潮の香りが、辺りいっぱいに満ちていた。明るい夏の日射しが肌を焼き、私は逃れるように海水に脚を浸す。
雲ひとつない青空を見上げても、そこに求めるものは存在しない。もしも、あの低く落ち着いた掠れる声に己の名を呼ばれたならば。誰かを守るあの大きな掌に、頭を撫でてもらえたならば。私はそれだけで幸せになれるのに。
「こんな所で何やってるんだ?」
どこか甘さを帯びた明るい声に、私はハッとして振り向く。そこには、向日葵のごとく元気な笑顔が花開いていた。
「なあんだ、重か……」
「何だってなんだよ。失礼な奴」
あからさまにムッと頬を膨らませる重にくすりと笑みがこぼれ、私は両手ですくった水をふくれた頬に目掛けてかけた。「うわ!」と手で水を防ごうとする重を追うようにパシャパシャと水をかけ続けていると、重はニヤリと笑って仕返しと言わんばかりに私の手を掴むと自分の方へ思い切り引き寄せた。私は体勢を崩し、重に抱きとめられ二人で海の中へ落ちていく。
一瞬息をするのも忘れ、私は目の前の大きな身体に縋りついた。無邪気な言動とは裏腹に思いのほか男を感じてしまって、思わずそっと胸を高鳴らせてしまう。誤魔化すように「もう!」と声を上げると、重は心底おかしそうに喉の奥で笑いながら私をさらに強く抱き締めた。
海水で冷えた体が、瞬く間に熱く火照っていく。互いの体温が混じり合い、静かに溶けていった。
いつまで経っても私を放そうとしない様子をさすがに不審に思い、そっと上を見上げる。きゅっと引き結ばれた唇と同じくらい、目元まで紅く色付かせているのを見て、私は恥ずかしさのあまり俯いた。ここでそんな照れたような表情をするのは、ずるい。
「重、あの……そろそろ離してほしいかなあ? なんて」
「あのさ」
「うん」
重が私を抱き締めたまま上半身を起き上がらせると、その顔がより近くなる。顔から火が出そうだった。重の顔を近くでまじまじと見たことなんてなかったけれど、こんなに男らしい表情もするんだと妙に感心してしまった。
そんなことを考えている内に、重の手が私に伸びて頬に添えられた。濡れた手はひんやりとしていて、私の頬の熱を瞬く間に吸い取っていく。気持ちが良くて、重の手に自分のそれを添えてさらに強く押し当てると、目の前でひゅっと息を呑む音がした。見ると、顔がゆで蛸のように赤い。すかさず自分の手を重の頬に当てる。じゅうう、という音が鳴りそうな程に熱く、私は慌てて手を引いた。
「あっつぅ!? 重、大丈夫? 熱あるんじゃない!?」
「ち、違う! 熱なんてない!」
「いや、ありえないくらい熱いよ!? とりあえず上がろう?」
「……おう」
重は最近よく頑張っていたから、体調を崩してしまったのかもしれない。
そんな風に、医者を呼ぼうかと本気で考え始めた私の名を、突如背後から呼ぶ声がした。それは腹の底まで響くような、低くて穏やかで何よりも焦がれていた声だった。さっきの比ではないほどに、私の顔は燃えるように熱くなる。
「舳丸さん……」
「ああ。重も、こんな場所にいたのか。探したぞ」
「……ご足労おかけしてすみません。兄貴、何の御用で?」
「お頭が呼んでる。悪いが重を借りていくぞ」
「分かりました。すぐに行きます」
「はい。……あ、ちょっと待ってください舳丸さん。重、熱があるみたいで」
「熱?」
「や、違う! 無いですよ、熱なんて!」
「確かに顔が赤いな。体調が悪いならそう言え。お頭には俺から言っておく。部屋で休んでろ」
「重、部屋まで付いていってあげるから。休みなよ」
「……じゃあ、そうする」
「探して来てくださったのにすみません、舳丸さん。ありがとうございます」
「いや、構わん。……重のこと、よろしく頼むぞ」
背を向けた拍子に舳丸さんの紅い髪が揺れて、私の視界も揺れた。ズシンと体が重くなったような心地がして、足元がふらふらした。重のことを頼む、と言った時の舳丸さんの表情はどこか嬉しそうで、私は胸が締め付けられるようだった。重は、黙り込んでしまった私の顔を覗き込み「なあ」と声をかけてくる。思わず肩が跳ねた。
「なに? どうしたの重」
「……いや何でもない。ごめんな、迷惑かけて」
「いいよ、気にしないで。重は大切な友達だもん」
「うん。……ありがとな」
俯いてしまった重に肩を貸し、私は足取りを重くさせたまま目的地を目指した。元々、私みたいな小娘など眼中にないことは分かっていたのだ。けれど舳丸さんの優しさに触れる度、期待する心が疼いてしまう。海水でボサボサになった髪も一生懸命に手入れして、慣れない化粧だってしているのに、少しも近付けている気がしないのだ。
フラフラと歩いていた重をようやく布団へと寝かし、私はほっと息を吐く。
「重、ゆっくり休んでね」
「なあ」
「ん、どうした?」
「お前さ、舳丸の兄貴が好きなのか?」
バシャーン。桶に汲んだ真水に、手拭いを勢いよく落としてしまった。「な、なんで?」となるべく冷静を装いながら手拭いに水を染み込ませ、ぎゅうっと絞る。
