私と同じマンションの三階に住んでいる陸遜は二個下の男の子だ。私が小学三年生に進級する春、学校が始まるちょっと前に陸遜は母親と二人でこのマンションに越して来た。この春から小学一年生になるらしい、ピカピカのランドセルを背負った陸遜が母親と引っ越しの挨拶をしに来たあの時の光景は記憶に新しい。恥ずかしがり屋なのか母親の足にずっと抱きついていて、ちらちらとこちらの様子を伺っている陸遜を見て「変な子」なんて正直思ったが、お母さんに仲良くしなさいと言われて逆らえるわけもなく、おまけに登下校を共にする約束を親同士で勝手に交わされ、しかも(母子家庭であるから仕方ないのだが)陸遜の母親が働きに出ている間、陸遜はうちに預けられていたから、ご近所というよりもはや姉弟のような関係になってしまった。陸遜も初めはシャイっぷりを発揮していたがそんなこと長くは続かず、一ヶ月もすれば私の後ろをちょこちょこと付いて回るお姉ちゃんっ子になっていた。それからというもの、どこに行っても陸遜は私の側を離れようとはしない。町内会の催しで近所の子供達と大人で映画を観に行った時もわざわざ私の隣の席に当たった子とチケットを交換したり、ご飯を食べたに行った時も何食わぬ顔で私にくっついたまま同じテーブルの席に座ったり、進学先の中学も高校も全部同じだ。他にも色々あるがキリが無いのでこれ以上はやめておこう。それにしてもどんだけ私のこと好きなんだよと疑問に思って「陸遜は私のことが大好きなんだね」と、冗談半分で言ってみたら「…は?」と真顔で返されたことがあって、それ以来馬鹿げたことを二度と言わないと心に誓ったのは余談だ。近頃の陸遜は生意気の極みだが、昔は本当に可愛かった。私にピッタリとくっついてくる姿だって本当はたまらなく可愛かったというのに、陸遜が高校に入学した頃から彼は生意気なガキとしか思えなくってしまった。今や陸遜は文句の付け所が無い完璧な美少年である。小学生の頃は私の方が背が高くてよく頭を撫でていたのに今では私が陸遜を見上げなければならないし、逆に頭を撫でられることだってある。二歳差の壁より男女の壁の方がずっと大きいのだ。ここに来て陸遜が男なのだと改めて気付かされるなんてなんか悔しいというか複雑な気持ちだ。弟を持つ姉の気持ちがだいぶわかった気がする。

「時間の流れって時に残酷だよね」
「無駄口を叩く余裕があるなら早くこのプリントを終わらせて下さい」
「わかんないの。教えて」
「…少しはプライドを持って下さい。まったく…年上のあなたに英語を教える日がくるなんて」
「細かいことは気にするな」
「あなたはして下さい」

陸遜の言うことは正しいが細かいことは気にしないのが私の信条なので、めんごめんごと適当に謝っておいた。陸遜は深いため息を吐いてパシッとノートの裏で軽く私を小突く。あんまり痛くないが思わず条件反射で「いたっ」と零すと、小さく笑った陸遜と目があった。制服をかっこよく着崩している陸遜を見て、昔はあんなに小さかったのになぁと、また回顧してはさみしい気持ちになった。あのチビっ子陸遜ももう高校二年生になるのか。かく言う私も大学生だ。今年の四月に私は女子大に進学する。それで今日は進学先の大学から出された英語の課題を陸遜に手伝ってもらうべく、下校中にしつこくお願いして今に至るわけだ。英語なんて今までテストで平均点いくかいかないかの私ではとても手に負えないが、成績優秀な陸遜ならお茶の子さいさいだろう。麦茶を喉に流しながらプリントに目をやる陸遜を見ると、その横顔の表情が少し曇っているように見えた。え、何で急に。

