海女であって海女でない。海女でありながら海を知らない私を、人はどう思うだろうか。

「つまらない」

 海女である私を陸に縛り付けている、目に見えないモノはいつ断ち切れるのだろうか。

「つまらない。つまらない、つまらない」

 唱える。心の中で何度も。
 私も姉様達のように深瀬に行きたい、生きたい。いつも鮑や雲丹を採りに海に潜る姉様達を見て憧れている。焦がれている。私は海に恋い焦がれている。

 昔、一度だけ姉様達に我儘を言ったことがあった。「私も小舟に乗せて欲しい。海に連れて行って欲しい」と。すると姉様達は驚いたようにギョッと目を見開いて、それからただ首を横に振るだけで私の願いを頑なに聞き入れようとはしなかった。中には、顔を青くして逃げるように背中を向ける姉様もいた。「ごめん、なまえ。お前が大切なんだ。お前に何かあったら私達はあの男にー…」姉様はそれ以上は何も言わなかった。ただ残念だと思った。海に連れ出して貰えないことに納得がいったわけでは無かったけど、姉様達を困らせるのは気が引けたから、私は黙って頷くことしかできなかった。
 それでも海に行きたいと願う気持ちが無くなったわけではない。潮の味を知りたい。海の中を自由に泳ぎたい。でも、言いつけを破ったら姉様達に叱られるかもしれない。でも、でも。
 それでもいいと、ある日思ったのだ。私は海に行きたい、生きたい。私は海の底にあるキラキラと光る世界に見たいと心からそう願うようになっていた。

「お前本気かよ」

 戸惑いとほんの僅かに怒りを含んだ声を私にかけたのは、幼馴染の重だった。返答するのも面倒だから振り向かずに黙々と網を編む。その態度が気に食わなかったのか、重はドシドシと足音を立てて私の前にドッカリと座った。座った場所から僅かに砂が跳ねる。

「お前さあ」
「本気だよ。邪魔しないでね」
「上の人に怒られても知らないぞ」
「暴露ないようにするから平気。姉様達は今日は市場に行くって言ってたし、海に潜るって言っても半刻で戻るようにする」
「でも女一人じゃ危ないって。もし足攣ったらどうすんだよ」
「そんなへまするわけないでしょ」
「俺は心配してやってんだぞ」
「余計なお世話」
「可愛くない」
「それも余計なお世話」

 頑固女と重は顔を歪ませてそっぽを向いた。こんなやり取りを繰り返したところで私の意思が揺るがないことを重は知っている。私に海に行って欲しく無いのなら引っ叩いてでも止めればいいのに。それでもあくまで忠告だけなのは、重なりの優しさなのだ。私は知っている。

「ねえ、重」

 昔はよく砂浜で一緒に遊んだよね。でも男の重はいつの間にか海のずっと深い方に行くようになってしまった。私も重の後を追いかけたくて仕方なかったけど、私にはそれが許されなかった。私と重はいつでも、どんな時も隣を歩く仲でありたい。今も昔もずっとそう思っているんだよ。重が想像しているよりもずっと、私は悔しい思いをして生きてきた。そんなくだらない意地が生んだ決意を、重はどう受け止めるだろうか。

「何だよ」
「何でもない」
「…変な奴」
「じゃ。また後で」
「なあ」
「うん」
「気をつけろよ」
「うん」









 随分遠くまで来た。ようやく深瀬に来れたことが嬉しくて夢中で泳いでいたら、いつの間にか水軍館が蟻のように小さく見える。それでも海は果てし無くどこまでも続いている。この海の先にはどんな国があるのだろう。私はこの海の向こうも、海の底の世界も知らない。知りたいことがたくさんある。見たいものがたくさんある。本当は重と一緒に見たいのだけど。

 嘆いたって仕方が無い。浅瀬に戻って海の中を冒険しよう。ふと水中に潜ると小魚が群れを成して優雅に泳いでいた。私も泳げるだろうか、あの魚たちのように。何にも縛られることなく自由に。

 ゆらゆらと揺れる世界はとても美しかった。陸では見れないこの景色を記憶に焼き付けておきたい。次はいつ見れるかわからなから。
 呼吸も惜しんで夢中で水を蹴った。岩場でひょっこり顔を覗かせる可愛らしい魚を眺めていると急にお腹周りに何かが巻きついた。

