わたくしにはいつかの記憶がございます。

その記憶の中で、小さい頃のわたくしを強く抱きしめる誰かが、耳元で悲しそうに何かを呟やいているのです。本当に覚えの無い、不思議な記憶でございます。ひょっとしたら記憶ではなく、いつか見た夢だったのかもしれません。しかし、わたくしがあえてその光景を記憶と形容しているのには理由がございました。

温もりです。

わたくしは、いつかの誰かに抱きしめられた温もりをこの肌で覚えているのです。心が安らぐ、母の腕に抱かれているような、涙が溢れてしまいそうなほど温かいものでした。わたくしには母という存在はおりませんでしたので、わたくしが思うに、記憶の中のそのお方はわたくしにとって掛け替えの無い大切な人だったのでしょう。しかし、そう考えるとどうもおかしいのです。何故なら、わたくしは中国という大国のお方の下に妹として生まれ育ってきたのです。わたくしの掛け替えの無い大切なお方は中国兄様以外当て嵌まりません。しかし、何度兄様の腕に抱かれても思うのです。この人では無い。それは、いつかの抱きしめられている記憶の温もりを比較しての言葉でした。あの腕の温もりは兄様のものではございません。しかし、わたくしは兄様以外の男性を知りません。兄様は『外は危険だから』と、なかなか外に出る機会を与えて下さらないので、兄様以外の男性に抱きしめられることなどありえないのです。だからこそ不思議で仕方がありませんでした。あの記憶は何なのでしょうか。あの記憶のお方は誰なのでしょうか。何故あのお方は悲しんでおられたのか。考えれば考えるほどに、不思議に思う気持ちが強まっていきます。

そしてわたくしは成長していくにつれて、次第に記憶の中のお方に会ってみたくなったのです。もう一度あの腕に抱かれたい。そう強く思う心が生んだ、ただの好奇心でございました。

けれど、あの方の手がかりなどこれと言ってございませんでした。温もりだけが頼りでしたが、人捜しには何の役にも立ちません。

困り果てた挙げ句、わたくしは兄様に直接伺おうと記憶の話を全てお話ししました。「ねぇ、兄様。わたくし、ずっと気になっているのです。本当とっても不思議な記憶でございます。兄様はこのお方をご存知?」きっと夢の中の話だろう、と笑って流されてしまう。わたくしはそう予想しておりました。しかし兄様の反応はまったく予想していないものでございました。目を強く見開いて、整ったく予想していないものでございました。目を強く見開いて、整っことを言ってしまったのだと思い、「あにさま、」と声をかけて兄様の手に己の手を重ねました。僅かに目を細めた兄様はすぅ、と小さく息を吸って一度目を伏せると、自嘲気味に笑い、少し俯いたままの状態でゆっくりと口を開いたのです。

「不思議な話あるね」

その声はとても優しいものでしたが、わたくしは少しゾッとしました。兄様は微笑んでいらっしゃるのに、私はその笑みが恐ろしくてたまりませでした。唇は穏やかな弧を描いていても、わたくしをまっすぐに見つめるその双眼は猫のように三日月型に細められていて、とても愉快そうに笑っておられるものですから、わたくしは自ずと胸元で指を絡めました。そのまま僅かに後退すると、瞬時に間合いをとってわたくしの腕を素早く掴んだ兄様が己の腕の中にわたくしを閉じ込めたのです。瞬時にあの記憶と今現在の光景が重なりました。そして思いました。やはりわたくしは兄様ではない、誰かを知っている。

「おかしいな話ある。お前は今も昔も、我とずっと一緒にいたあるよ。お前が我以外の男を知るはずがない、決して。…怖いあるね、でも大丈夫ある。お前は悪い夢を見ていただけ。そうに決まってるある。ああ、怯えなくて良いあるよ。心配しなくてもその恐ろしい夢は我が消してやるある。唯一お前を理解できる我が言うのだから、安心するよろし。お前には、我さえいれば良い」

