一度目を瞑ると次の日の朝まで決して起きない私が、ある晩ふと目を覚ました。障子の向こうはまだ薄暗く、物音一つしない。夢見が悪かったわけでもないのに、一体どうしたんだろう。目を覚ます直前に誰かに呼ばれたような、胸騒ぎに似た不思議な心地がした。障子をそっと開き、辺りに誰もいないことを確認する。ひんやりとした冷たい空気に触れて、すっかり目が覚めてしまった。私はそのまま部屋からこっそり抜け出して、長い渡り廊下を歩く。網問と間切の部屋の前まで来て二人を起こそうかと思ったけど、騒がしくなりそうでやめた。間切はともかく、網問は真夜中だろうと関係なく大声をあげるから上の人たちに怒られてしまう。再び布団に戻って二度寝する気はこれっぽっちもなかった私は、誰かに声をかけて海辺でも歩こうかと考えていた。
 こういう時、誰よりも頼りになるのは舳丸だった。眠れない理由を問い詰めることなく、静かに微笑んで一緒にいてくれるだろうから。今は誰かと語らいたいわけではなく、この夜のうつくしい時間を共に過ごせる人が欲しかったのだ。意思を固めてから廊下をまっすぐ進み、突き当たりに差し掛かる。すると突然、目の前に人影が現れた。ふんわりと柔らかい髪が揺れ、辺りに潮騒の甘い薫りが満ちる。月明かりに照らされたその整った顔には驚愕の色が滲んでた。

「義丸?」
「お前、何やってるんだ? こんな真夜中に」
「目が覚めちゃったからぶらぶら散歩でもしようかなって」
「散歩? 一人で?」
「ううん、舳丸を誘おうと思ってる」
「……舳丸を?」

 義丸がす、と目を細める。突然、明らかに機嫌が悪くなった義丸に対してどう反応したら良いかわからず、「じゃ、私行くからおやすみ」と早足でその場を立ち去ろうとした。しかし、彼はそれを許さず無言で私の手首を掴む。あまりに強く掴まれ、その痛みに舌打ちをしながら振り向くと義丸も舌打ちで対抗してきた。うおっ怖い。これだから海の男は……。これ以上反抗しても勝てる気がしないので、私は諦めて義丸と向き合った。

「わかったよ。部屋に戻る」
「なんだ、戻るのか?」
「だって義丸怒ってるじゃん。私が真夜中に館を出ようとするから」
「俺が怒ってるのはそこじゃない」
「じゃあ何?」
「何で舳丸を誘うんだ。俺を誘え」

 そう言ったきり、ぷいとそっぽを向いてしまった義丸の顔を呆然と見つめる。普段はあんなに飄々としているくせに、やけに子どもっぽい言動をしているのが不思議で、けれど素直に愛らしいと思った。

「それじゃ、一緒に来てくれる?」
「最初からそう言えば良いんだよ」

 なんて横柄なんだと内心憤慨するものの、これ以上怒らせるのも面倒なので、私は黙って義丸の手を引いた。その掌や指先があまりにも大きくて温かくて、少しだけ驚いてしまう。次の瞬間にはあっという間に指先を絡め取られていたので、私はますますビックリしてしまった。

「よ、義丸。手……指が、」
「何だよ」
「……何でもない」
「そうそう。黙って俺の手に繋がれてれば良いの。……他の男の所へ行かないように」
「ん? 最後聞き取れなかった。何て言ったの?」
「何も言ってないぞ。そう言えば最近この辺りで幽霊が出たって網問が騒いでたな」
「わーー! そういうのやめてよ! ばか! 義丸のばか!」
「うそうそごめんごめん」

 空いた手でぽこぽこと義丸のお腹目掛けて拳を振り上げる。宥めるように義丸の大きな手が私の頭を撫でた。何だか子ども扱いされているような気がしてムッと頬を膨らませる。義丸はくすりと笑うと、私の手を引いて歩き出した。
 遠くで聞こえるさざ波の音にふるりと身を震わせ、私は「ねぇ」と義丸の手をちょいちょいと引く。

