雑文倉庫 | ナノ

諸手の行方

(少年は、少年のようで少年でなく、青年であった。だが、そのことはそれほど重要ではないのである。彼の名前でさえ、知らなくてもさして困りはしないのだが、他でもない彼のために明記しておくと、彼は長谷川誠といった。誠実の、誠。だが、誠実さなど彼には存在せず、かと言って狡猾さも持ちえない。誠は平凡な男であった。しかし、唯一普通とは異なっていることがあった。誠は、生来盲人であったのだ。)

 まるで、棒になってしまったかのようだ。僕の足。立っているという認識しかない。その認識と言うのも、多分だとか、恐らくだとか、そういう言葉でぼかさねばならない。断言するには、僕がこういう状態に入ってから、時間が経過しすぎていた。
 時間。経過しているのは分かる。何故なら、時が静止することはありえないからだ。しかし、どれほど経過したか、ということは分からない。そもそも、今は何時何分なのだろう。僕は一体、何時何分からこうしているのだろう。始めが分からなければ、途中経過も把握出来なくて当然である。
 先ほどから聞こえるのは、びょおびょおという大きな風の音ばかり。それから、何かが僕の身体に当たる感覚。時間が埋没した僕の暗闇の中で、それだけがせわしない。その、何かが落ちる感覚、というのは存外曖昧なもので、質量すら感じず、触れるか触れないか程度の微妙な感覚が、不規則に訪れる。これは何なのだろう。形状は多分、粒のようなものだと思う。そう大きくはないだろう。そして、時折顔などの露わになった皮膚で受けた時に感じる、弱弱しい冷たさ。そう言えば、ここはひどく寒い。長袖長ズボンという出で立ちで、さらにマフラーも巻いてきて良かったと心底思う。けれど、僕はどうしてこういう格好をしているのだろう。
 どうして、いつから──何のために。
 不意に、途絶えることのない風の音の中、別の音が混じって聞こえた。こんなにも騒がしい風の音の中で、それは、普通なら聞き取れないかもしれない。が、僕の耳はきちんと拾った。音。さくさく、ではない。ざくざく、と少し似ている。しかし、それほどはっきりとしたものではなくて、曖昧、というよりは躊躇いが窺える。かつ慎重なそれは、次第に僕に近づいてきている。僕は、久方ぶりに全身へ信号を送った。それは緊張と、少々の恐怖。僕は無意識的、と見せかけて意識的に呼吸をする。
 音は、僕のすぐ近くで止まった。そこで僕は、それが人であるということを、ようやく確信する。彼もしくは彼女は、僕の左側にいる。左隣が、ほんのりあたたかい。
 それきり、だった。彼もしくは彼女は、そうするだけで、以降何も動きを見せない、もとい感じさせない。暗闇の中で、左隣にぼんやりある人型の温もり。
 声を、かけてみようか。
 いや、やめておこう。そもそも、何故僕が声をかけなければならないのだ。彼もしくは彼女から僕のところにやってきたのだ。というか、彼もしくは彼女が、仮に僕に何かしらの用があって来たというのであれば、来てすぐ声をかけてくるだろう。そうしてこないのは、僕に用など無いから、ではないのか。つまり、この場所、に用があっただけの他人。だというのに、何故僕はこんなにも傍らの他人を気にしているのか。多分それは、僕自身がここにいる理由を思い出せないでいるからだろう。
 アア、相変わらず、風の音がうるさい。
 正体不明の存在を感じながら、僕は多分立っている。少なくとも座ってはいない。風の中で、野晒しになっている。野晒しの僕。そしてそれはきっと、恐らく、隣の誰かも同じ。
