「私と寝てください。ヤラシイ意味ではなくて」

 ただ一緒に寝て欲しいのです。と、一言付け足すと俺の了承を得ることなくその女はさも当たり前のように俺の布団に潜り込んできた。呆れて言葉を失い体を起こす俺を他所に、女は持参した枕に頭を沈めて目を瞑る。溜息を一つ零して、障子からうっすらと部屋を照らす月明かりに目線を落とした。今宵は、満月か。

「狭い」
「最近、夢見が悪いんです」
「聞いているのか」
「私がね、真っ暗な闇の中にポツンと一人で座ってるんです。まるで何かを待っているかのように」
「…それのどこが悪夢なんだ」
「夢、ってどこか現実とはかけ離れたものを見るじゃないですか。でも私が見るそれはとても現実的で、そう、多分、私は毎晩、未来を見ている」
「未来だと?」
「毎日、同じ風景なんです。暗闇の中に身動きがとれない私がいる。初めはそれだけだったの。でも日に日に時が進んでいく。日を重ねるにつれて、だんだんと白い影が浮かび上がってくるようになったんです。初めはぼんやりとしていてよくわからなかったのですが、あれは間違いなく人でした」
「…あくまで夢だろう。いい歳して子供じみた戯言を抜かすな」
「だって、怖いじゃないですか。いつその影が襲いかかってくるかもわからない。もしかしたら、私の末路を見せるつもりなのかも」
「お前はそれでも忍なのか…情けない。早く自室に戻れ」
「嫌です」
「…お前」

 仮にも男と女だ。その言葉は口にせずに心の中にとどめてはおいたが、俺の言いたいことを恐らくこの女は理解している。俺だからそういう事態に至らないと思っているのであれば、それはこいつの誤算だ。この女の、気取らない花のような薫りが先ほどから俺の理性を揺すぶっている。徐々に下半身に熱が帯び始め、そして甘い痺れを覚えた。欲をこいつに吐き出してしまえたら。が、しかし、この女の無防備さが却って疎ましい。ふと我に返ると、らしくもない己に自嘲気味に息を吐いた。こうも率直に来られると、どうも調子が狂う。実に不快だ。

「添い寝の相手が欲しいのならば他を当たれ。出ろ」
「嫌。頭領、マダラ様がいい」
「…何故俺なのだ」

 久しく己の名を口にされ、刹那、心臓が跳ね上がるのを感じた。そして己の意思に背いて勝手にこの女に視線を移していたことが悔やまれる。目が合うや否や、綻ぶ口元が嫌に色っぽい。

「マダラ様なら、私を助けてくれるから」
「…誰がお前なんぞを」
「だって、頭領だもの」

 …誠、身勝手な女よ。

 ス、と無心になる。
 思わず細めた目の先に女の顔は映らない。興が醒めた。もはやこの状況に拘る理由がなくなった今、俺は体温が低下していくのを感じながら深い溜息を吐き出すことしかこのやるせなさを処理できなかった。満月が雲に隠れ、部屋が黒に包まれていくその様はさながら俺の心のようである。






 ある朝、道場に向かう俺をイズナが引き止めた。日差しの中から滲むように姿を表したイズナは、いつもの人当たりの良い穏やかな表情を隠し、困惑とも焦燥とも取れる瞳で控えめに俺に訴えかけている。何の目的か、などと勘繰る必要もない。

「最近、なまえが兄さんと毎晩のように寝床を共にしていると専らの噂だよ」
「…そんなことを確かめてどうする」
「兄さんが同じ女性を部屋に連れ込むなんて珍しいから。しかも、相手がなまえなんて」
「俺が連れ込んでいるのではない。根拠の無い推測はよせ」

 俺はそう吐き捨ててイズナに背を向ける。その時イズナがどんな表情をしているのかは容易に想像ができた。

「根拠ならあるよ。だって兄さん、昔からなまえのこと」
「イズナ」
「ごめん、言わないよ。でも、忠告だけしておく。これは良い機会だ。兄さんもそろそろ身を固めてもおかしくない歳だろう?」
「……余計なことを」
「心配だよ。一生独り身でいるつもり?そんなんじゃ皆に示しがつかない。だって、兄さんはうちは一族の頭領なんだから」

『だって、頭領だもの』

 イズナの声があの女のものと重なる。グ、と拳を握った。頭領という肩書きはこれ程までに疎ましいものか。

「なまえは、良い人材だ。人としても、嫁としても。強く、優しく、美しい。何より素晴らしいのは、忍でありながら生娘のような心を失っていないこと。ね、そうだろう?兄さん」