重は自分の腕を枕にして、私を見上げている。その顔がつまらなそうな、怒っているような、悲しそうな、よく分からない難しい表情をしていて、私は言葉に詰まってしまった。重は知っているんだ。私が舳丸さんに抱いている感情を。隠したって無駄だろうなと諦めて、私は重に手拭いを投げつけた。
「おわっ! 投げるなよ」
「なんかムカつく」
「八つ当たりすんな」
「だって……。…………いつから知ってた?」
「多分、お前が兄貴を好きになってすぐ」
「そ、そんなの結構前だよね……?」
「だな」
「私ってそんなに分かりやすい?」
「いや……。ただ単に、俺がお前のことよく見てるだけ」
重のその声が思ったよりも真剣で、私はハッと息を呑む。「私ってそんなにドジで危なっかしい?」なんて冗談っぽく言おうと思っていたのに、完全に出鼻をくじかれてしまった。
あまりにも空気が張り詰めているものだから、何も出来ずにオロオロとしたまま下を向く。私は重の優しい笑顔が好きだった。それなのに、今まさにその顔を曇らせているのが自分なのだと思うと、胸がズシンと重くなる。
「重、あのさ、何か食べたいものある!?」
「は?」
「ほら、熱あるんだからちゃんと休まないと。りんごとか食べる?」
「急に話題変えんな。ていうか逃げるな」
「う……」
「熱なんてない。体調も悪くない」
「え、うそ」
「ん」
重が自ら前髪を払うので、私はそこに手を当てた。確かにさっきみたいに熱くないし、むしろ平熱のように思える。手を下ろすと、重は私がさっき渡した手拭いを私の頬に押し当てて、ぐりぐりと力を込めた。
「いたたたた! 痛いよ!」
「さっきお前も海水浴びたろ。拭けよ」
「自分で拭くよ! てか痛いよ! 化粧が落ちる!」
「落ちろ」
がばっと手拭いが顔全体に押し当てられて、視界が真っ暗になった。せっかく白粉を少し塗って、紅までつけたのに全部落とされてしまった。重は拭き終えると、満足したように手拭いを桶の中に投げ入れる。
「……舳丸の兄貴に見てほしくて化粧なんて始めたんだろ?」
「う……。重には何でもお見通しなんだね」
「だから言ったろ。俺はずっとお前のことしか見てこなかったって」
「……うん」
「でも、この先を言ったらきっと、お前は困るから。だから言わない。安心しろよ」
重、とその名を零すと、へたくそな笑顔が向けられる。傷付いているのを無理やり隠すような表情に、私は何も言えないまま視線を下へ落とした。
重のことは好きだ。いつも明るくて優しくて、一緒にいると心安らぐ大切な友人だと思っていた。けれど、だからこそ、私は今まで彼を傷付けてばかりだったに違いない。そんな自分が許せないのに、私の心はただ一人だけを求め続けてしまうのだ。
「私は舳丸さんが好き」
「おう」
「重のことも好き」
「……おう」
「でも、私が舳丸さんを想う気持ちと重を想う気持ちは違う」
「わかってる」
「重ぇ……」
「泣くなよ。我慢してる俺の身にもなれって」
「だって……」
「……ごめん。言わないって言っても、もう言ってるようなもんだよな」
重はガシガシと頭をかいてため息を吐くと、私の頭を優しく撫でた。とても優しい表情をしている。
どうして、私は舳丸さんを好きになってしまったのだろう。どうして私は重を好きになれなかったのだろう。こんなに優しくて、こんなにも私を想ってくれているのに。
そう思うと胸が苦しくて、その息苦しさが涙となって頬を流れた。重は眉を下げて笑う。
「今日のお前はよく泣くな」
「ごめん」
「いいよ。泣いてるお前、初めて見た」
「私だって一応乙女だよ」
「知ってるよ。お前が本当は寂しがり屋で弱虫で甘えたがりなの、俺だけは知ってる。寝起きのふにゃふにゃした顔だって可愛いと思ってるし、今だって抱き締めたくてたまらない」
痛いほどに優しくて甘い言葉の雨が降り注ぎ、私は泣きやむキッカケを見失ってしまった。ずるい男だと思った。そんなことを言われたら、ただでさえ弱虫な心がグラグラと揺れてしまう。
「……俺、やっぱり寝るな。お前は舳丸の兄貴のところに行ってこいよ」
「でも、重」
「いいから。これ以上一緒にいると、俺なにするか分からないぞ」
重のことを思うならば、すぐにこの場を離れるべきなのだろう。しかし身体は根を張ったように動かず、涙はとめどなく溢れてきた。自分の心を見失ってしまいそうになる。
「あのさ、やっぱり最後に一つだけわがまま言っていいか?」
「……うん」
「手、つないでくれ」
あまりにも控えめなワガママにますます胸が締め付けられるが、私はそれをおくびにも出さず重の言葉に従う。いつも通りの、固くて大きくて優しい掌だった。ぎゅっと力強く握り返される。重は照れたように笑ってから、ぱっと腕を上げて私に背中を向けてしまった。
指先に宿る熱は同じなのに、互いの胸に宿る感情はまったく異なる色を帯びている。そのことが切なくて苦しくて、私は温もりの残滓を求めるように自らの手を握った。
夏の大きな太陽だけが、宙ぶらりんな私の想いを見守るように雄々しく輝いている。
∴敬愛する「Eternite」管理人の八尋さんとの合作です。ありがとうございました。