「どうしたの陸遜」
「…一つ聞いて良いですか」
「何?」
「どうして女子大を希望したんです?前に進路について話した時は共学にするって言ってたのに」
「あーそれね。…うん、なんて言うか…、なんとなく」
「は?」
「通いたい学部ならこの女子大にもあったしさ、オープンキャンパス行った時も雰囲気良かったんだよね。なんとなく女子大の方に通ってみたくなった、みたいな」
「なんとなくって…」
「え、ダメ?」
「そんな適当な理由で進学先を決めるなんてどうかしてます」
「そうかな。私高校もなんとなくで決めたよ。結果的に良かったかどうか聞かれたら普通だけど」
「駄目じゃないですか」
「いや、大丈夫。この女子大には運命を感じたんだよ、今までに無かった引き寄せられる何かを!」
「…そうですか」
「何だよノリ悪いなー。何で陸遜くんはご機嫌ななめなのかな?お姉ちゃんに話してみたまえ」
「こんな出来の悪い姉を持った覚えはありません」
「何だと」
「…何で選りに選って女子大なんですか」

陸遜が超機嫌悪い。はあ、と深いため息を吐き出しながら前髪をくしゃりと握って机に肘をつきながら項垂れている。負のオーラが目に見えているので私は声をかけるかかけまいかものすごく悩んだが、陸遜が突然機嫌悪くなるのはよくあることなのでとりあえずそっとしておこう。自室のカーペットの上で制服にシワができないように伸ばしながら正座していると、その手を不意に陸遜に掴まれた。陸遜の大きな手に覆われて何だか熱い。彼はゆっくりと体の向けて、への字に曲がった口を開いた。

「もう一緒に学校に通えないじゃないですか」
「…え?」
「小学校も、中学校も、高校も、ずっと一緒に登下校してたのに、もうそれが出来ないんですよ?わかってますか?」
「う…うん。そうだね」
「…もっと他に言うことあるでしょう」
「さ、さみしいね、とか…?」
「聞かないで下さいよ。あなたの気持ちを知りたいんですから」
「そんなこと言われてもなぁ…」
「…一緒にいられる時間だって減るじゃないですか」
「でもそれはマンションが一緒なんだし、学校が違っても縁は切れないよ」
「だいたいあなたは…」
「ねぇ、陸遜」
「…何です」
「あのさ、まさか私がいるからっていう理由だけで今の高校を受けたの?」
「ええ、そうです」
「い…言い切るんだそこ」
「事実ですから否定するわけにもいかないでしょう」
「あの…何で?」
「はい?」
「何で私の学校に合わせるの?陸遜は私よりずっと頭良いんだから進学校行けば良かったじゃん。マンションが同じでこうして会う機会だって多いんだから、何も学校まで同じじゃなくても…」
「嫌ですか」
「嫌…、っていうか…」
「私は、あなたとなるべく一緒にいたいから学校も同じにしたんです。それ以外に理由なんてあるものですか」
「マジかよ」
「本当です」

お前私のこと大好き過ぎだろ。なんてことはあの日の陸遜の真顔がフラッシュバックして口が裂けても言えないけれど、本気でそう思った。嫌いなら私と同じ高校に通いたいとも、なるべく一緒にいたいとも思いもしないだろう。ていうか、何だなるべく一緒にいたいって。たまに陸遜はこういったらしくない言葉を不意に並べるので、その都度私は少しずつ複雑な気持ちが強まっていくのだ。

「なんかごめんね陸遜」
「まったくです」
「大学入っても陸遜の家押しかけるからよろしく」
「…母がいない日にしてくださいね」
「おう」

陸遜ママはほぼ毎日お仕事で家をあけているから、たまにうちにいる時はゆっくりしたいのだと前に陸遜が言っていたのを思い出して、陸遜の言葉に素直に頷いた。陸遜ママも大変だけど、陸遜も大変だと改めて思う。他人事みたいに言うけれど、私は彼の苦労を多少は共有しているつもりだ。陸遜は両親と過ごす時間があまりに少ないから、きっと甘えん坊になってしまったのだろう。だから、私となるべく一緒にいたいと、そう言っているのだと思う。私だって陸遜が大切だから、陸遜の望みを叶えてあげたいと思うし、一緒にいたいと思う。だからこそ私も陸遜といる時間を多くとるようにしているのだ、今日みたいに。

