雑文倉庫 | ナノ

二十三時五十八分

 雪原露消は十六年にわたる人生の中で、五本の指に入るほど緊張していた。
 白軍に属するとある学校の剣道場で少年は固唾を呑む。天窓から差しこむ月明かりのおかげで、照明をつけなくても十分に明るかった。良好な視界に映るのは、敷きつめられた畳とつやめく床、それに武具を壁に立てかけている少女だ。
「よっし、終わり! つゆきち、つきあってくれてありがとうね」
「あっ、いやそんな、おれ暇だったから!」
 雑巾を片手に棒立ちになっていた露消は慌てて手を振る。長身の彼より頭ひとつ以上背が低い少女は、大きな目を細くして笑った。
「でも手伝ってくれて助かったから」
 どきりと露消の心臓が高鳴る。
 具体的にどこがと問われればもはや言葉にできないのだが、少年は数ヶ月前から彼女、八ヶ瀬タチビに恋愛感情を抱いている。しかし、同じ部隊に所属しており、友人関係も被っているため接触する機会は多いにも関わらず、なかなか想いを告げられずにいた。
 親しい先輩や友人たちからは「勢いに任せて告白しても大丈夫だ」と、太鼓判をされているものの、露消にしてみればその根拠が不明であるため、なかなか踏み出せない。だが、いつまでもあふれんばかりの感情を押さえつけられるとも思えなかった。
「じゃ、戻ろっか。そろそろ門限だし」
「あのさ、タチビちゃん!」
「うん?」
 下駄箱に向かいかけていたタチビが振り返る。ひらりとスカートが翻り、華奢な首が左に傾いた。色素の薄い髪が空気をはらんで踊り、肩に落ちる。柔らかそうな白い顔には、かすかな笑みが刻まれていた。
「どうしたの? つゆきち」
 淡い色あいのふっくらした唇が動き、愛らしい声音が露消の愛称をつむぐ。タチビにつけられたその名を呼ばれるだけで、恋する少年は天にも昇る思いだった。
「あ、いや、えっと」
 二人きりの夜。好機だと判断して声をかけたのはいいものの、言葉は喉の奥で絡んでうまく吐き出せない。すでに桜が開き始めているとはいえ、まだ太陽が落ちれば肌寒いというのに、露消は背に嫌な汗をかいていた。
 好きだと、ずっと好きだったと、つきあってくださいと。そう言えばよいだけなのに。
「その、なんていうか」
「あ!」
 活発そうな目をいっそう大きく見開き、タチビは露消の頭の上を凝視した。びくりと身をすくませた少年も、緩慢な動きで顔をあげ、目を見開く。
 天窓から満天の星空が見えた。
 窓枠の端に引っかかっている月の光にかき消されることなく、黒い布に散らされた無数の宝石の欠片のように星がきらめいている。露消は口を半分開き、呆然と四角い空に見とれた。
「綺麗だね」
「……うん」
 タチビの感嘆にぼんやりした返事をする露消の中で、徐々に熱が膨れていく。身を焦がすほどに切なく、苦しいほどに美しいそれは、少年の心をじわりと苛んだ。
「あたし、こんな星空見たの、初めてかも」
「おれも初めて」
 目が離せなくなるような空も、人を心底から好きになったのも。
「あのさ、タチビちゃん」
「うん?」
 まばたきをひとつし、露消は夜空から少女に視線を移す。この瞬間のために何度シミュレーションを重ねたことだろうと、頭の隅で考えた。場所も時間も、タイミングも。言葉は何百通りも用意していたが、なにもかも思い出せない。
「ずっと好きだったんだ。おれと恋人になってほしいって、ずっと思ってた」
 少女の目が限界まで見張られ、髪と同色の瞳が揺らぐ。頬は花が咲くように真っ赤に染まり、体側に垂らされた指先が小さく震えた。
 数拍遅れ、露消は自分がなにを言ったのか自覚する。同時に体中から汗が噴出した。
「なっ、おれ、あの!」
「エイプリルフールだよね!」
「お、おうッ?」
 タチビが勢いよく壁にかかった時計を示した。首が千切れる勢いでそちらを見た露消はがくがくと頭を上下に振る。時計は零時三分を示していた。
 今日は四月一日。嘘をついても許される日、つまりエイプリルフールだ。
「もう、つゆきちったら早々に嘘つくんだもん、びっくりだよ! じゃ、あたし先に戻ってるね!」
「わ、分かった! 気をつけて!」
「つゆきちもね。また明日!」
 不自然な大声で挨拶を交わし、タチビは素早い身のこなしで剣道場から出て行く。彼女が見えなくなるまで立ちつくしていた露消は、深く息を吐いて座りこんだ。
「あの時計、五分早いんだっての」
 現在時刻は、正確には二十三時五十八分。日付も三月三十一日だ。
「明日どんな顔して会えばいいんだろう……」
 勢いだけの行動を悔い、少年は顔を覆う。どれほど悶えても、答えは出てこなかった。


 剣道場へ向かおうとしていた音谷佑人は全速力で走ってきた少女に体あたりされ、転びそうになる。どうにか踏みとどまり、とっさに反動で倒れかけていた彼女を支えた。
「っと、八ヶ瀬? あれ、つゆは?」
「剣道場! 支えてくれてありがとう、じゃ!」
 目もあわせずにタチビは足早に去っていく。残された音谷は小首を傾け、なんだったんだ、と呟いた。
「顔真っ赤だったぞ。大丈夫かあいつ」
 さては露消となにかあったのか。
 友人の恋愛事情を知る佑人は、今ごろ剣道場で死にかけているだろう同級生を脳裏に描き、小さく苦笑する。
「お前ら両思いなんだって、いい加減気づけよ」
 悠然と歩みを再開した少年の頭上で、きらりと星が流れた。


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