つくづく孤独な野郎であると




「獣のよう」

水面に溶け込む雫のように落下した静かな声は、やがて僕の心に波紋を描いていった。組み敷かれたその女に表情はなく、霊視をしようにも彼女の心の中には何も無い。その言葉に真意など存在しないのだ。ただ音を発しただけ。決して回避できないこの状況を打開しようと試みる彼女の悪あがきでしかない。唇へと伸ばしかけていた手を寸前で停止し、そのまま彼女の前髪をするりと梳いて見せる。猫のように細まる目を見つめながら緩く口角を上げると、いよいよ彼女の表情に焦燥が浮かび上がった。男を知らない、処女の顔だ。美しく憐れな人間の子よ。今この一瞬を僕で満たしている君を心から愛しく思う。笑みを携えながら少し小首を傾げると、その拍子に耳にかけていた横髪がゆっくりと垂れ下がった。長い髪が彼女の頬の上を滑り、やがて首を掠める。そのか細い首の内側には無数の命の糸があって、僅かに息をしているそれが鼓動という形で僕に存在を示しているような気がした。この首に傷をつけたら、きっと美しい鮮血の宝石が宙を舞うことだろう。嗚呼、なんて耽美な。首に浮き出た青い線をツウと指先でなぞる。彼女の喉から発せられるひゅう、と息を飲む音が妙に心地良い。愛しさが募っていく。そうだ、それで良い。せいぜい僕に頭の中も心の中も、その全てを支配されているといい。僕はそれを、心から望んでいる。

「美しいものを穢したいと、感じたことはあるかい?」
「私は綺麗なままの方が良いな」
「ただそのものが美しくてもつまらない。美しいものが汚れることで、それが美しいものだったことに改めて気付くことに意味があるんだ。そうだな、例えよう。真珠はそのままでも十二分に美しいが、もし傷が付き、砕けてしまったら。嗚呼、美しかったのに。人はもう真珠が元の形に戻らないことを悔やみ、過去の傷一つ無かった真珠への価値観をより高める」
「過去のものにしてしまうの?」
「そうじゃないよ。過去のものになっても、そこでそのものの価値が一生奪われるわけではない。過去の美しさが際立つことに意味があるのさ。過去と現在を比較することでね。わかるかい?」
「全然。私には難し過ぎるよ」
「ふふ、今はそれで良いよ」

もっとも、これは僕の主観でしかない。彼女にそれを強要するつもりは無いが、これから穢す対象としてそのことを理解しておいて欲しい。僕が決して彼女を破壊したいから穢すのではなく、愛でたいから穢すということを。それが僕の美学であり、愛情表現なのだ。

「…要するに、ハオは今の私が不満なんだ」
「いいや、まさか。本来なら君は今のままで良いんだ。ただ、僕がもっと君を愛したいだけ」
「私に、傷を入れるの?真珠みたいに」
「違うよ。君を傷付けるわけが無いじゃないか。どうか安心して」

服の裾を鎖骨辺りまで捲くし上げ、晒し出された白い肌を上から眺める。真っ暗闇な空間に薄っすらと青白い光を差し込ませているのは空にぽつりと浮かんだ月のみ。その青白い光は、彼女の浮き出た裸体を更に白くしている、まるで真珠のそれのように。真珠の肌が視覚を、その肌から漂う香気が嗅覚を、僕の名を呼ぶ声が聴覚を、目尻に浮かぶ涙が味覚を、柔らかな肢体が触覚を。その全てが僕の五感を満たしていく。爪先からゾクゾクと何かが這い上がるような痺れを感じた。嗚呼。不意に漏れた声は恍惚な。傷を付けるわけが無いと先程断言したばかりだが、どうだろう。窓から差し込む月明かりに照らされた真珠の肌は狂気的に美しく、思わず歯を尽き立ててしまいたい、なんて思う。処女の肉は甘いか。下腹部に浮き出た骨の影をなぞりながら僕は嗤う。獣のよう。先程彼女が僕を見て呟いたその一言を、そうかもしれないと、ふと共感する。

「…ハオの好きにしたら良いよ。ただね、お願いがあるの」
「ん?」
「砕けた真珠みたいに私が用無しになったら、すぐに言って。ハオの前から消えるから」

子供のように必死に訴えかける。言葉にするのも辛いだろうに。嗚呼、人間はどうしてこんなにも弱く儚い。そんなこと言わなくて良い、考えなくて良いのに。悲しみが滲み出た瞳はとても見れたものではなかった。彼女の瞳を掌で覆い、視界を塞ぐ。

「愚かだね 」

愛しい僕の人間よ。君は何もわかってはいない。たとえ君の躯が壊れてしまっても、僕の愛情は変わらない。僕が本当に愛しているのは、君のその美しい魂なのだから。僕は心底羨ましい。人間らしい純粋なその心を持っている君のことが。獣のような僕とは違って、美しいその心を。君の心は永遠にその美しさを失ったりはしない。嗚呼、そうだ。僕は。

「君は壊れたりなんかしないよ」

嫉妬している、彼女に。醜い僕とは違って美しい彼女に、僕は少なからず嫉妬していたのだ、愛しい程に。彼女を穢せば僕だけのものになる。そして彼女の価値を他人と共有しないように、僕だけの価値観が欲しかった。僕は少しだけ泣いた。未だに僕の掌で目元を覆われた彼女をぼんやり見つめている。静かに頬を伝い、輪郭をなぞりながら落下した涙が彼女の頬を流れた。きめ細かい彼女の肌に吸い取られた涙が僅かに煌めく。

「ハオの涙は、綺麗だね」
「…汚れているよ」
「ううん、綺麗だよ。私は羨ましい、ハオのことが。獣のような性を持ちながら、こんなに気高く美しいのだから。だからね、私はハオのものになりたい。美しいあなたに所有されたい」
「なまえ、」
「やっと名前を呼んでくれたね、嬉しいよ」

彼女の口元に笑みが浮かぶ。ふと彼女の首に視線を落とした。真珠の肌と、その皮膚の下にある赤い血が、少しでも僕の世界を彩ってくれるだろうか。ゆっくりと、首筋に唇を寄せる。掌から彼女が瞼を下ろすのを感じ取った。

「ずっと一緒にいてね」

彼女の優しい声が僕の中の引金を引いた。その真珠にズルズルと歯を立てる。それは人肉を欲する鬼に似ていた。犬歯に食い込んだ皮膚からぷくっと鮮血が浮かぶ。真珠が赤く色付いていく。

青白い月が雲に覆われ、やがて室内は暗闇に包まれていった。ずずず、と影が侵食する音さえ聞こえる。この影は沼だ。そして沈む。僕となまえは、この底無しの黒い沼に沈んで行くのだ。誰の目にも止まらない二人だけの世界へ。もし彼女の温もりがこの手から消えて散り散りになっても、血に染まる真珠が暗闇にぽつりと浮かんでいるはずだ。それを必ず見つけ出すと誓おう。そうして僕らは深い沼の中へと姿を消していく。

人界の音はもう、聞こえない。


影葬






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