「今日夕飯食べて行く?」
「良いんですか?」
「当たり前じゃん。ていうか私のお母さんね、陸遜がいつうちに来ても良いように常にご飯多めに作ってるから、陸遜ママがいない日いつでもおいで」
「…ありがとうございます。いつも迷惑をかけてすみません」
「良いってことよ!」
「って、なまえのお母様に伝えて下さい」
「私にじゃないのかよ」
「なまえに迷惑をかけた覚えはありません。むしろこっちが迷惑してます」
「何やて」
「宿題も一人で出来ないなんて困ります」
「お、おっしゃる通りで…。すみません」
「…冗談です。いつもありがとう、なまえ」

陸遜は嬉しそうに笑った。





四月に入った。私は大学に入学し、陸遜は高校二年生になった。それぞれの道を進むことで陸遜との時間はたしかに以前に比べて減ってしまったけれど、同じマンションに住んでいるからいつでも会える。今日は陸遜ママが会社に泊り込みで家には陸遜しかいないらしいので、夕飯でも作ってやろうかと大学の後スーパーで買い物をしていると、突然携帯が鳴り出した。カゴを片手に携帯を取り出すと画面には「陸遜」の文字があり、私は首を傾げながら携帯を耳元に移す。

「もしもし?陸遜?」
『なまえ、今どこにいるんです』
「スーパーだけど」
『それって高校への通学路の途中にあるスーパーですか?』
「うん。そうだよ」
『ならちょうど良かった。迎えに来てください』
「は?」
『急に大雨が降りだしたんです。今近くの本屋で雨宿りしてるので来てください』
「…あんたいつも携帯してる折り畳み傘はどうしたの」
『折り畳み傘ならあなたに貸したまま返っていませんが?』
「あ、うっかりしてた。ごめん、マジごめん。すぐ行く」

そういえばこの間、陸遜に借りた傘を乾かしてから返すとか言ったまま借りパクしてたのをたった今思い出した。しかも今日返そうと思って今かばんの中に入ってるんだった。とりあえずカゴの中に入れたものとビニール傘を一つ購入して、私は早足で陸遜が待つ本屋へと向かった。

「遅い」
「ごめん。レジがちょっと混んでたんです。ごめん」
「まあ来てくれたので許してあげます。それで、傘は?」
「はい」

かばんから取り出した傘を手渡し、それを受け取った陸遜は自分のかばんにしまい込んだ。え?

「え?陸遜、何で傘しまっちゃうの?」
「乾いている折りたたみ傘を使うのは気が引けるので。乾かすのが面倒ですし。だからあなたのビニール傘に入れてください。どうせ同じマンションでしょ」
「うわぁこいつ」
「何か?」
「いえ何も」

傘代の500円損したわ。こんなことになるなら初めから陸遜の折りたたみ傘さして来ればよかった、と後悔したところでもう遅い。私の隣に並んだ陸遜と肩がぶつかった時に彼の前髪からぽたりと水滴が落ちた。いくら大きめのビニール傘とは言え、やっぱり少し狭い。

「傘、貸してください。あとその買い物袋も」
「え」
「背の低いあなたが傘を持っていたら私の頭に当たります」
「あ、ありがとう…ってさりげなく侮辱したなお前。これでも平均身長だから」
「その割に体重は平均より超えているのでは?」
「うるせーよ!事実だけど腹立つ!」
「女性がうるせーなんて汚い言葉を遣うんじゃありません。甘寧殿ですかあなたは」
「お、甘寧ってアレじゃん!不良で有名だった二年の…確か陸遜と同じ部活だったよね?」
「ええ。それと、今は三年ですよ」
「あ、そっか私が卒業したから彼も進級したのか…え、甘寧くん進級できたの?」
「ギリギリ。追試でなんとか乗り切れたみたいですね」
「へぇ〜甘寧くん頑張ったね」
「私が指導したんですから当然ですけど」
「後輩の陸遜に勉強教わったとか甘寧くんウケる。いつだったか忘れたけど私も甘寧くんに宿題手伝ってくれってせがまれたなぁ」
「それこそひどい人選ミスですね。甘寧殿も見る目がない」
「 (こいつ…) そういえば甘寧くんとしばらく会ってないなぁ。放課後に陸遜の委員会待ってる時によく話し相手になってくれてたんだけど…」
「え…そうなんですか?」
「うん。甘寧くんチャラいけどめっちゃ面白い。ああいう子好き」
「へぇ」
「 (えぇ〜声低ぅ!) う、うん。だって良い子じゃん?チャラいけど」
「チャラいだけですよ」
「陸遜は先輩を敬おう?」
「知りません」