 人は、見知らぬ他人であっても一つ共通点があればそれをきっかけに交流出来るし、そうしなくとも、仲間意識が少なからず生まれるものらしい。これは偉人の言葉でもなければ、どこかの教授が言っていた、というものではないけれども、信憑性は高いと思っていた。生憎と、僕がそのような意識を抱いたことはなかったけれど。何故なら、僕は他とはあまりに大きく異なっていたからだ。この違いに比べれば、例えば好きな食べ物が同じだとか、好きな歌手が同じ、などという共通点など極微細なものでしかない。とあるお菓子を食べて、同じように甘いと感じても、僕にはそのお菓子の可愛らしさは分からないし、好きな歌手の曲を聴いても、僕には、この曲を演奏し、歌う彼らの姿に感動することはできない。つまり、そういうわけなので、僕はこの言葉の信憑性について、本当は何も分からないはずなのであるが、そこは僕以外の、例えば家族の反応などを聞いていると、そうなのかもしれない、と思ってしまうのだ。だが、今この瞬間を持って、僕は奇妙な正当性を体感した。
 彼もしくは彼女が何者だとか、僕にはない、何か明確な目的を持っているのだとか、そういうことは一切関係なく、ただ、ここに立ちつくしている、という一点に置いて、僕らは同じなのである。そのことは僕に、少なからず仲間意識を芽生えさせた。仲間。そう、得体のしれない存在であったけれど、その点においてのみ、僕らは仲間であったのだ。

「寒いですね」
 びょおびょおとうるさい風の音に紛れて、しかしそれはとてもクリアに、僕の耳へと届いた。実に、突然のことであった。僕はそれが、始めは何の音か分からず、気のせいかと思ってしまった。当然だろう。その音を素直に拾うには、体感時間が経過しすぎていた。
「寒いですね。ここは、とても」
 届いていないとでも思ったのだろうか。音は、再び繰り返された。そしてそれは、明らかに僕に向けられている。音は、非常に女性らしいものであった。よって、先ほどから隣にいた誰かが女性であることを知った。僕は、とにかく何か答えねばならぬと焦燥に駆られている。しかし、久しく音を発しなかった唇はすっかり凍てつき、上手く動こうとしない。それでも、なおも僕は音を、声を発しようとする。沈黙が僕を急くのである。そうして、かろうじて出た音は、非常に拙く、
「あ、う」
 言葉を知らない赤子同然であった。
 すると、今度は隣から、笑い声が聞こえた。くすくす、という、おしとやかなものであった。多分彼女は、大人しい女性なのだろう。
「長いこと寒いところにいると、口も凍えてしまいますね。無理に話そうとしなくていいので、良ければ、私の暇潰し相手になっていただけませんか?」
 暇で暇で、仕方ないんです。彼女はそう言い添えたのち、僕の言葉を待たずして、喋り続けた。まずは、自分がどうしてここにいるのかということ。これは僕も非常に気になっていたことの一つである。よって、彼女の言葉を傾聴していたのだが、曰く、それは人を待っているというごくシンプルなことであった。その相手は、彼女にとってとても大切だそうで、けれど、恋人かと言われれば、そうではない。そもそも、彼女自身、その待ち人を愛しているのかどうかよく分かっていないらしい。愛する、という感覚がどういったものなのか、よく分かっていないから仕方ない、と彼女は笑った。待ち人が男性であることは、話の流れからすぐに察したが、恐らくその人は、僕によく似ている、と彼女は言った。いや、僕がその人に似ているのかもしれない。どちらが、ということはさほど重大ではないのだ。それよりも、何故僕に似ていると思うのか。さらに聞けば、彼女はその待ち人とやらの姿を見たことがないという。いよいよもって奇妙な話である。
「彼とは、とあるサイトで知り合ったんです。私、手紙を書くのが大好きで、そんな私に、友人が面白半分で教えてくれたサイトでした。文通相手を探すサイト。一種の出会い系、かもしれません。そこは、サイトを介してお手紙を出すんですよ。お手紙は、まずサイトの運営会社に送って、そのあと、サイトの方から相手の方に手紙を届けてくださる。顔も名前も知らない相手だけど、個人情報を一切漏らすことなく文通出来るなら、それはそれで面白いかなって思って、だから私、すぐに登録したんですね。そこには、いろんな方がいました。こういう言い方はどうかと思いますけど、身体目当てで相手を探している方もいましたし、趣味の合う友人がまわりにいないから探している、という方もいました。確か、私からだったかな。彼を見つけて、声をかけたのは」
