて一つもない。このことをおねね様に話したら「幽霊なんていないよ?なまえは怖がりだね」と、笑われてしまった。実際、私も幽霊がいると思っているわけではなかったのだが、あの夜、私は見てしまったのだ。思い出すだけでも恐ろしい。そう、あれは今日みたいに生ぬるい風が吹いている夜だった。厠に行こうと皆が寝静まった真夜中に一人で廊下に出た時のことだ。誰もいないはずの廊下のど真ん中にぼんやりと青い光が浮かんでいたのだ。そう、それはおそらく人魂で。その時私は悲鳴すら出ずにしばらく硬直してしまい、そのまま逃げるように自室に戻って恐ろしさに体を震わせながら朝がくるのをジッと待った。その人魂を見た時からずっと誰かに見られているような、そんな嫌な気配を全身で感じながら私はこの上ない恐怖をその時体験したのだ。それ以来夜が怖くなり、夜中に一人で厠に行くこともできなくなってしまった。

それなのに今日は目が覚めてしまった。ものすごく厠に行きたい。このままだと漏れる可能性がある。でも厠に行くの怖いし、夜の廊下を一人で歩くなんて考えられない。もしかしたらまた青白い人魂が浮かんでるかもしれないし。そう考えると体が布団から出たがらないのだが、そろそろ尿意が限界を迎えた。意を決して襖を開き、蝋燭に火を灯して廊下に一歩踏み出した。だ、大丈夫、きっと大丈夫。また人魂を見たら今度は叫んで助けを呼べばいいんだ。大丈夫、さっさと行ってさっさと戻ろう。負けるな、頑張れ私。

「いやでもさ、待ってよマジで怖い怖い怖い本当に怖い。何で夜なんてやってくるんだ…一日中昼間でいいじゃん…しかもこの真っ暗な廊下にぼんやり浮かぶ灯籠もまた怖いんだよ…ううう…やっぱり侍女にも来て貰うべきだったかな…いやこの歳になってそんな情けない真似できるわけないわ…あああもう」

ガタン

「ヒィッ!」

な、何事!?やだもう怖すぎる帰りたい。突然、背後でした何かが倒れるような音に背中がひんやりとした。咄嗟に振り向いてみたけど特に何も無い。正直ちびるかと思った。でもここでちびったら女として色々終わる気がしたから、なんとか耐えられたけど。でも何だ今の音。後ろの部屋の住人が寝ぼけて何か倒したのかな。それなら良いんだけど、幽霊とかそんなんだったらどうしよう私もう死んじゃう。生きて自室に戻れない。

「なんてな!幽霊なんているわけないじゃん!ははは!南無阿弥陀仏!」

とか言いながら実はめちゃくちゃ足が震えている。無駄に明るく前向きな発言すれば幽霊も驚いて寄って来ないんじゃないかという意味不明な理論を展開した。なんの説得力もないけど、少し元気と勇気が湧いて来た。よし、さっさと厠に行って寝よう。私は勢いよく前を向いて、厠に続く廊下を一歩踏み出した。

その時である。
スゥ、と襖が開くような音がした後に続いてヒタ、ヒタ、と、私ではない、別の足音が背後から聞こえて来たのだ。いよいよ私の体は硬くなり、破裂するのではないかというほどドクンドクンと胸が早鐘を撞き始めた。明らかに混乱している。額や首、背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、私はジッとそこに立ち尽くす他ない。そうしている内に足音はだんだんと私に近付いてきて、そして。

「あ、やっぱりなまえだ」
「ギャアアア」
「ちょっ…うるさいな。声かけたぐらいで騒がないでよ」
「ああああ、え?あ…うえ?は、半兵衛殿?」
「そうだよ」
「な、何故ここに半兵衛殿が?まさか半兵衛殿も厠へ?」
「気持ちよく寝てたら廊下から聞こえる阿保みたいな独り言のせいで目が覚めちゃったんだよねぇ。俺の眠りを妨げた犯人は誰かと思ったら、まさか君だったとはね」
「阿保みたいな独り言…!?一体誰が…!?」
「だから君だよ」
「え」
「しかも君のせいで机に脛ぶつけたしさぁー」
「それは暗闇に目が慣れてなかったからであって私関係ないんじゃ…(あ、さっきのガタンって音は半兵衛殿だったのか)」
「誰のせいで目が覚めたんだと思う?」
「…すみません」
「もういいよ。早く厠行ったら?」
「な、何故私が厠に行くとご存知で…!?半兵衛殿私の心読めるの!?」
「…なまえって結構馬鹿だよね」
「何ですって」
「あーハイハイわかったから早く行きなって。俺は自室に戻ってもう一度寝るよ。おやすみー」
「…」
「…」
「…」
「ねぇ、無言で袖掴んで引きとめないでよ。まだ何かあるの?」
「…て…ください」
「は?」
「厠まで一緒に付いて来て下さいいいい」
「…」