えぇ〜超絶不機嫌モードに入っちゃったよ。めんどくせぇ。小学生の頃から陸遜は私が他の男の子を褒めると決まってこういう態度をとるのだ。一度こうなると、陸遜はなかなか機嫌を直してくれない。

「り、陸遜〜」
「暗証番号入力してください」
「え?」
「え?じゃありませんよ。マンションに着きました」
「あ、本当だ」

機嫌、戻ったのかな?よくわからないけど甘寧くんの話はもうやめよう。陸遜が傘を閉じて水気をとっている間に私が暗証番号を入力して扉を開けた。えーと、会話会話。

「今日、陸遜ママはお仕事で帰り遅いんでしょ?」
「ええ、そうですけど」
「だから今日は私が陸遜の夕飯作るよ。どう?嬉しい?」
「あなた料理作れましたっけ?」
「わぁお失礼しちゃうな。人並みにはできるもん。鍋なら絶対失敗しないし」
「あぁ、鍋ですか。たまにはいいですね」
「陸遜好きだと思ってキムチ鍋の素買ってきたよ。辛いの好きだよね?」
「えぇ、好きです。お気遣いありがとうございます」
「あらぁちゃんとお礼言えましたねぇ〜偉い偉い」
「エレベーターに挟まって死んで下さい」
「ちょ、本当に閉めんなよ危ねぇ!」

ハリウッド映画のように全力で扉が閉まるのを阻止した私を陸遜が肩を震わせて笑っていた。こいつ、絶対許さない。

「そういえば、私のバイト先の先輩から頂いたケーキがあるんです。食後にでも食べましょう」
「マジで!やった!でもいいの?」
「ええ、料理をご馳走になるお礼です」
「そう?気にしなくていいのに。じゃあお言葉に甘えて食べようかな。美味しいご飯作るから期待していいよ」
「鍋で失敗したらびっくりですよ、逆に」
「 ( かわいくねぇ! ) 」


▽ ▽ ▽


グツグツと湯気が立つ鍋を前にして食欲を抑えられるわけもなく、涎が垂れそうになりながら私は今か今かと出来上がりを待つ。あれだけ私が作ると宣言しておきながら結局八割は陸遜が作った。私は豆腐を切って、春雨の袋を開けて、あとはお皿並べただけ。最終的に陸遜のご飯が食卓に並ぶのは毎度のことでもはやパターン化しているため、陸遜ももはや何も言わない。ガスコンロの火を弱めて「もういいですよ」という陸遜の合図で具材に箸を伸ばした。

