「なまえ、少し良いか」

 一時間目の準備をしていると、クラスメイトのアドニスくんがパンを私に差し出しながら言った。え、くれるの?という視線を送ると彼は無言で頷く。…賄賂だろうか。アドニスくんがパンやおにぎりを私にくれるのはいつものことだけど、話があるタイミングで差し出されると何だか少し身構えてしまう。でも今朝は朝食を食べる時間が無くてちょうどお腹が空いていたので、パンはありがたく頂戴した。あんパン、美味しい。

「陸上部に入らないか?」
「ふ、ふぐっっー!!」
「ああ、ゆっくり飲み込め。ほら、水もあるぞ」
「ありがと…うぐっ」

 な、何て恐ろしい人…!話とは部活勧誘のことだったのか…。まさか「あんパン食ったんだから陸上部に入れ」ってこと…?いや、でもアドニスくんはそんなことを言う人じゃないし。それにまだ「陸上部に入らないか?」って提案してるだけだし。大丈夫、きっと大丈夫だ。水を喉に流し込んで胸を押さえているとアドニスくんが背中をさすってくれた。やっぱりアドニスくん優しい…好き…。

「で、えっと…陸上部に入らないか、とのことでしたが」
「ああ」
「えっと、とりあえず見学させてもらってからで良いかな?それから決めて良い?」
「もちろんだ。今日の放課後にさっそく来て欲しい」
「わかった。一応体操着に着替えて行くね」
「迎えに行くから、教室で待っていてくれ」
「大丈夫だよ。グラウンドに行けば良いんだよね?」
「いや、迎えに行く。お前を狙っている他の部活の奴に拉致される可能性があるからな。ここで待っていてくれ」
「ら、拉致?その心配は無いと思うけど…わかった、待ってるね」
「ああ。安心しろ、無事グラウンドまで連れて行く。お前は俺が守ってやる」
「なんか命の危険を感じる言い方だなぁ…ありがたいけど」

 アドニスくんは満足げに頷いて自分の席に戻った。何だかさっきから神崎くんがそわそわとした様子でこちらを見てくるけど何だろう。面白いから放っておくけど。
 陸上部って確か、お姉ちゃんと天満くんも一緒だったっけ。な、なんて平和な部活なんだ…!昨日は騒がしい部活を見学したから心がオアシスを求めている。天満くん…会ったら抱きしめてしまいそうだ。お姉ちゃんにも最近会っていないからたくさんお話したい。もちろん部活の見学が目的だけれど。

「おい〜っす、なまえ〜」
「ひあっ」
「ふふ、変な声。ちょっと首に歯を立てただけなのに」
「り、凛月くん…!いきなり驚かさないでよ!」
「なまえのうなじがおいしそうなのが悪い」
「ひどい責任転嫁だ…で、どうしたの?凛月くんの教室隣だよね」
「あーそうそう。なまえに話があったの」
「話?」
「そう。なまえ、紅茶部に入ってよ。これ入部届け」
「ひええ…」

 単刀直入過ぎる。しかもご丁寧に入部届けまで。何だろう、この有無を言わせない感じ。そう言えば昨日ひなたくんたちが怖いこと話してたな。確か、天祥院先輩が最高級のお茶を取り寄せたとかなんとか。入部届けを渡そうとしてくる凛月くんのバックに天祥院先輩の幻が見える。逃げたい。

「ああ、えっと、とりあえず見学させてほしいな…なんて」
「見学したら入る?」
「んんッ。それはまだ何とも…」
「お願い、入ってよ。なまえが入ってくれたら俺、毎週なまえの膝枕で眠れるしお菓子も食べられるし良いことづくめなんだけど」
「凛月くんにとってはね」
「今日見学来れる?」
「ごめん、今日は陸上部を見学することになってるんだ」
「ふーん。…なまえ」
「うん?」
「逃げても無駄だよ」
「う、うん?」
「えっちゃんからは逃げられないよ。逃げ回るつもりなら覚悟しておいて。俺もなまえを入部させるまで諦めないから」
「何それ怖い。ちょ、誰か助けて」

 オロオロしていると、自席でパンを食べていたアドニスくんが私の危険を察してバッと勢いよく振り向いた。アドニスくんめっちゃ睨んでるけど、ほっぺがパンで膨らんでるし口元に食べかす付いてるし迫力に欠ける。凛月くんも「何あれ」と興味無さげに呟くと欠伸をしながら去っていった。天祥院先輩、めっちゃ怖い。果たしてアドニスくんは私を守ってくれるのだろうか。不安だ。







 放課後になった。天満くんやお姉ちゃんに会える喜びでスキップしながら女子トイレに向かい、急いで体操着に着替えた。アドニスくん、もういるかな?ゆっくり教室の扉を開くと、アドニスくんが部活着に着替えて机の上に座って待っていてくれた。慌てて駆け寄る私にアドニスくんは小さく笑う。

「ごめんね!お待たせ」
「いや、俺もついさっき来たところだ」
「そっか、よかった」
「では行こう」

 アドニスくんに手首を掴まれ、引っ張られるように教室を後にした。引っ張られると言っても強引な感じはなくて、歩幅も私に合わせてゆっくりと歩いてくれる。…でも何でこんな誘導のされ方なんだろう。手首を掴む理由は…?はぐれたりとかはしないと思うんだけどなぁ。まあ、いいや。なんて考えているうちにグラウンドが見えてきた。

「なまえのね〜ちゃん見っけ〜!なんだぜ!」
「あうう…天満くん…!よしよし」
「あらあら光ちゃんったら抱きついちゃって。司ちゃんといい、一年生はなまえちゃんが大好きねぇ。もちろん私も大好きだけど?」
「あ、お姉ちゃん!」