違うか?
コロコロと玉を転がすように兄様は笑い、わたくしの肩に手を置いて少し距離を置く。やや見上げるようにしてわたくしの顔を覗き込む兄様は有無を言わせぬご様子でわたくしにそう問い掛けました。その炎のようにユラユラと揺れる瞳に焼き殺されてしまいそう。こんな兄様を見たことが今までに無かったものですから、わたくしは硬直してしまいました。それでも、ただ一つだけ私が言わなければならない言葉を音にすることができたのでございます。はい、わたくしは兄様だけのものです。そう言わざるを得ませんでした。もしも否定してしまえば、たちまち兄様が兄様ではなくなってしまう。そんな気がしたのです。この家から出たことの無い世間知らずなわたくしが兄様無しでは生きていけるわけがないので答えは初めから決まってはいたのですが、しかし何故か心の中で何かに引っ掛かるような気がしていました。

兄様は満足げに笑って再びわたくしを抱きしめました。わたくしの背中に腕を回し、もう片方の手で執拗に頭を撫でて下さる。わたくしはその行為が恐ろしくてたまりませんでした。どこにも行かないようにと縛り付けるような、乱暴さを感じたのです。わたくしはただ兄様の胸に顔を埋めていることしかできませんでした。

「良い子ある。…なら、この話はこれで終わりで良いあるね?こんな恐ろしい話はすぐに忘れるよろし」
「…はい」

わたくしの頭を撫でる手を止めて今度は両腕を腰骨と背中に回した兄様のお顔は見えないけれど、きっと、笑っていらっしゃる。ゆるゆると唇で弧を描いていくように。その目は猫のように細められて。

窓の隙間から吹き込む夜風がやけに涼しい。ザワザワと木々がざわめく音の中で、兄様が笑ったのを空気で感じ取りました。嘲笑うように、弱く息をわたくしの耳に吹き掛けて。兄様が作り出した音を最後に、わたくしの意識はぷつりと切れたのでございます。













「許して下さい」

夢を見ました。あの記憶の夢でございます。知らない誰かが幼いわたくしを抱きしめながら、何度も同じ言葉を呟いているのです。許して下さい。許して下さい。ああ、頭がおかしくなってしまいそう。何故そんなに謝辞を呟いておられるのか。何に対しての謝辞なのか。何より、貴方は何者なのか。喉が張り裂けてしまいそうな程疑問が湧き上がります。しかし、わたくしは声を出すことが出来ませんでした。なんてもどかしい。何度貴方に会いたいと思ったか、貴方はご存知?それなのに貴方に語りかけることができなければ、抱きしめ返すこともできない。お顔だって拝見できないではありませんか。抱きしめられているから、視界が塞がれてしまっている。やはり、温もりしか感じることができません。どうして貴方は夢の中でも遠い存在なのですか。

「例え遠く離れてしまっても、私はずっと貴女を想い続けます」

時間が止まったような心地がしました。初めてでございます。わたくしは、初めて記憶にない言葉を耳にしました。もしかしたら夢が勝手に創り出したものなのかもしれません。それでも、わたくしは息を飲んで次に発せられる言葉を待ちました。

「約束します。貴女を奪ったあの人から必ずや貴女を取り戻してみせます。それまでどうか、どうか生きて下さい。私を待っていて下さい」

ああ、何をおっしゃっているのです。私を奪ったあの人?それは誰なのですか。私は生まれた時から中国兄様の元にいて、外に出たことなど無いのですよ?あの人とは誰なのですか。何より、貴方は。

「大切な妹一人護ってやれない不甲斐ない兄を、許して下さい」












目を覚ますとわたくしは自室の寝台で寝ていました。いつの間に自室に移動したのか、まったく覚えていません。昨夜兄様とお話していた時に身に纏っていた普段着はどこへ行ったのか、自分が今身に纏っているものは寝巻きでございました。着替えた記憶など無いものですから、可能性としては恐らく兄様が眠ってしまったわたくしを着替えさせて下さったのでしょう。

それにしても不思議な夢でございました。あくまで夢でしたのであれが確かな記憶であり、真実かどうかはわかりませんが、わたくしは大変混乱しております。
あの方は確かに、自分をわたくしの兄だとおっしゃって居られました。そんなことはあり得ない。だって、わたくしは中国兄様の妹なのに。

「私の大切な貴女を奪ったあの人から、必ずや連れ戻してみせます」

では、何なのです。中国兄様が記憶のお方からわたくしを奪ったとでも言うのでしょうか。そんな、そんなことはあり得ない。だって、わたくしはずっと中国兄様と共にいたと、中国兄様がそうおっしゃって居られたのですから。ずっと一緒だったと。中国兄様は私に嘘をつくようなお方ではない。絶対に。わたくしはそう信じております。あれはただの夢に違いありません。事実とは無関係な創造でございます。きっと、そう。