 イズナが男の目をして言う。

「イズナ、お前」
「…なまえは誰から見ても魅力的だ。兄さんもそう思うだろう?」

 肩を竦めてイズナが笑う。

「なまえを兄さんのものにしてしまえばいいのに」
「戯言も大概にしておけ」
「きっとなまえもそうなることを望んでいる」
「あのようなじゃじゃ馬娘を俺に押し付けるのはやめろ」
「…なまえを任せられるのは、もう兄さんしかいないんだ」
「…何?」

 振り向いた先にイズナの姿はない。果てし無く続く廊下がそこあるだけで、佇んでいるのは元より俺一人だった。立ち尽くす俺のすぐ横を、鳥がけたたましく羽ばたいていく。







 その日の夜もあの女は俺の部屋に来た。いや、訂正する。俺の部屋にいた、と言った方が適切だろう。湯浴みを済ませて自室に戻るとあの女がいた。文机で書物に落としていた目線を上げて、俺の姿を捉えるなり子供のような笑みを浮かべて「おかえりなさい」と頭を下げた。俺の部屋に許可もなく出入りするのは確実にこいつだけであろう。もはや誰の部屋かもわからん。
 俺は無言で敷き布団に横たわる。今日はいつになく疲れていた。腕で目元を覆い、一度だけ息を深く吐くと体がいくらか軽くなる。もう、眠ってしまおうか。庭から聞こえる鈴虫の音が美しく、心地良さを覚えた。

「頭領、今日はお疲れのご様子」
「嗚呼、勝手に俺の部屋に忍び込む阿婆擦れのせいでな」
「酷い」
「…今宵はいつもより早いな」
「ええ、まあ。頭領にお話が」
「話?」

 珍しく深刻な声音だった。書物を畳み、姿勢を整えているのか衣服が擦れる音が聞こえる。俺は相変わらず横たわったまま、女に背を向けて目を閉じていた。

「また、同じ夢を見たんです」
「…」
「暗闇で、一人座ってました。そして、近付く影が一つ。ここまでは以前話した内容と変わらないのですが、昨夜見た夢で影の正体がハッキリとわかりました」
「ほお」
「イズナ様です」

 思わず目を見開く。何故、そこでイズナの名が出るのだ。動揺を見抜かれぬように努めて静かに耳を傾ける。

「イズナ様が、私を見つめている。申し訳ないけれど、少し不気味でした。だって何も言わずに、ただジッとこちらを見ているから。『こちらへどうぞ』って私が手招きすると、静かに首を振るんです。何でしょうか、この夢は」
「…俺が知るわけがなかろう」
「そうですよね、夢を見ている当人がわからないんですから。でも、もしかしたら私はイズナ様が迎えに来て下さるのを待っているのかもしれない」

 それは、何を意味しているというのだ。俺は返す言葉を模索するも、全く見つけ出せずにいた。

「でも、イズナ様はただ首を振るだけ。どうして?どうして側に来て下さらないの」
「…なまえ」
「は、はい。なんでしょう」
「お前は、」
「はい?」

 イズナに、焦がれているのか。ただそれだけを聞きたいというのに、どうしたことか。口が開かぬ。

「頭領?」
「…」
「どうしたんです?珍しく名前を呼んで頂けたと思ったのに、黙りこくってしまうなんて」
「…いや、なんでもない」
「そうですか。…頭領、眠る前に子守唄でも歌いましょうか」
「いらん。餓鬼じゃあるまい」
「遠慮しなくてもいいのに。まあ、いいですけど。それでは頭領はお疲れのようですし、私は失礼します」

 立ち上がるなまえに目を向ける。

「今宵は一人で眠るのだな」
「ええ、だって、これまでは寝ている間に影の男に殺されるのではないかと恐れていたけど、影の正体がイズナ様ならば殺されるわけがないじゃないですか。ご迷惑をかけてごめんなさい、頭領。ありがとうございました」
「…身勝手な奴め」
「ええ?さみしいんですか?」
「さっさと出て行け」
「ふふ、はぁい」

 足音もなく、なまえは部屋を出て行った。パタリと障子が閉まる音を境に辺りは静寂に包まれる。…一人の夜は、これほどに静かだったか。だが、これでまたゆっくりと睡眠を取れる、はずだ。無意識に吐き出した溜息は安堵によるものか、それとも。

