※後半流血シーンあり

  「美しいものを、汚してみたいのです」

 ぽつりと、空間に落ちた。その言葉に感情が込められているのかもわからない。日々樹先輩は時間を止めてしまった。これはあくまで比喩であって本当に時間が止まったわけではない。そういう心地がしたのだ。縫い物をしていた私の手は完全に動かなくなり、黙って視線を日々樹先輩に向けることしかできなくなっている。ただし、時間が止まっているのは私だけであって日々樹先輩は相変わらず向かいのソファーで本に視線を滑らせている。ページをめくる指先の動作が穏やかで、私はぼんやりとそれを眺めたまま、さっきの言葉を頭の中で反芻していた。何か深い意味がありそうなのに、考えたところでその真意にたどり着くことはできない。もどかしくて視線を落とした先は針を持つ自分の手だった。私と日々樹先輩の二人きりの空間に異様な空気が漂い始める。「ぁ」と、小さな声が私の口から漏れた。日々樹先輩はゆっくりと本から視線を上げて、何も言わない私をジッと見つめる。私の心の中まで見抜くような日々樹先輩の鋭い視線に、再び時間が止まる感覚が蘇る。

「どうしたんですか、いきなり」
「ふふふ、目がまん丸ですよ。可愛らしいですね。驚きましたか?私は日頃からそう考えていたのですよ。言葉にしたのは初めてですけどね」
「美しいものって?」
「さあ、なんでしょう」

 口角を緩やかに上げた日々樹先輩は再び本に視線を落とした。ページをめくる音だけが部屋に響き渡る。 日々樹先輩の細長い指がページとページの間に挟まれ、そして捲る。その単調に繰り返される動作が美しい。読書する姿でさえも絵になるのは、日々樹先輩が美しい人だからだ。日々樹先輩は美しい。絹のような髪、陶器のような肌、宝石のような瞳、花弁のような唇。日々樹先輩は、この世の中に存在するありとあらゆる美しいものを全て寄せ集めたような人だ。その人が言う『美しいもの』とは何だろう。私はそれが気になって仕方がない。

「『物』ですか」
「『もの』ですね」
「…何が違うんですか」
「ふふ。貴女はまだ知らなくて良いですよ」
「教えてください。日々樹先輩にとって美しいものって何ですか」
「では私からも問いましょう。貴女にとって美しいものとは?」
「え…な、何だろう。お花とか…」
「他には?」
「え、…えっと…月とか、蝶々とか、えぇと……あとは…」
「悲しいですねぇ。貴女にとって美しいものとはたったそれだけなのですか」
「そんな急に言われてもパッと思いつかないですよ…」
「私は美しい『もの』と言ったんですよ」
「はい、ですから…」
「美しい『者』、つまり人です。貴女にとって美しい人はいないのですか?」
「人…」
「私はね、美しい人を汚したいのですよ」

 パタ、と日々樹先輩は本を閉じた。テーブルに本を置き、ゆっくりと脚を組み替える。顔を上げた時、日々樹先輩の目が私を捕らえた。一瞬だけ背筋が凍った。何故だろう、日々樹先輩から目が離せない。こんな時でもぼんやりと考えてしまう。日々樹先輩はなんて美しいのだろう、と。

「私は」
「はい」
「日々樹先輩を汚したいとは思いません」
「ほお、私が美しいと?」
「日々樹先輩は美しいです。花や、蝶や、月よりも。私は花も蝶も月も、そして日々樹先輩も汚したいとは思いません。だって」
「汚れたら美しくないと?」
「…意図的に汚したくないだけです」
「それでは私と意見が違いますね。私は私の意思で美しい人を汚したいのです。その価値を私が定めたい。私のものにしてしまいたい」
「日々樹先輩がそこまでしたい、そんな人がいるんですか。この世の中に」
「心外ですねぇ。私も人間です。人並みの感情はありますよ」
「それは嫌悪ですか?」
「いいえ」
「じゃあ、憎悪?」
「いいえ、違います」
「嫌いだから、汚すんですよね?美しいものが嫌いだから、」
「いいえ。誰もそのようには言っていませんよ」
「私は、日々樹先輩は美しい人だと思います。日々樹先輩が好きです。だからこそ日々樹先輩を意図的に汚すなんて我慢できない。理解できない」
「ふふふ、ははは!大胆な告白ですねぇ!光栄です」
「誰なんですか、日々樹先輩がそこまでしたい人って。嫌悪じゃないなら何なんですか」
「言ったでしょう、私がその価値を定めたいと。私のものにしてしまいたいと」
「それで、どうするんです?」
「愛します」
「……え」
「私にとって、汚すことは愛することと等しいのですよ」
「日々樹先輩、」

 日々樹先輩の目の色が変わった。

「貴女はとても美しい人です。身も心も愛しましょう、私が見初めた人よ」

 頭を鈍器で殴られるような衝撃を受け、軽く目眩がした。たった一回の瞬きが随分と長く感じられる。ほんの数秒目を離しただけなのに、そこに日々樹先輩の姿は無かった。目を見開く。風が吹き抜ける。赤黒いカーテンが揺れる。無意識に立ち上がろうとした時、私の視界が黒に包まれた。

「さて、問題です。私はこれから貴女に何をするでしょう」

 背後から目隠しをされ、指の隙間から少しだけ光が見える。そこには、さっきまで私の手の中にあったはずの縫い針を持つ男の手があった。そして、親指を深く刺す。びっくりして息を呑むと、耳元で愉快そうに笑う声が聞こえた。血で赤く滲む親指が私の唇に触れ、紅をさすようになぞる。滴る血が、私の涙が、混ざり合って落ちていく。

「もっと汚して差し上げます」



美獣



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