ああ、わたくしはやはり、中国兄様の言う通り悪い夢を見ていたのでしょう。あの記憶と温もりもきっと夢の産物に過ぎません。忘れなければ。こんな気持ちに蝕まれるくらいなら綺麗に忘れてしまいましょう。そう、それが良い。

首すじを伝う嫌な汗を寝巻きの袖でぬぐい、一つ息を吐く。からからに渇いた喉を潤すべく台所に向かおうと床に足をついた時でした。突如扉がゆっくりと開いたのです。

「あぁ、起きたあるか」

扉の向こうにいらしたのは、いつもの優しい笑みを携えた中国兄様でございました。わたくしは昨日のことを思い出して一瞬呼吸を止めてしまいましたが、すぐに平静を取り戻してなんとか中国兄様の目を見つめ返すことができました。

「今日は珍しくお寝坊さんだったあるな」
「…あ、ごめんなさい。すぐに朝食の準備を」
「気にしなくて良いある。今日は我が作ったから、ゆっくり休んでるよろし。随分うなされてたある、汗もかいて」

不意に伸ばされた中国兄様の指が首すじを伝って鎖骨までなぞるその感触にぞくりと背中で何かが這うような感覚がして、わたくしが身震いすると中国兄様はただ綺麗に笑って、はだけた寝巻きを直して下さいました。寝巻きの合わせ目からわたくしの頬へと移動した中国兄様の手は円を描くように撫でていらっしゃる。中国兄様の目が徐々に細められていく。

「兄様…?」
「本当に、」

「困った奴ある」中国兄様はポツリとそう呟きました。わたくしは自分が責められたのかと思い、申し訳ありませんと即座に謝罪するも、中国兄様は緩やかに笑って首を横に振りました。

「お前が見たという夢の中の話ある」
「え…?」
「悪い奴あるね、こんなにもお前を苦しめて。今日も夢の中に出てきたのであろう?″奴″が。お前に悪夢を見せつけるなんて、この我が許さない」
「そんな、悪夢なんて」
「いいや、お前の心を我から離そうとしている″鬼″が創り出した悪夢に違いないある。我から可愛いお前を連れ去ろうとしている、執着心に燃える恐ろしい鬼が。はっ、何年経ってもその醜い嫉妬は薄れないか。…ああ、考えるだけで腹が立つある。なんて忌々しい!」

半ば叫ぶようにそうおっしゃった中国兄様を、わたくしは愕然として見つめておりました。焦点があっていないその瞳は誰を見つめ、そして誰に怒鳴りつけておられるのか。わたくしにはその誰かがわかりませんでした。ただ、夢の中のお方、という点を除いて。

「誰なのです、」
「…」
「奴とは誰なのです、兄様」

わたくしも必死でございました。たかがわたくしが見たというだけの夢のことでここまでお怒りになられるということは、きっと中国兄様は知っていらっしゃる。夢の中のお方を。そして憎んでいらっしゃる。この家から出たことの無い世間知らずのわたくしでも察することができました。

わたくしがそう問い詰めると中国兄様はハッとしたご様子で目を見開いてわたくしを見つめました。わたくしは中国兄様の視線の先に先回りしようと彼の袖を握る。中国兄様の瞳はユラユラと揺れておりました。そしてゆっくりと目を細めると、吐き出すように笑いました。

「…少しおしゃべりが過ぎたあるね」
「兄様、」
「ああ、誰なのかという問いに答えてなかったあるね。それならさっきも言ったある。そいつは、鬼だと」
「…」
「すまねぇあるが、我はこれから大事な会議に行かなければならねぇある。夕刻までには戻るから、今日はゆっくり休んでるよろし」
「、兄様」
「ああ、それと」
「?」
「お前がその悪夢を早く忘れないと、我が我ではなくなってしまうかもしれないあるよ」