「海辺を歩きたい」
「はあ? 海辺なんて寒いだろ」
「義丸と一緒だから大丈夫だよ」
「何だそれ」
「私が寒い時は湯たんぽ代わりになってね」
「……はいはい。別に良いけど、他の男の前ではそういうこと言うなよ」
「え?」
「だから、何かあったらいつでも俺を頼れってこと」

 力強く手を引かれて、私は訳も分からず薄暗い館の中を突き進む。気付けば、さざ波の音に満ちた海辺が遠くに見えていた。湯たんぽなんて必要ないかもしれない。だって、こんなにも胸の奥が熱くて仕方ない。

「義丸」
「ん、どうした?やっぱり寒いか?」
「ううん。むしろ暑いというか、ドキドキするというか」
「は?」
「あ、いや!何でもない!」
「へえ、何お前。俺に緊張してんだ」
「そ、そりゃ……するでしょ」
「ふーん」
「な、何。ニヤニヤしないでよ」
「いやするでしょ。可愛いな」
「そういうのいらないから!」
「可愛い、可愛い」
「……冬の海に沈める」
「物騒だな」

 割と本気の脅しを軽く流され、義丸はまた笑って私の頭を撫でる。子供扱いされているとわかっているのに、義丸に頭を撫でられる行為は不思議と嫌じゃない。義丸に触れられると安心する。こんなに胸が高鳴るのは何故だろう。
 義丸は海の男だ。当然、人を殺めたことだってある。その手で人の命を奪っているというのに、私にとっては安心を与えてくれる甘やかなものに感じる。義丸の手が好きだ。もっと言うと、義丸の温もりが好きだ。もっとその手に触れて、私を甘やかして欲しい。義丸の温もりを感じたい。
 初めは舳丸を誘うつもりでいたけど、義丸で良かった。舳丸は遠慮なしで気楽に話せるけど、義丸にするようにその手に縋る真似はできない。

 私は、きっと義丸を。

「海に着いたぞ。うー……さぶ」
「うん、寒いね」
「だから言ったろ」
「でも、やっぱ落ち着くよね。海を見てると」
「おう、そうだな」

 二人して並んで浜辺を歩きながら、月に照らされた大海原を見つめる。すべてを包み込み、温かく受け入れてくれるような母なる海。そこに内包された優しさは義丸が与えてくれるそれと似ている。けれど、こんなにも緊張して、安心できて、その熱に縋りついてみたくなるのは、ただ一人だけなのだ。
 自覚したばかりの想いが、確かな形を伴って私の全身を満たしていく。

「義丸はさ、海の男じゃん」
「は? 何だ急に」
「やっぱり海の男は海の藻屑になって死にたいの?」
「はあ? お前今日物騒な発言多いな。どうした?」
「女はさ、船に乗ることができないから命をかけるようなこともないけど、待ってるだけっていうのも辛いんだよ。海に出たきり愛する男が戻らなかった、なんて海女の間ではよく聞く話だし。骨すら戻ってこない。当然だよね、海の藻屑になってしまうんだから。でもそれが海の男の望む死に方だって言うなら皮肉だよ」
「お前、寒すぎて頭おかしくなった?」
「真面目に聞いてよ」
「つまり何が言いたいんだ?」
「義丸は勝手にいなくならないでねって言ってんの」

 茶化す義丸に腹を立てて、語尾を強めて睨みつける。義丸はキョトンと目を丸くして瞬きを繰り返している。自分が大胆なことを言ってしまったことにだんだんと羞恥心が込み上げ、慌てて顔をそらした。
 すると、上から「はぁ」と深いため息が聞こえた。

「俺がお前の傍を離れるわけねぇだろ」
「……え?」
「お前の隣を他の男に譲る気もねぇし」

 茶化されると思ったのに、返ってきた言葉があまりに真摯で甘さを帯びていて、私は身体の芯から熱くなっていく。期待してしまう心がそっと顔を出し、けれど海風にさらわれて瞬く間にしぼんでしまった。
 だって、普段はあんなに色気がないだのちんちくりんだの散々なことを言ってくるくせに。こんな時だけ男を出してくるなんて都合のいい女として扱われているようにしか感じなかった。