「なまえ、春雨ばっか取らないで野菜も取ってください」
「えぇ〜食べてるよぉ…陸遜こそもっとお肉食べな!これ以上細くなったら試合で勝てないぞ」
「そうですね、あなたにこれ以上太られても困るので肉は私が食べます」
「…いちいち一言多いっつの」
「凌統殿のモノマネのつもりでしょうけど似てませんよ」
「え〜嘘ぉ。このモノマネ結構ウケてたよ」
「どうせ甘寧殿辺りでしょう」
「あと尚香ちゃんも。あ、尚香ちゃん元気?」
「えぇ、元気ですよ。彼女、この間結婚しましたよ」
「はい!?!?」
「だいぶ歳の離れた方と。家の都合だそうですけど、本人は満更でもなさそうでした。それどころか毎日惚気話してますよ」
「へ、へぇ〜…マジか…年下に先越されるなんて…」
「学生結婚なんて珍しいですよ。そんなに焦ることないです」
「いやぁ、確かにそうだけどさ…。あ、陸遜おたま取って」
「どうぞ」
「ありがと。いや〜でもあの尚香ちゃんがねぇ…私も結婚のこと考えないとなぁ」
「あなた昔からモテないじゃないですか。無理ですね」
「否定できない…。陸遜が昔からモテ過ぎなんだよ」
「そんなことありませんよ。あ、一昨日告白されました」
「否定する気ないなお前。よかったじゃん、付き合うの?」
「まさか」
「あ、そう。何で?」
「興味なかったからです」
「ひでぇ!可愛い顔してなんて残酷なこと言うの!」
「当然でしょう。興味のない人と付き合うくらいならその時間を娯楽に費やします」
「まあ…確かにそう、だけど。でも陸遜ももう高校二年生なんだよ?彼女作りなよ」
「は?」
「 ( は…?) え、私何か変なこと言った?」
「えぇ、言いましたね」
「えぇ〜…」
「逆に聞きますけど、あなたは彼氏を作るつもりなですか?」
「え、うん」
「は?」
「 ( 怖ぇえー! ) え、だってそりゃ欲しいよ!結婚したいもん!」
「結婚願望は構いませんけど、どうせ相手がいないでしょう」
「ところがどっこい、ついに私にも春が到来したんだ!」
「…え?」
「うふふ、バイト先の先輩がね、デートに誘ってくれたの!」
「ふざけないでください」
「えぇ〜!?」
「誰の許可を得て決めたんですか」
「きょ、許可?そんなの必要ないじゃんよ。恋愛なんて個人の自由でしょ?」
「一度デートに誘われたくらいで何ですか調子に乗って。告白されたことないくせに」
「酷い言われよう!だからこそ嬉しいんじゃんよ!もしかしたら初めての彼氏になるかもしれないし!」
「はぁ?彼氏?」
「陸遜顔怖い。何で幼馴染の恋を応援してくれないのこの子…結婚願望は良い事ですとか言ってたくせに」
「良い事とは言ってません。構わないと言ったんです」
「何で陸遜に恋愛に関してとやかく言われないといけないのさ」
「あなた本っ当に鈍いですね。ムカつきます。あーイライラする」
「理不尽過ぎて言葉にできない」
「あなたはこの先、男と出会う必要はありません」
「何で!?一生独身でいろと!?」
「独身になんてさせませんよ」
「陸遜は頭が良いから気付いてると思うけど矛盾してるよ」
「なまえは本当に馬鹿ですね。昔も今もこれからも、あなたの隣には私がいればいいと言っているんです」
「何だそれ。別に結婚しても今までみたいな関係でいればいいじゃん。陸遜だって好きな子と結婚したいでしょ?」
「えぇ、もちろん」
「まさか私にだけ結婚するなって言うの?」
「結婚するなとは言ってません」
「もう訳わかんないよこの子」
「馬鹿ななまえのためにわかりやすく教えてあげますよ。なまえは私と結婚すればいい。それだけの話です」
「え」
「なまえ、肉が固くなってます。あと春雨が伸びてるからとってください」
「え、あ、うん」

投下された爆弾の処理があまりにも早すぎて反応できなかった。何事もなかったかのように食事を再開する陸遜とは対照的に私の箸は完全に停止した。陸遜流のジョーク、なのか?いや、普段から皮肉しか言わない陸遜がこんな告白紛いなジョークを言うわけがない。だとしたら真面目に言ったのか。本気なのだろうか。なんとか気まずい雰囲気にならないように盛り付けられた具材を箸でつまんだり水を飲んだりするけど、言葉の処理が思ったよりも遅くてなかなか整理できない。

「なまえ、最後はうどんどいいですか?」
「うん、大丈夫」
「ご飯がありますから雑炊にもできますよ」
「あ、チーズ入れてチーズリゾットにしたい」
「太りそうですし、却下」
「マジかよ」
「ま、たまにはいいですけど。仕方ないから採用で」
「マジかよ」

陸遜があまりにも普通過ぎる。ここは流せばいいのか?いつも通りでいいのか?このままご飯を食べ終えて、ケーキ食べて、お皿洗って、お片づけしてバイバイでいいのか?

「なまえ」

陸遜が私に依存しているのはもちろん知ってた。ずっと前から、それは明らかに態度に出ていて非常にわかりやすかったから。でもそれが恋愛要素を含んでいたとなると、それは私にとって想定外なことになる。好かれている自覚はあっても、私に対する想いは陸遜が母親を想うそれと同類だと思っていたから。

「なまえ、聞いてますか?」
「あ、ごめん。何?」
「リゾットが出来たから器をくださいと言ったんです」
「もうできたの?うわめっちゃ美味しそう!」
「少し作りすぎてしまいましたね。母の分を残しておいて良いですか?」
「もちろん!」
「助かります」