それは、脅しに似ておりました。わたくしに釘を刺すように、妖艶な笑みを唇に浮かばせて。わたくしはゆっくりと首を縦に振る動作を繰り返し、中国兄様が満足して部屋を去るその瞬間を待ちわびておりました。目の前にいるのはあの中国兄様なのだろうか。それすらも疑ってしまいます。わたくしは今という時間に自分が存在している心地がしません。今わたくしの目の前に居られる人物は姿こそは中国兄様でも、精神は中国兄様ではない気がするのです。中国兄様は変わってしまいました。わたくしが夢の話をした、昨晩のあの時から。

中国兄様はわたくしの頭を一度撫でると、長髪を揺らしながら部屋を出て行きました。どっと疲れが出たように急に肩が重くなり、わたくしは息を吐いて動悸を抑えることに専念するしかありません。兄様、中国兄様。どうされたというのです。何故そんなに夢の中のお方を拒むのですか。何故わたくしの記憶から抹消しようとしているのです。わたくしにはまったく理解できません。わたくしを、夢のお方から遠ざけようとする訳は何なのです。

「兄様…」

わたくしが呟いたその″兄様″が中国兄様を指しているのか、はたまた、あの方を指しているのか。わたくし自身、もうわからなくなってしまったのでございます。
















ふ、と瞼を上げるとわたくしは中国兄様のお部屋の前に佇んで居りました。わたくしは確か、自室の寝台に腰を下ろしていたのでは。ここまで来た記憶がまるでございません。不思議に思って居間に行って時計を見てみると、朝目を覚ましてから十時間以上経って居りました。現在、夜の九時でございます。中国兄様はまだ戻られていないご様子。何故、昼間の記憶が無いのでしょう。それに、何故中国兄様のお部屋の前に居たのか。やはりそれが不可解で、わたくしはもう一度中国兄様のお部屋の前に戻ることにしました。

ひたひたと廊下を歩き、中国兄様のお部屋の大きな扉の前で歩みを止めると、わたくしの心臓は早鐘を打ち始めました。

扉を開けて、真っ直ぐ行って突き当たりにある戸棚の奥。奥に、何かある。そんな気がするのです。中国兄様のお部屋に一人で入ることなど許されることでは無いとわかっているはずなのに、わたくしは取っ手に手をかけて、それを手前に引いてしまったのです。キィ。ガチャン。扉が開いて閉まる音を確認して、わたくしは戸棚へと足を進めます。

床に膝をついて戸棚の一番下の引き出しに手を伸ばし、それを手前に引く。書類と思われる巻物やら判子など、恐らく外交に必要な貴重品の数々が見つかるも、わたくしは大した関心を抱きませんでした。そんなものではなく、別の何か。わたくしにとって大切な何かがきっとある。

無我夢中で″何か″を探していると、とある異変に気づきました。引き出しの底に小さな穴が空いているのです。小さな穴から何か墨の跡のようやものが見えます。底の下に、何か隠されている。そう勘付いたわたくしは簪を穴に通し、浮かせることに成功したのです。そしてわたくしが見たものとは。

「平和条約…」

文書が棚の底の、更に奥底に隠されていたのです。相当古いものでした。まだ中国兄様が様々な国と争いをしていた時代のものでございます。その文書には中国兄様の昔のお名前と、もう一人のお名前が記されていました。

『日本国』

覚えのある国名でした。確か、昔世界地図で、見たことがあるような。ここより南にある、小さな島国。それが日本国。

どうやらこの文書は中国兄様と日本国の間で締結された平和条約らしいのです。中国兄様が日本国と関わりを持っていたなんて知りませんでした。否、知らされていませんでした。わたくしは、外に出ることも外交も禁じられて居りましたから。中国兄様に、隠されて続けていたから。
条約内容に目を通して、わたくしは愕然としました。

「あ、ああ、あ、あああ」

なんという、なんということでしょう。信じられない。信じられるわけがない、こんなこと。この文書は一体。これは、何なのだ。わたくしは一体、何なのだ。足の力が抜けて床に座り込んで声を漏らさないように両手で口を塞ぐ。




不意に、背後に気配を感じました。








「あれだけ忘れろと言ったのに」






凛、と空気を震わせる声にわたくしは息を飲みました。体が動きません。口元を手で覆ったまま、体を強張らせていると背後からまるで煙のようにスゥ、と二本の腕が伸びて、わたくしの体を包みました。わたくしは静かに目を見開きます。

