Dimension leaper | ナノ


▼ 1

 投げ捨てた五感のうち、まず最初に戻ってくるのは聴覚ではないかと思われる。帰還したその感覚が、僅かでも外部の音を吸い込み始めると、初めて脳がそれを聞いていると認識し、続いて闇ばかりであった閉じた視界が、仄かに光を感じ始める。ゆっくりと、奥深くまで沈んでいた意識が浮上。仮にそれをオーブに似た形状であると仮定するなら、浮上に伴い意識は肉体と同形に変わっていき、肉体と意識とが完全に合わさったところで、ようやく「私」が覚醒するのだ。
「ん……」
 リープ後の目覚めは、いつも頭がひどく痛む。その痛みは、ずきりと走るようなものではなく、ごうんごうんと鈍く響くようなものだ。この感覚にも、いつの間にか慣れてしまった。
 ぐっと力を入れて上体を起こす。辺りはひどく静かであった。いや、風が吹きわたる音なら、先ほどから休まず聞こえている。だが、屋外にいるというわけではないらしい。そう言えば身体を起こすときに退けたものは布団なのではないか。ということは私は、誰かに保護されている?
 周囲を警戒しつつ、ゆっくりと目を開ける。やはり、屋内である。私はシングルサイズの白いベッドの上にいて、この部屋には他に、デスクとクローゼット、それから大きな本棚が二つ、それしかない。家具はどれもシンプルなもので、色みも特に遊び心は見えず、家主の性別を予想することはできなかった。
 とにもかくにも、ここから出ねばなるまい。家主を探さねばならないし、ここが、この世界がどういうところかを探らねばならない。
 部屋を出、すぐ右側に見える階段をおりていく。すると、労せずして家主であろう女性の姿をとらえた。家主は料理中のようで、私に背を向けてキッチンにたっている。包丁が、まな板の上で軽快に音を立てていた。
「よく眠れた?」
 こちらを見ずに、家主が訊ねてくる。一瞬身構えてしまったが、どういう経緯があったにせよ、彼女は私を介抱してくれた。それは疑いようのない事実なのだから、私は答えねばならない。
「はい。ありがとうございました」
「もうすぐ朝ごはんが出来るわ。そこに座って待っていて」
 言われた通り食卓につくと、程なくして家主が料理を並べてくれた。と言ってもふわふわのスクランブルエッグとソーセージ、それからスープにパンという、いわば軽食である。そんなことより、目の前に並べられたそれが、全て私の有する知識で説明できることに驚いた。匂いからも、見目が同じだけの別物、というわけではないらしいことがわかる。
 だが、問題は味だ。こればかりは、料理人の腕も関係するわけだが。
「…………」
「お味はいかが?」
 少なくとも、食事の時間は安心していいらしい。





「まずは自己紹介をしなくちゃいけないわね。私はメアリ・ウィルシア。メアリでいいわ」
 メアリはこの家で独り暮らしをしている。だから、少なくとも今だけは、そこかしこを警戒する必要はないと微笑まれた。彼女が微笑むと、頬に深いえくぼが刻まれる。その可愛らしい特徴が、彼女を実年齢より幼く見せた。可愛い大人。それが、彼女を見ていて一番ぴったりだと思う、彼女に対しての表現だ。
「いざとなるとなにを話したらいいかわからないわね」
「かまわない。名前を知れただけで充分」
「そう。じゃあ、次はあなたの番ね」
 自分の素性を隠し立てる理由もない。何故なら、やがては塗り替えられてしまうから。だけど、そうは解っていても、ここでなら、今度こそは、という思いを、私はどこかに抱いている。だから、こうして毎回のように行われる自己紹介という一場面において、私はいつも、僅かばかり緊張してしまう。
「私は、ノウ。本名じゃないけれど、本名は忘れてしまったから、いつかどこかで誰かに与えられたこの呼び名を使い続けてる」
 この時点で、メアリの顔色に変化が窺えた。けれどそれは驚きというよりは、あたってほしくなかった推測が的中した、とでもいうような。
 よくもまあここまでわかるなと、自分でも思う。それだけたくさんの人間を見てきたという、残酷な現実の産物だ。
「私は、別の次元からリープしてきた。つまり、この世界の人間じゃない」
「そう、やっぱりね」
 メアリは悲しげに笑みを浮かべ、ぽつりと呟いた。
「あなたは、予め知っていたの?」
「いいえ。ただ、あなたがこの世界の人間じゃないと、疑いを持てるに充分な理由があったの」
 淡い水色の袖口を肘まで捲りあげ、メアリは自身の右腕をずいと差し出した。華奢な腕だ。
「触ってみて」
 言われたとおり、メアリの腕に触れる。人肌とは思えないほどひんやりとしており、なんとも形容しがたい、強いてあげるならすべすべとぬるぬるの中間、というような触り心地であった。思うに、膜か何かが皮膚表面にぴったりと張り付き、覆っているのではないだろうか。
「あなたの腕とはまるで違うでしょう? もちろん腕だけじゃないわ。私たちは全身をこれで覆われている。これはね、青皮(そうひ)と言うの」
 メアリは袖口を戻しながらそう言った。一応自分の腕に触れてみたが、先ほどのような感じは全くない。
「この街の……いえ、この世界の生き物はみんな、青皮を纏って産まれてくるのよ。それがなぜかは追々説明するけど、とにかくあなたにはそれが無かった。だからもしかしてって思ったの。装いも見たことのないものだったし」
 青皮、と私は小さく呟いた。それが、この世界について最初に得た情報。そして恐らく、目安の一つとなるだろう。もう間もなく、私の身体にも青皮が構築され始める。その構築が終わる前に、私は見つけねばならない。
「メアリ。あなたに、お願いしたいことがある」
「なにかしら」
「私は、元の世界に繋がる出口を探してる。そのためには、協力者が必要なの。お願い、あなたの力を貸してほしい」
 メアリはきっと、すごく優しい人なのだろう。急すぎるお願いであるにも関わらず、彼女はややおいたのち、「私に出来ることなら」と微笑んでくれたから。
 協力者。それは文字通り、その世界において私に力を貸してくれる人物のこと。どの世界でも、必ず誰かが協力者になってくれた。多分、それも一つのルール、私に与えられたツールの一つなのだろう。そしてこの協力者は、同時に目安でもある。先ほどの青皮と同じく、彼女が。
 彼女が「私」を「思い出して」しまったら、ゲームオーバーだ。



131029

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