「 ( え… ) 」

強い力によって水上に引き上げられて驚いて思わず口を開いてしまった。海水が喉を流れる。

「ぷはっ。げほっごほっ…はぁ…」

 海中から顔を出して大量に入り込んだ酸素で息を整えていると、肩口に何かがのしかかった。人の頭だ。ギョッとして目を見開いて、口から心臓が飛び出るかと思う位驚いた。見覚えのあるその赤い髪は、私の記憶違いではなければ、特定できる人物は一人しかいない。私は息を呑んだ。

「み、舳丸さん…」
「なまえ」

 首筋に舳丸さんの唇が触れた。掠れた声が妙に色っぽく、私は訳がわからないままただ目を見開いて呼吸を整えることしか出来ない。一体どうして舳丸さんにこのことが暴露てしまったのか。得も言われぬ恐怖に寒気を覚えた。もしかしたら重の奴が告げ口したのか。いや、そんなことしなくてもこの人なら私の異変にすぐに気付くだろう。私を陸に繋ぎとめていた縄が千切れる音が聞こえたのかもしれない。

「なまえ」
「ひっ」

 舳丸さんの胸板と背中がピッタリと密着する。私の声は彼には届いていないのか、いくら呼びかけても反応がない。ただ、か細い声で私の名前を繰り返し呼んでいる。

「あの、舳丸さん、離し」
「…上がるぞ」
「え、え、ちょっと」

 そろそろ体制的にも厳しくなってきた頃にようやく舳丸さんが動いた。相変わらず私のお腹には彼の腕が回されていて、とても逃げる隙は見当たらなかったので大人しく従った。もう少し海を見ていたかったけど、もうそろそろ姉様達が帰って来る。舳丸さんはこのことを姉様達に話すのだろうか。それは困る、だって怒られてしまう。

 陸に上がって、手を繋いだまま浜辺を歩く。どこに行くつもりなのだろう。前を歩く舳丸さんの表情も、考えていることもわからない。

 ふいに、舳丸さんがピタリと進行を止めた。つられて私も足を止める。

「夢を見るんだ」
「はあ…」
「お前が溺れていて、苦しそうにもがいている」
「私は溺れていませんよ」
「どうだろうな」
「…私、みんなが思ってるより大人ですよ。みんな私を子供扱いして…何なんです」
「お前が可愛いから、心配なんだよ」
「どうでしょう」
「お前は穢れを知らない、まるで真珠のように美しい女だ。みんなお前を失いたくないんだ」
「私は、ただ重と…」
「目の前の欲望に溺れるなよ、なまえ」

 ゆっくりと振り向いた舳丸さんの指が、前髪をよけるように私の額を撫でる。その指が下方へ落ち、輪郭をなぞって顎を捉えた。舳丸さんの目が燃える炎のように紅い。

「いっそ、お前の手足を切り落としてしまおうか。そうすれば、もう自由には泳げまい」

 近付く舳丸さんの端正な顔が、ゆらゆらと重の顔と重なる。下唇を噛むように口を結ぶと、海水で濡れた頬に生暖かいものが流れた。戸惑いと、罪悪感の塊だ。潮の味がする。

「そう、お前は今のままでいい。何も知らなくていい。ずっと俺のことだけを考えて此処で待っていれば良いんだ。お前は潮の味も、血の臭いも知らなくていい。変わってくれるなよ、なまえ」

 硬直した体を舳丸さんが抱きしめる。繋ぎ止めるように強く。縛り付けるように乱暴に。互いの鼓動が重なって聞こえるせいで一心同体の錯覚に陥った。心の底から恐ろしいと思った。震える体は寒さによるものではないと私ははっきり理解している。

 私は知っている。姉様達を脅して私を見張るように仕向けているのは舳丸さんであると。私は知っている。重から私を遠ざけたのは舳丸さんであると。私から欲しいものを、自由も全てを奪ったのも彼だ。私の生き甲斐を全て奪い取って私を妻として迎え入れた今、これ以上何を望む。

「おいで、なまえ。今夜は二人で眠ろう」

 鎖の音が聞こえる。



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