もしかしたら。母親と二人暮らしで一人だけの夜もある陸遜にとって、私は掛け替えのない存在なのかもしれない。過大評価しているかもしれないけど、もしも私に彼氏ができて、陸遜そっちのけになってしまったら。私が陸遜から離れたら陸遜はきっと悲しむ。とても悲しむ。反対に、もしも陸遜に彼女ができて、これまでみたいにお互いの家に行き来しにくくなって、一緒に過ごす時間が少なくなったら。私は悲しい。陸遜から離れたことを泣いて後悔するかもしれない。昔は私の後ろを付いて歩いていた陸遜が今は私の隣にいて、でもいつかは私の前を歩くようになって、そしてついに姿が見えなくなるなんて、考えたこともなかった。陸遜が常に側にいることが当たり前だと思っていたけど、決して当たり前ではない。陸遜だっていつかは。

「なまえ…?」

陸遜の袖を弱い力で握る。不安になった。当たり前の生活を奪われる想像をしたら、怖くなって。急に静かになった私を陸遜が不思議そうに見つめる。

「どうしました?お腹が痛いんですか?」
「ううん、お腹は痛くない」
「どうしたんです?あなたらしくない」
「陸遜、」
「はい」
「デート、やめる」
「はい?」
「バイト先の先輩とのデートやめる。断る」
「はあ、そうですか。まあ断らなかったとしても行かせませんでしたけどね」
「うん、陸遜と遊ぶ」
「遊びませんよ。幼稚な」
「じゃあ一緒にいる」
「…そうですか」
「うん、」

私の目から涙が一滴ポロリと落下した。陸遜が眉を下げて優しく笑う。

「だから言ったでしょう。あなたの隣には私がいればいいと」
「偉そう」
「泣いてる人に強気な態度を取られても痛くも痒くもないです」
「もう泣いてないし」
「そうですか」

子供をあやすように頭を撫でられて、どっちが歳上かわからなくなった。頭を撫でてあやすのは私の役目だったんだけどなぁ。自分が誰よりも陸遜がいないと駄目な人間になっていたなんて。依存していたのは、私の方か。

「困った人ですね」

私の両頬に手を添えて無理矢理目を合わせてくる陸遜は、聞いたこともないくらい優しい声、優しい目をしていた。目尻に溜まった涙を陸遜が親指で拭う。

「知ってると思いますけど、私は嫉妬深いですからね。束縛しますよ」
「束縛は、嫌だなぁ…」
「そうでもしないとあなたはどこかに行ってしまいそうですから」
「どこにも行かないよ」
「さぁ、どうでしょう」
「…陸遜って本当に私のこと好きだね」
「ええ、愛してますよ」
「うぁっ」
「何ですかその間抜けな顔は」
「だって…陸遜がデレたから…昔はすごく嫌そうな顔してたのに」
「愚問だからですよ。私があなたを愛していないわけがないでしょう」
「そ、その愛してるって言うの、やめて…すごく照れる。恥ずかしい」
「何を今更」
「初めて言われたもん」
「言葉にしたのは確かに今日が初めてでしたね。記念にキスでもしておきましょうか」
「え!?」
「冗談ですよ」
「もうやだ陸遜嫌い」
「…やっぱりキスします」
「え!ちょ、待って心の準備が」

や、どうしよう!陸遜の声音から本気だと悟った私は反射的に口元を手の甲で隠すと、予想外なことに熱が宿ったのは私の額にだった。え。

「誰も唇にキスをするとは言っていませんよ」
「……」
「何睨んでるんですか?早とちりしたのはあなたですよ」
「ムッキィイイ!!」
「さぁ、ケーキを食べましょうか」

目を三角にする私を他所に、余裕な表情を浮かべて陸遜は立ち上がる。完全に遊ばれてるよ、私。年上の威厳のかけらも感じられない自分の情けなさに文字通り頭を抱えた。でも、よくよく考えてみたらそれは今に始まったことではない。昔から、そして今も、さらにこれからも私は陸遜に敵わないだろう。憎たらしく思う反面、それでも良いや、と笑って流せるのはやっぱり私が陸遜のことが好きだからなのだろうか。でもやられっぱなしなのは悔しいから、やられたらやり返してやる。手始めに私からキスをしてやろう。もちろんあの生意気な唇に。




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