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言葉

 今朝の味噌汁、あれは一体如何した。塩辛くて、迚も食へたものぢゃあなかつたぞ。さふ云へば、先日良い味噌を戴いたなどと仰つていたけれども、お前、また何かかまされたのではないか。お前は、さふ云う処があるから、僕の憂いはいつまで経つても尽きぬのですよ。お理解りいただけたかな?
 アヽ、ホラホラ。敷物を干す時はちやんと、洗濯挟を使いなさいと、云つたぢやあないか。見て御覧、端の方に掛けていたものが一枚、ハラリと落ちてしまつているよ。せつかく真白になつたのに、また洗い直さないといけなくなる。これは手間と云ふのだよ。お前、何時になつたら覚えるのです?
 おや、怪我をしたのかい。どれ、見せて御覧。はあはあ、成程。縫物をしている時に、針でチクンと刺してしまつたのだね。ははは、これくらいでお前、死ぬわけがないだらう。石田屋の軟膏が戸棚の奥にあつたはずだから、それを使うといい。こんな些細な傷、忽ち治るでせう。そう頓狂な顔をしないでおくれよ。この程度で、一々狼狽していてはいけない。
 度々口にするから、君の耳にはもしかすると小さなたこがいくつも出来ているかもしれないが、それでもやはり、お前は世間と云ふものに対して無知すぎるナアと思ふのです。蝶よ花よと育てられてきたからね。仕方あるまい、とは思えど、お前もお前で、今の今まで見ようとすらしなかつたろう。それは如何なものかと思ふ。迚も手前勝手な言葉だとは理解つているのだけれども。
 さうしてソッポを向かないでおくれ。別にお前を苛めたい訳ぢやあないのだから。ホラ、こちらを向いて。
 そもそもお前と僕は犬と猿だつたぢやあないか。今更だとは思わないかい? 僕は今でも時折、何故僕はお前とこうして衣食住を供にしてゐるのかと疑問に思ふことがあるのだ。憶えているかい? ホラ、僕がお前の履物に悪戯をして、お前を啼かせてしまつたこと。アハハ、今思い出したのか。云わなければよかつた。
 お前は、白い頬を鬼灯のやうにプックリ膨らませて、目尻には泪を溜めてゐたね。今でもありありと浮かぶよ。あれはとても愉快であつた。なんてね。当時の僕には君の涙が意味する処を、推して識ることなど出来なかつた。恐らく今もだらう。僕はさふ云ふことが、とんと苦手なのだつた。悪いことをしたね、と思ふけれども、今更であるし、あまり反省はしていない。なら何故謝つたのか、とでも言いたげだね。識らないでいゝよ。くだらないことだから。
 ホラホラ、そんなくだらないことを気にしてゐるから、帯が解けてきてしまつている。どれ、直してやらうか。ナアニ、此処でなにか仕込んだとて、僕には何の利もないのだから、そんなことはしないよ。心配しないでいゝ。そら、背を向けて。
 お前は、綺麗なお嬢さんなのだから、せつかくのその見目を、無駄にするやうな生き方をしてはいけないよ。さうだね、喩へば、綺麗な召し物を汚して、泥水を啜るやうな生き方はしてはいけない。それは、お前にとつても良いことではないし、お前を識る全ての人々が胸を傷めることだらう。誠実に、全うでありなさい。僕に対して? あゝ、さうだね。恐らく僕が一番、胸を傷めることとなるだらう。何故なら、僕なのだから。
おや、何を震えているのかい。ハハア、さてはお前、僕が悲しむ、なぞと柄にでもないことを聞いたから、つい想像してしまつたのだね。よしてお呉れよ。僕だつて、らしくないなと思いながら云つたのだから。
 そうら、出来た。我ながら完璧ぢゃあないだらうか。たかが帯ごときと笑つているけれど、いゝだらう、別に。誰もこういつたことを云つてはくれないのだから、自分で云ふくらい。
 おや、見て御覧。月がポッカリ、浮かんでゐるよ。ぼんやり、水面に浮かんでいるやうだ。さふ云へば、よく子供たちが、月を掴むのだ、などと意気込んで、空に手を伸ばしている姿を見かけるよ。昔は僕も、あれくらい無邪気で可愛かつたのだらうね。ハハハ、僕だけぢやあない。お前も、きつとさふだつたのだらう。皆、やがて大人になつてゐくのだ。思へばそれはアツと云ふ間のことであつた。ねえ、空き地で棒きれを振り回し、ヤアヤアとはしゃいでいたのも、今となつては昔のこと。
 随分と、はやかつたね。此処までくるのに。だけれども、お前はまだ、もう少し待ちなさい。不貞腐れないでお呉れ。あちらは、さふ面白くないよ。もう少し、まつたりしてから、来るといゝ。その時は、さふだね。タップリ話を聞くとしようか。
 だからね、お前。さっさといい人を見つけなさい。誰に遠慮していると云ふのだ。もしかして僕? ハハハ、よして呉れ。もうお前の傍にゐるのはコリゴリだ。云つただらう?
 僕はね、さふだな、宛ら花だよ。桜。桜がいいかな。一度きりの春、その瞬きの中でのみ、お前とともにゐる。時期が来れば花弁と散るらむ。地面にハラリと落ちて、やがて土に帰し、お前のあなうらでザリリと削られる。それでいゝのだ。その隣に、お前が最も心許す男が寄り添つているといゝ。お前はその男の顔をちらりと見ては、同じやうにお前を見ていた男と目が合い、まるで恋を憶えたての少女のやうに、白い肌を朱く染めるだらう。それでいゝ。僕のゐないあと、お前はそのやうに過ごしているとゝ。
さて、時間だ。では僕は逝くこととしませう。 あゝ、ほら、そのやうにいきなり立ち上がるとせつかく直した帯がまたグシャグシャになつてしまう。お前は、いつも毅然としてゐなさい。せつかくさふして、美しく産んでもらえたのだ。無駄にしてはいけない。

 では、最期に。
 今宵は月が、大層綺麗だ。



130708

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