 待ち人のプロフィールは、他の人と少し違っていた、と彼女は言う。ハンドルネームと、公開して大丈夫だと判断した分だけの個人情報と、簡潔な、いっそ素っ気ないとさえ思うような、自己紹介文。
『流行りにも疎く、決して面白くない私と、末長く交流してくださる方を探しています。どうぞ、よろしくお願いします。』
 ここからは彼女の感性の問題だが、彼女はそれを見て、この人は何か違う、そう思ったのだと言う。他とは違う、何か。それは不可視のもので、上手いこと説明できなくて然るべきもので、僕はそうであったと受け取るしかできない。
「この人とお手紙を交換したい、と思い、すぐに手紙を書きました。私のこと、好きなものや、普段どんなことをしているかとか。それから、逆に彼についても色々聞こうと思って、色んなことを尋ねました。手紙を送ってから、ちょっと色々聞きすぎたかなって後悔したんですけど、彼からはちゃんと手紙が返って来たんです。それは、手書きのものでなくて、ワード文書で作成されたものでしたが、私の質問に律儀に答えてくれるだけでなく、私のことについてもいちいち触れてくれて、ああ、この人はとても真面目で優しい人だなあ、と思いました。それから、私と彼との文通が始まりました。私は絵を描くことも好きでして、自作のイラストなんかも添付したりしたんですけど、どうやら彼は絵についてとんと分からないそうで、ちゃんと触れてやれないことに対して謝ってくれました。あれは私が好きでやったことだから、謝らなくてもいいんですよって。そう返したら、次の彼からの手紙には、白紙の画用紙が添付されていたんです。何だろうと思って、何気なく鼻を近づけてみたら、ほんのり梅の香りがしました。どうやらそれは、彼の家の付近に最近咲き始めたという梅のものでした。絵も写真もよく分からないし、描いたり撮影したり出来ないから、その代わりだったそうです。それから彼は、季節が移るごとに、花の香りのついた紙を添付してくれました。私はその、ほのかな香りが大好きで、それを楽しみに早く季節が移ろうことを願ったりもしていました」
 彼女は、彼との文通を本当に楽しみにしていたのだな、と感じた。話している最中の彼女の声は本当に嬉しそうで、聞いているこちらまで微笑んでしまいそうだ。彼女は、きっと可愛い女性なんだろう。そう思うと、相変わらず暗い視界が憎々しいとさえ思う。と、同時に、妙な焦燥感に襲われていた。これは本当に奇妙なことである。彼女の話の中に僕は一切介入していないようだし、ならば何故こんなにも焦燥に駆られるのか。彼女は、相変わらずここに来ることに至った経緯、彼との文通の思い出を語っている。僕は、どうしてここにいるのだろう。
「一度会いませんかって、切り出したのは私でした。会いたかったんです、どうしても。だって、その頃になると彼との文通が、生き甲斐とさえ呼べるほどに大切になっていたんですもの。彼からの手紙には、それは出来ない、と書かれていました。会ったら、きっと私はあなたを悲しませることとなるでしょう。だから、会えませんと。けど私、その理由にはどうも納得いかなかったんです。海外に暮らしているだとか、家庭の事情だとか、そういうやむをえない事情なら納得しましたけど、その理由というのが私だったんです。私が悲しむからって、彼は私じゃないのに、そんなこと分からないじゃないですか。私がこんなにも彼に会いたがっていることだって、彼は絶対知らない。だから、私しつこく言い続けました。しつこい女だって、嫌われても仕方ないと思いました。けど、それほど会いたかったんです。そうしたら、彼が、ついに承諾してくれたんです」
 僕は、彼女の話を聞きながら、自分がここにいる理由を懸命に思いだそうとした。どうして忘れているのだろう。そういえば、僕はここに至るまでの記憶を、あまり覚えていない。まるで幼少のころのそれのように、ひどく曖昧で、醒める直前の褪せた夢のような記憶。名前は分かるか。それは分かっている。住んでいた場所は、家族は、友人は、学校は。白がちらついている。何かが僕を急かす。僕の何をそんなに急かしているというのだろう。風の音がうるさい。寒い、さむい。