「他の娘にも同じこと言ってんの?」
「何でそう思う?」
「普段の義丸はそんなこと言わない」
「そうだったか?」
「そうだよ」
「怒んなよ。こんな時に俺が冗談言うわけないだろ」
「こんな時って?」
「好きな女と二人でいる時」
「もう怒った」
「おい逃げるな」
「手を離してよ!」

 こっちは真剣に心配して、こんなにも義丸が好きなのに。それなのに義丸は自分を他の娘と同様に扱おうとする。
 義丸は女癖が悪い。港に何人も女がいることは私も知っている。……そう、知っている。わかっているのだ。義丸にとって私は港で彼を待つ娘達と何も変わらない。都合のいい女。そんなことわかってた。でも、義丸の手の温もりを知ってしまったら、他の娘達と同じでいい訳がない。私は彼の特別でありたい。

「義丸のばか!」
「……そうだよ、俺はばかだよ。こんな時に情けないくらい緊張してるし、お前に嫌われるのが何より怖くてたまらない」
「そんなの嘘でしょ」
「なら試してみるか?」

 力強く肩を抱かれ、義丸の端正な顔が近付いてくる。その先に待ち受けているものを想像して身を固くすると、頭上から控えめな笑い声が降ってきた。
 気付けば私は義丸の腕の中にすっぽり収まっている。びゅうびゅうと吹きすさぶ海風が肌を撫で、耳元では激しい心臓の音が聞こえた。

「義丸のばかあほすけべばか嫌い」
「はいはい」
「…………好き」
「……うん」
「好きなの、義丸が。他の娘を見ないでほしい。いつだって私を想ってて欲しい。私がいつもここで義丸の帰りを待っていることを忘れないで欲しい」
「わかった」
「絶対わかってない」
「なら言い方を変える。……もちろん、お前だけを愛すよ」

 言い返そうと顔を上げると、義丸の顔がそこにあった。唇に感じる熱に、腰に回る腕の強さに頭がくらくらした。義丸、義丸、義丸。心の中で名前を何度も呼んだ。それに応えるように義丸の腕に込められる力も強くなっていく。このまま時が止まってしまえばいいのに。そんなことを考えながら、私は義丸の肩に両手を添えた。

 おおお、と海が鳴いている。風が髪を靡かせ、ゆっくり目を開くと義丸のまつ毛が月明かりに照らされてとても美しかった。この光景を今まで何人の娘達が見てきたのだろう。もっと早く自分の気持ちに気付いていれば、こんな思いはしなくて済んだかもしれない。私は義丸の唯一になりたい。義丸の温もりを知ってから、私の唯一は義丸なんだよ。

「何で泣くんだ?」
「……嫌い」
「さっきと言ってること真逆だぞ」
「好きだけど嫌い」
「俺は殺したい程、お前を愛してるよ」
「え?」

 義丸の顔がまた近付き、コツンと互いの額が合わさる。義丸の目が私を捉えて離さない。金縛りにあったみたいに、体が動かなくなってしまった。

「俺以外の男を見るな。俺以外の男に頼るな。いつだって俺を想ってここにいろ。俺が帰る場所はいつだってお前だ。例え俺が海で死んで、体が腐って、骨だけになっても俺は必ずお前の元に帰ると誓おう。お前は骨になった俺を生涯愛すんだ。俺とお前は永遠に共に在り続ける。永遠にな」

 彼の瞳から光が消えていく。その瞳に吸い込まれるような感覚に体がわずかに震え、そして私は無意識に頷いていた。満足げに目を細めて口角を上げる義丸の顔が近付き、また唇が重なる。今まで見たことのない義丸の冷え切った瞳が忘れられない。まるで呪いをかけられたような心地がした。

「そろそろ館に戻るぞ」

 海が鳴いている。それは悲鳴に寝ていた。波が波打際まで押し寄せ、私たちの足を飲み込む。まるで足首を誰かに掴まれているみたいだ。私の心にあるのは間違いなく恐怖だった。それなのに、義丸はまたいつもの柔らかな笑みを携えて「行こう」と私の手を引く。

「義丸」
「ん?」
「好き、好きだよ」
「……うん、それでいい」

 彼は美しく笑う。俯いた拍子に溢れた涙が黒い波に飲み込まれて消えた。





∴敬愛する「Eternite」管理人の八尋さんとの合作です。ありがとうございました。



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