「あに、さ、ま…」
「さすが日本の実の妹なだけあって執念深いところはそっくりあるね。我があれだけ忠告したのに、それでも追い求めたか。実の兄を」
「ご、ごめんなさ、い…」

怖い、怖い。殺されてしまうかもしれない。混乱する頭はそのようなことばかり考えしまって、落ち着きを取り戻すことなど不可能でございました。ガチガチと震えで歯がぶつかり合う音や、口元にある手の温度がどんどん低下していく感覚が余計に恐怖心を煽ります。ついにわたくしの目からは涙が溢れてきました。

ああ、わたくしが悪いのです。こんな事実、知らなければ良かったのです。中国兄様に全てを隠されたまま、わたくしは何も知らずに生きていけたらそれで良かったのに。そうすれば幸せに暮らしていけたのに。

「満足あるか?」
「…」
「この文書こそ真実あるよ。昔の戦争で、我は日本から元は日本領土だったお前を連れ去り、我のものにした。幼かったお前はあっという間に日本の存在を忘れ、我を兄として慕うようになったある。…本当は兄としての敬意など疎ましくて仕方がなかった。だが、本当のことを知ってお前が我から離れて行くことの方が耐えられないと思ったある」
「何故、わたくしを…」
「何故お前を拐ったか?決まってるあるよ、お前が美しかったから。我の女にしたかった」
「あに、」
「ああ、兄などともう二度と呼ぶな。お前が切り離した我々の偽りの縁ある。…もっとも、我はお前を妹として見ていたことなど一度も無いあるが」
「だって、あんなに優しく」
「愛しているから優しくした、当たり前のことある」
「それでも、わたくしは」
「なまえ」

間髪入れずに名を呼ばれ、わたくしはヒッと小さく喉を鳴らしました。耳の裏を舌が這い、耳たぶを甘噛みすると、最後に耳の中にねっとりと舌をねじ込むことで水音で脳を満たしていきます。わたくしはボロボロと涙を流しながら、ただ腹部に回る腕と胸元に侵入する手の感触に耐えるばかりでございます。

「言ったはずある、こんな悪夢は早く忘れてしまえと。さもないと我が我ではなくなってしまうと」

そうだ、もうこのお方はわたくしの兄ではない。本当の兄は、日本国。記憶の中の、あのお方。では、この人は。

「お前を愛している。世界で一番、誰よりも、何よりも。お前さえ手に入れば他のものは何もいらない。…ああ!この日をどれほど待っていたか!お前が我を兄としてではなく一人の″男″として見るようになる、この日を!せっかく善人の我が記憶など忘れろと忠告してやったのに。クスクス、クスクス。憐れな女ある。でも、そんなところも全て愛しいあるよ。ああ、愛しているある」

突然世界が回って、気付けばわたくしは中国兄様に組み敷かれておりました。これからわたくしが何をされるのか、そんなことは容易に想定できました。恍惚とした表情でわたくしの髪を撫で、頬に触れる。かつての兄の面影などどこにもございません。強いて言うなら、今の彼は飢えに飢えた鬼そのもの。そう、彼こそが本物の鬼だったのです。自分が欲した子供を拐い、住処で骨まで愛して食す。もともとは彼も人の心を持っていたのです。しかし、心の奥底に眠っていた彼の鬼を呼び覚まし、化けの皮をはいでしまったのは紛れもなく、わたくしなのでございます。

「お前は我から逃れられない、決して。そう、今までと同じようにこの箱庭に閉じ込めてしまえばお前は永久に我のものある。感謝しているあるよ、我が本当の血の繋がった兄ではないということに気付いてくれて」

口角をゆるゆると持ち上げながらニヤリと目を細めて鬼は笑うのです。獲物を目の前にして舌舐めずりするように、歪んだ笑みからギラリと光る犬歯が恐ろしくてたまりません。

「この世でお前を目に映すのは、愛でるのは我だけで良い。他の男共に、ましてや我を裏切り、離れて行った日本なんかにくれてやるものか!」

憎憎しげに、されど悲しげにそう呟く鬼の声を取り入れると、わたくしの瞼はゆっくりと閉ざされて意識が遠退いていくのを感じました。わたくしの頬を濡らす涙はわたくしのものか、鬼のものか。それすらも知ることができず、わたくしの心と体は鬼によって跡形もなく食い尽くされてしまったのでした。











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