ひまつぶし散歩とはじめましての練習-(2)

 灰吹さん本人が了承した為、結局二人にエントーレの案内をお願いすることになった。非常に心苦しかったが、どういう事情であれせっかくオーケーを出してくれたのだから、その気持ちを無碍にすることは出来まい。直接頼んだわけじゃないけど。というより、たかがマンションの敷地内を見てまわるのに、別に案内等必要ないと思うのだが、他人の善意は素直に受け取っておくべきだ。
 建物自体がゆるやかに弧を描く、真っ白な外観。ところどころに茶系統の煉瓦が埋め込まれており、焦げ茶色の柱が全体を支えている、洒落ているな、と感じたポイントは、こげ茶の柱が樹を模しており、木目が彫られたデザインとなっていることだ。植物との調和がテーマとなっているのか、ところどころに青々とした蔓が、申し訳程度ではあるが壁面を伝ったりしている。
マンションの正面に平面駐車場が広く並んでおり、数台の車が駐車している。その奥側に、背の低い、平な建物があった。
「あの、あれは?」
「あれは集会所ね。このマンションには自治会があって、当番になると定期的にあそこに集まって会議をするのよ」
 自治会……。そういえば、太田さんからもらった書類に記載があった気がする。いつまでここにいるか分からないが、まだ当分は関係の無い話だろうということで流し見してしまったのではないだろうか。
「灰吹さんは自治会の役をやっているのよね」
 吉田さんの隣を歩いていた灰吹さんは、大きく肩を震わせたあと小さく頷いた。自治会、つまり多人数コミュニティでうまくやれているのだろうか、と余計な心配が脳裏を掠める。聞くところによると、自治会はいろんな催しの企画も行っていて、灰吹さんは雑務を主に処理しているらしい。
「去年の夏に開いた学習会の飾りつけ、確か灰吹さんがしてくれたのよね」
 吉田さんの言葉を受け、灰吹さんはいっそう身を縮ませる。俯いたときに髪が前へと流れ、耳の後ろ側が少しだけ顔を出した。ほんのり赤い。
「飾りつけとかやべぇっすね。俺センスねぇからだめだな」
「すごい可愛かったのよ。確か写真があったはず……」
 ポケットから取り出したスマートフォンを操作し、アルバムを開いて見せてくる。
 「わくわく! 夏のお勉強会」という題字が書かれている大きめのホワイトボードと、多人数用の大きいテーブルだけがあるシンプルな部屋。隅のほうに一つだけ茶色の棚があって、資料のようなものが並んでいる。それだけであれば殺風景と言うか、静かな部屋でしかないが、色とりどりの紙やビニールテープで飾り付けられており、視覚的に程よく賑やかだ。
 藍色と水色と、紫の三色の紙を使って作成された輪飾りが幾重にも繋げられ、ところどころに水色のリボンが花の形を成して添えられている。また、黄色やピンク、赤色などの色紙が星の形に切り取られ壁や輪飾りに張られていたり、天井からつるされていたりした。賑やかだが、どこか統一感があって、ごちゃごちゃしすぎていない。
「すげえ。星がテーマなんすか?」
「特にお勉強会の飾り付けでテーマは決めてなかったと思うけど……星というか、天体って感じね」
 灰吹さんの方に視線を向けると、相変わらず俯いている。疑問系にしてはいないけど、吉田さんの言葉は灰吹さんに向けられているものだ。俺たちは、こうしてごく当たり前のように、形のない記号を使って会話をするけれど、見たところ会話が苦手そうな灰吹さんに、きちんと拾ってもらえるのだろうか。
 といった考えは全て杞憂のようで、灰吹さんはか細いながらも声を絞り出して答える。
「ちょうど、七月のはじめだったので……、その……七夕を…………」
 それを聞いて、俺たちはなるほど、と納得した。
 七夕と言えば彦星と織姫とか、笹の葉に短冊と、他にもいろいろありそうなものだが、そこまで直接的なもので飾ることをしない、というのも逆にいいかもしれない。などと考えていると、小さく「それに、」と声が聞こえた。
「星が……、好きだから…………」
 灰吹さんの視線は相変わらず下がっているけれど、その言葉を呟いたとき、心なしか顔が上がったような気がした。髪の毛がさらりと流れ、カーテンのように彼女の横顔を隠してしまっているが、そこ声色からなんとなく、今彼女は少し微笑んでいるような、あるいは穏やかな表情をしているのではないか、などと感じた。
 はた、と視線を感じてそちらへと目をやる。いつの間にやら吉田さんの視線が俺の方に向いていて、視線がかち合うと彼女はね、と合意を得るような微笑を見せた。

 なんとなく、吉田さんが今、こういう状況を作った理由が、分かったような気がした。
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