「ねえ、あなたはどうしてここにいるんですか?」
 彼女は、何気なく尋ねてきた。そこには何の邪な感情もない。ただ、純粋に、気になるから聞いただけのようだった。僕は、凍てついた唇を懸命に動かす。今度ばかりは、口がうまく動かないからなどと言って逃げてはいけない気がしたのだ。
 ──逃げた? 僕がいつ、何から逃げたのだと言うのだろう。けれど、確かに僕は、何かから逃げたのだ。そして、今度ばかりは、それは許されない。
「ぼ、くは、」
「ゆっくりで構いませんよ」
「……は、い。……ぼく、僕は、……」
 僕は、どうしてここにいるのだ。思い出すんだ。
 ちらつく白。
 傍らの女性。
 白。
 声。
「僕は……人が、ひどくこわかった……仕方の、ない、ことでし、た。僕は、他と……ちが、違うから。お菓子の、見た、目も……歌……手の……ライブも、わからなくて……だから、それで……──ああ、そうだ」
 母親がきっかけだった。必然的に内向的になってしまい、とじこもるようになってしまった僕の行く末を案じて、どうにかして他人との交流を持たせようとした。けれど、僕は人が怖かったのだ。僕を見て、どんな表情もしているかも分からない。言葉は簡単に偽造できることを知っていた。他人を信じるための情報が、僕には少なすぎたのだ。
 ある日、母親が僕にこんな提案を持ち出した。誰かと文通しましょう、と。お前は自分で読めないから、お母さんが読み聞かせてあげる。その時点で、ああこれは母親が自作自演するのだと悟ったが、僕のことを案じたゆえの行動だったので、無下に扱うことも出来ず、僕はやむをえず承諾した。
 それから数カ月が経った。もう母親の計画など忘れかけていたころ、母親が手紙を持ってやってきた。最初の一通には、手紙の差出人を装った母親自身のことや、逆に僕への質問などが書いてあり、自分で書いたにしては、えらく設定が凝っているなあと思った。しかし、こんな愚息にそこまでしてくれるなんて、と感動したのも事実であったので、僕は丁寧に返事を書いた。と言っても、僕が言ったことを母親が代筆すると言うものであったので、実際に書きおこしたりはしていないだろう。
 その日から、母親との奇妙な文通が始まった。別の誰かを語る母親からの手紙は、正直とても面白かった。母親が書いているはずなのに、まるで別人が書いているかのような。それほどまでに完璧だったのである。手紙の完璧さに、母からの愛をひしひしと感じ、これは僕も真剣に答えねばならない、と思った。一方で、これが母親相手であることを少し残念に思った。
 ある日、母親の手紙に添付品がついていた。どれはどうやらイラストのようだった。そういえば、手紙の差出人という体の母親は、絵を描くことが好きだと言っていた。しかし、自分の息子がこういう人間であるにもかかわらず絵を描いて添えるなど、母親の自作自演も少々度を超えているのでは、と思った。母親は手紙のその部分を読んでいる途中、何故だか少し泣きそうにしていた。声音から、辛そうなのは伝わったので、そんなに辛いならやめればいいのに、と思った。けれど母親は、それでも読み終わった後に、「返事はどうする?」といつものように聞いてくるのである。正直複雑であったが、母親が最後までやり通す気であるのなら、息子として応えねばならないように思えた。だから僕は、お詫びとして近所の公園に咲いている梅を少々頂戴し、その花の香りをつけた紙を手紙に添えてもらった。母親を驚かせたかったので、父親に手伝ってもらいながらである。思いのほか反応は良かったようで、僕はそれを、季節が移ろうごとに行った。母親は人知れず感涙を流していた、と父親がこっそり教えてくれて、とても嬉しい気持ちになった。