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「は、は半兵衛殿いる!?ちゃんと待っててくれてる!?」
「あーはいはい。いるよ。ちゃんと待ってるから早く済ませてよね」

結局、あの後半兵衛殿に土下座する勢いで懇願したことでようやく厠に同行してもらうことになった。でも半兵衛殿のことだからこっそり抜け出して自室に戻ることもあり得るから気が気でない。急いで済ませて手を洗い、廊下に出てみればあくびをしている半兵衛殿がちらりとこちらを見て、続けてため息を吐いた。

「お、お待たせしました」
「なまえって今いくつだっけ」
「…聞かないで下さい」
「言っておくけど、もう同行しないからね」
「う…は、はい」
「…ほら、部屋に戻るよ」

もう一度あくびを零してから両腕を後頭部に回した半兵衛殿は私の前を歩き始める。慌てて半兵衛殿の隣に移動して彼の腰帯を握ると横目で睨まれてしまった。わかってます。わかってるけど、こうしてないと怖くて仕方ないんです。大目に見て下さい。

「ねぇ、何でそんなに怖がりなの?」
「…信じてもらえないかもしれないんですけど、この間見たんです。真夜中の廊下にぼんやりと浮かぶ青い人魂を…!あー思い出すだけで怖い!」
「…ああ。青い人魂、ね」
「え!?半兵衛殿心当たりが!?」
「うーん、さあ?どうかな。ところでさ、俺の部屋ここなんだけど。いつまで掴んでるの?」
「お、送って下さい」
「いやだ」
「一緒に私の部屋まで来て下さいよおおお!私が寝るまでそばにいて下さいいい!」
「甘えるな」
「あいたたた!ちょっと頭掴まないで下さい!うああ割れる!頭割れる!半兵衛殿見かけとは裏腹に馬鹿力なんだからやめて下さいよ!ううう!」
「背低いって言いたいの?馬鹿にしてるでしょ、なまえのくせに。力が強いのは男なんだから当たり前だよ」
「いてててて!知ってます知ってます!半兵衛殿が素敵な殿方だということは知ってますからぁ!だだだだって怖いんだもん!半兵衛殿が側にいてくれたら眠れる気がするんだもん!だから半兵衛殿に来て欲しいんですうう!添い寝して欲しいんですうう!」
「…本気で言ってる?」
「え、ええ」

突然、パッと手を離されて痛みから解放された。若干涙目になりながら掴まれていた箇所を手で摩っていると、今度はその手を半兵衛殿に掴まれた。怒ってる、というより大層不愉快そうに眉間にシワを寄せて難しい表情をしている半兵衛殿と目が合った。掴まれた手首にどんどん力がこもっていく。骨がみしみしいってる気がするんだけど。もしかして、骨折るつもりなのか、半兵衛殿。

「半兵衛殿、よろしければ手を離して頂きたいのですが」
「…いいよ」
「あ、ありがとうございます。あの、あの…出来れば今すぐ離して頂きたく…」
「添い寝してあげるよ」
「え」
「俺と寝たいんでしょ?望み通りにしてあげる」
「え、え?どうしたんですか急に…なんか顔怖いんですけど…」
「俺にここまで言ったんだから、自分の言ったことに責任持てるよね?俺が君に何をしようと構わないわけだ?」
「え、あの」
「男を真夜中に自室に招こうなんて、どうかしてるよ君。それとも俺に襲われたいわけ?どうなの」
「襲われ…!?いいいいえ!そんな深い意味はなくて…あの…」
「だから言ってるよねぇ?俺も男だって。今すぐに君を押し倒してその無責任なことばかり言う口を塞ぐことだって、それ以上の事だってできるんだよ?それでも俺に添い寝して欲しいなんて無防備なこと言える?ねぇ、どうなの?」

半兵衛殿の目がマジだ。としか、現状を理解できない。押し倒すとか口を塞ぐとか恐ろしい単語が聞こえてきたんだけど、どういうこと?半兵衛殿がそんなこと私にするわけないけど、この状況と半兵衛殿の目を見ると冗談で流すこともできそうにない。となると、もうこう言わざるを得ない。