 元気よく出迎えてくれた天満くんの頭を撫でながらあわよくば抱きしめてしまおうかともう片方の手を上げたらその手をお姉ちゃんに掴まれ、そして王子様みたいに手の甲にキスをされた。基本的にKnightsは心臓に悪い。

「陸上部にようこそ、なまえちゃん。さあこっちを向いて?かわいい顔をよく見たいわぁ」
「お姉ちゃんに見つめられたら私死んじゃう」
「あらどうして?」
「お姉ちゃんが…美しすぎて…」
「やぁだもう!なまえちゃんってば可愛い〜!…ふふ。つまみ食いしちゃおうかしら」
「!?」
「待て鳴上。なまえは陸上部の見学に来てくれたんだ。早速活動に移ろう」
「あら、そうだったわねぇ。なまえちゃん、お姉ちゃんと柔軟する?」
「あ!それなら俺もね〜ちゃんとストレッチしたいんだぜ!嵐ちゃん先輩俺も!」
「はいはい。じゃあみんなで柔軟やりましょうね」
「柔軟って準備運動みたいなやつ?」
「ああ。無理はするな。出来る範囲で良い」
「わかった!やってみる」

 ふんふんと気合を入れてジャージを腕まくりをした。昨日はまともに活動に参加できなかったから今日はちゃんとやるぞー。特にアドニスくんの天満くんとお姉ちゃんという最高に平和なこの部活は志望群に入っている。といっても私は運動が得意ではないからマネージャー業務が中心になると思うけど。でもたまに気分転換程度にマラソンできたら良いなぁ。人間関係が良好な部活って最高。

「あいたたたたたたちょ待ってギャァア裂ける裂ける!股が裂ける!」
「ね〜ちゃん、体硬いんだぜ…」
「天満くんゆっくり!ゆっくり背中押して!」
「ほらなまえちゃん頑張って!お姉ちゃんの手に掴まって!」
「無理ぃいい届かないぃい」

 忘れてたけど、私めっちゃ体硬いねん。足を開こうと思っても90度も開かない。そのうえ天満くんに背中を押され、お姉ちゃんに手を引っ張られている。車裂きってきっとこんな痛みなんだろうな、なんて意識が朦朧としてきたところでお姉ちゃんの手が離れた。「ここまで体が硬いとはねぇ…」と呆れたような驚いてるような声が聞こえた。うう、ごめんなさい。

「でも慣れればもっと足も開くようになるんだぜ!ね〜ちゃんファイトなんだぜ!」
「こんな時でも天満くんは優しい…!私頑張るよ!」
「そうねぇ、でもちょっと硬すぎね。お家でもお風呂上がりに柔軟しておくといいわよ。毎日欠かさずにね?」
「うう〜ん…毎日…」
「あと女の子なんだから『股が裂ける!』なんて叫んだらダメよ?」
「は、はぁい…」

 思ったより陸上部って厳しいところだ…。いや、よく考えてみたらそもそも男子ばかりの運動部に女子が入るってかなり無理があるんじゃ?体力差も力の差もあるのに。陸上部なら個人でも活動できるし躓くことはないと思ったのに、まさか準備運動の段階でこんな醜態を晒すことになるとは。アドニスくんなんてもうとっくに準備運動を終わらせて短距離走の練習に入っているというのに。にしてもさすがアドニスくん。めっちゃ速い。さながらチーターのような走りである。アイドルじゃなくてスポーツマンの道もあるなんて、なんて恵まれてるんだ。それに比べて私は何だ?カスか?

「さて、そろそろ外周しに行きましょう。なまえちゃん走れる?」
「走れる!でもその前に手洗ってきていい?柔軟で泥だらけになっちゃった」
「じゃあ俺先に行って走ってるんだぜ!なまえのね〜ちゃんも早く追いついて!」
「うん。お姉ちゃんも先走ってて」
「そう?一人で平気?」
「大丈夫。そこと水道で手を洗ってくるだけだから」
「わかったわ。それじゃあまた後でね」

 天満くんとお姉ちゃんが走り出すのを見送って、私は一人水道に向かった。柔軟中のあまりの痛みに耐え切れず夢中で地面をバシバシ叩いたからだろうか、手がありえないくらい汚い。水だけで落ちないな、これ。少し歩くけど、石鹸も完備されてる校舎内の水道で洗おう。

「あれ」

 下駄箱で上履きに履き替えてから廊下を歩いていると、廊下のど真ん中に白いタオルが落ちていた。干したての太陽のいい香りがするタオルだ。誰のだろう。とりあえず汚い手で拾うわけにもいかないので慌てて石鹸で手を洗い、自前のハンカチで手を拭いてから問題のタオルを拾った。さて、どうしよう。どこかわかりやすいところに置いておければ良いんだけど、どこにも置けるような場所なんて無いし。困ったなぁ。

「あ、あれ…あそこにも落ちてる…」

 落ちているタオルは一枚どころじゃなかった。よく見ると長い廊下の直線上に2メートル置きぐらいに落ちている。何だこれ。誰が何故タオルをこんなに廊下に落としたのだ。とりあえずそのままにしておくわけにもいかないので、一枚一枚拾っていくことにした。

「 ( あ、ここで終わってる) 」

 どこまで続いているのかと思ったら、案外すぐ近くの教室の扉の前でタオルの道標は途切れていた。何の教室だここ。この教室の中にタオルの持ち主がいるに違いない。とりあえずノックしてみよう。タオルを左腕で抱え、右手でノックしようと手をあげたると、急に扉が開き、そして私は誰かに右手を掴まれ教室の中に引き込まれてしまった。え?



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