「…イズナ、何を恐れている」

 弟の戸惑いが俺を複雑な思いにさせる。なまえの心の中には間違いなくイズナがいるというのに、イズナは何を迷っているというのだ。イズナがなまえを…それでもイズナは首を横に振るのであろうか。そう、なまえが見た夢のように。

 なまえ自身は、今と過去のどちらを選ぶであろうか。











 あの晩を境に、なまえは俺の前に現れなくなった。鍛錬場で度々武芸に励む姿を目撃しているが、言葉をかわすことはない。

「兄さん、近頃は遠くを見ることが多くなったね」
「…いきなり何だ、イズナ」
「兄さんがぼんやりしているから。らしくない」
「…」
「なまえとあれから話してる?」
「…イズナ、お前わかってて聞いているだろう」
「ふふ、うん。だって兄さんがなまえ相手に奥手だから、おかしくって」
「…あの女のことはもう良い」
「どうして?」
「あいつは、お前と共に在ることを願っている。お前もわかっているだろう、イズナ」
「…はは。参ったなぁ」

 目を伏せるイズナの頬に睫毛の影が落ちた。僅かだが、睫毛が震えている。瞼の裏でイズナは何を見ているのだ。耐え忍んでいる。弟が本音を心の奥底に仕舞い込む姿が、痛々しい。

「イズナ、」
「僕ではもうなまえを守れない。…もう、もう、僕ではダメなんだ」

 池の鯉が跳ねた。水面に浮かぶ波紋のように、イズナの心が揺らぐ。溢れ出した胸の内を吐き出しながら、何度も首を横に振るイズナに、俺は堪らず手を伸ばした 。

「兄さん、僕は、なまえを幸せにしたい。でも、」

 イズナがゆっくりと目を開きながら顔を上げる。風で舞い上がる己の髪が乱れ、視界を遮る。

「死人に縋っても、幸せになんてなれやしない」

 隙間から見えたイズナの顔は、滲んでいてよく見えない。目を伏せて俯く俺にイズナがゆっくりと手を伸ばした。

「…僕は消える。でも、ずっと見ているからね。ずっと」

 それは脅しに似ていた。

「なまえのこと、頼むよ」

 触れる手前で、煙のように消えるイズナを、俺はただ見ているだけだった。幻想の終わりを告げる線香の香りが鼻を掠める。

 悲しげな風鈴の音が、弾けた。





「晩夏の香り」

 すん、と鼻を鳴らしてなまえがぽつりと呟いた。仰いでいたうちわを膝の上に置いて、そっと襖に凭れ掛かる。草木の風に揺れる音が脳を、草と土の香りが肺を満たしていく。少し間をおいて「嗚呼」と短く返し、振り向いたなまえの姿を捉える。

「季節の変わり目は何処と無く淋しいものですね」
「そうだな」
「え!マダラ様もそう思うなんて」
「何が言いたい」
「ふふ、いいえ。何も」

 前髪をそっと掻き分け、横髪を耳にかけながら笑う。

「イズナ様を思い出すの」
「…」
「こんな涼やかな夜がお好きでしたから」
「そうだな」
「マダラ様もお好きでしょう。縁側に腰掛けて月を眺めてみては?今宵は満月ですよ」
「いや、いい。それよりもなまえ、こっちに来い」

 手招きすれば、首を傾げて歩み寄る。その細い身体を抱き寄せて肩口に顔を埋めた。呼吸をする度に肺を満たしていく、控えめな花の薫りに鼻の奥がツンとした。衣服から伝わる体温がなんとも心地良い。

「温かいですねぇ」
「嗚呼」
「生きている証拠ですね」
「…嗚呼」
「泣いてるの?頭領」
「それはお前だろう」

 顔をあげると案の定なまえは泣いていた。目尻と鼻を赤く染め、小刻みに震えながら大粒の涙を流している。美しい。そう思う。月の光を浴びて涙を流すなまえは非常に艶美であった。

 そして改めて俺は思う。欲しい。この女が、欲しくてたまらない。
 両耳を包み込むようにその顔を引き寄せればハッと息を呑む音が聞こえた。涙の落下が止まり、丸い双眼が俺を見ている。イズナではなく、この俺を。

「もう充分だろう、なまえ」

 一雫、また涙が流れる。なまえの涙はそれで最後だった。目を細めて一度だけ浅く頷いたなまえを、俺は己の腕の中に閉じ込める。生きていることを確認するように何度も温もりに縋る。温かい。この女は生きている。ここに居る。そして、これからは俺と共に在るのだ。生涯守り抜くと誓おう。イズナが愛して止まなかった花よ、夢よ。



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