 ある日のことである。母親が読み上げた手紙の文面に、会いたいといったような一文があった。僕は耳を疑った。当たり前である。だって、毎日顔を合わせているじゃないか。親子なのだから。しかし、やはり母親はどうするとしか聞いてこない。僕は当然無理だと答える。母親はそれを返事に書く。しかし、母親は懲りなかった。正直もうやめてくれと思った。同じ反応を返さなければいけないのは、しんどいのだ。
「母さん、もうやめよう」
「何を?」
「文通だよ。母さんはこの文通を通じて僕に何を伝えたいの? しんどいよ。親子なのに、わざわざ手紙の上で他人装って会いたい会いたいってさ、何がしたいのか分からないよ」
 母親は、暫く答えなかった。傷つけたのかもしれない。元はと言えば僕のことを案じてのことだったのだ。良心は傷んだけれど、しんどいというのも事実で、もう耐えられなかった。母親が次に口を開いた時、返って来た言葉は謝罪でも何でもなくて、
「手紙の返事には、分かりましたって書いておくわね」
「母さん!」
「日時と場所は母さんが指定するわ。必ず行きなさい。いいわね」
 それきり、文通は途絶えた。母親は日時も場所も告げず、僕をとある場所へ連れて行った。きっと寒くなるから。そう言って、新しいマフラーを巻いてくれて、僕を残して、母親は行ってしまった。僕はここがどこかも分からず、ただ立ちつくしていた。
 そう、きっと迎えに来るであろう母親と、母親の答えを、待っていたのだ。
 風の音がうるさい。彼女は何も言わないでいる。
彼女は、母親じゃない。
「遅れてごめんなさい」
 謝罪であった。けれど、彼女は何も悪くなくて、謝るべきは僕なのである。僕も、本当は何も悪くないのだけれど。でも、全面的に僕が悪い。とても。
「私ね、とても引っ込み思案で、誰かと話すことが苦手で、だから手紙が大好きでした。手紙なら相手の顔を見なくてもいいし、素直に自分の気持ちが言える。見える。けれど、初めて手紙を通じて相手の顔を見たいと思いました。相手の顔を見て、ちゃんと向き合って、言葉を交わしたいと思いました。文字でなくて、あなたの声を介して知りたい。身ぶり手ぶりを交えて、あなたの全身から発せらるるあなたを聞きたいと思いました」
 頬に、何かやわらかいものが触れた。感触から察するに、それは彼女の手で間違いはないだろうと思う。すっかり冷え切った手。それでも、心なしかあたたかかった。僕は、おそるおそるその手に触れてみる。母親のものよりもすべすべしていて、とても綺麗なのだろうと思った。と、彼女が突然僕の手を取り、それを何やら冷たいものに触れさせた。冷たくて、やはりすべすべしている。僕の手は彼女によって動かされ、やがて覚えのある凹凸を感じる。これは鼻、これは瞳、これは──唇。指先で触れた唇は弧を描いており、頬の肉が少し盛り上がっていた。
「分かりますか? 私、今とても嬉しいんですよ。他の人がどうかは知らないけれど、私は今、ものすごく嬉しい。ね、私は悲しんだりなんかしなかったでしょう?」
 人が怖かった。僕は、他とは大きく違っていたから。僕を前にして、人がどんな顔をしているかもわからなかったから。言葉は簡単に偽装できるのである。僕には、真実が見えなかった。だから、見ようとしなかった。
 僕は今でも怖いのだろうか。何が怖いのだろうか。人間、いっぱいいっぱいになると物事がよく分からなくなるらしい。それは本当のことだと思う。現に今、僕には僕がわからない。相変わらず風はうるさいし、寒いし、視界は真っ暗だ。けれど、手のひらが触れている、彼女の顔はとてもすべすべしている。それでいて穏やかな表情をしている。僕の手を掴む彼女の指先は細く綺麗で、それだけが今の僕が感じている真実だ。そして、無性に泣き出したい。
「名前を。教えていただけますか?」
「…………」
「私は、いしかわまゆみ、と言います」
「……はせがわ……はせがわ、まこと、です」
「まことさん。やっと、あなたの名前を呼べました」
 彼女の頬に触れている手に、何かが落ちた。それは水のようなものだった。
 彼女の雫に濡れた箇所だけが、一際冷たかった。


130708

Thank you for reading.