「軽率な発言をしてしまい、すみませんでした。おとなしく一人で自室に戻ります」
「はい、よくできました。あまり大人をからかわないこと」

急に離された手は力が入らずにダラリと垂れ下がった。手のひらが冷えている気がする。そのくらい半兵衛殿の威圧感に押されたんだと思う。金輪際、半兵衛殿に無茶振りをするのはやめよう。心の中で誓いを立てて、騒ぐ胸に手を当てると半兵衛殿は短く笑った。

「なんてね。ま、今回は特別に部屋まで送ってあげるよ」
「だ、大丈夫です!」
「へーきへーき。何もしないから。…今は」
「今は!?」
「冗談」
「半兵衛殿の冗談は笑えません…」
「そう?なまえの大胆な発言も笑えないけど」
「あ、あれは!勢いと言いますか…!」
「どんな理由があるにせよ、ああいうのは他の男には言ったら駄目だからね?」
「もう言いませんよ…」
「ならよかった。君に本当にその気があるのなら、また言ってもいいよ?ただし、俺限定で」
「ぜ、絶対言いません!」
「はは、残念だなぁ」

声が全然残念そうじゃない。むしろ楽しそうだ。私の前を歩く半兵衛殿は相変わらず前だけを見ているからどんな表情をしているのかはわからないけど、多分笑っている。外見は私と同い年くらいにも見えるのに、この余裕綽々な様子を見ると、やっぱり歳上の男性なのだと思った。

「あ、そうそう。なまえが見たっていう青い人魂のことだけどね」
「(ビクッ)」
「多分、官兵衛殿だと思うよ」
「え?か、官兵衛殿?」
「うん。官兵衛殿は夜中も武器は手放さないみたいだし」
「…」

そういえば官兵衛殿、人魂っぽい武器持ってたな。言われてみれば確かに、そうだったかもしれない。

「よかったねぇ、幽霊じゃなくて」
「で、でもあの後すごい見られてるような気配がしたんですよね…まさかそれも官兵衛殿が…?」
「ちょっと、官兵衛殿が覗きなんて悪趣味なことするわけないでしょ。どうせ人魂を見たと勘違いして興奮したから、神経質になってただけだよ」
「そう…なんですかねぇ…?」
「ほら、もう深く考えずに早く寝なよ。それともやっぱり接吻しておこうか?」
「せ、せせせせせ接吻!?!?結構ですおやすみなさい!!!」
「あ、逃げた」

もう幽霊なんてものを気にしている余裕すらなく、私は全速力でその場を離れた。半兵衛殿の方が幽霊よりもよっぽど悪質で、恐ろしいと思う。ちらりと後ろを見ると、壁に寄りかかって未だに私を見ている半兵衛殿と目が合った。わ、ま、まだ見てた!私が露骨に動揺すると、半兵衛殿は口に手の甲を当てて肩を震わせながら笑う。そして「おやすみ」と、口パクを残して自室に消えて行った。

「…半兵衛殿の馬鹿野郎」

こんな状態で眠れる訳が無いのに。半兵衛殿性格悪い。半兵衛殿のせいで眠気なんてものは消滅してしまったので、自室には戻らず縁側の柱に体を預けて月を眺めることにした。大袈裟に吐き出したため息が夜の生ぬるい空気に溶けていく。一瞬冷たい風が吹いた時、自分の頬が信じられないくらい熱くなっていることに初めて気付いた。胸がざわざわする。気分が良いようで悪い。頬に手を当てて蹲りながら、痛む胸を抱きしめて必死に頭の中から半兵衛殿を消そうとしている自分がいた。彼の余裕な笑みが頭から離れない。彼は私を子供扱いしていて、ただ揶揄っているだけなのだ。わかっているのに、私の心は半兵衛殿によって掻き乱されていく。むかつく、こんな気持ちになるなんて、腹立たしいことこの上無い。足元に落ちていた石を手に取り、怒りをぶつけるように池に向かって投げた。ぽちゃん、と、投げた石が波紋を描いて水底に沈んでいく。それでもまだ消えないこの胸のモヤモヤがやるせなくて、力なくその場に座り込んだ。そんな私を嗤うように、遠くで鈴虫が鳴いている。夜はまだ明けてはくれない。


色鮮やかな夜をご覧よ




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