雑文倉庫 | ナノ

たおやかに眠る

 死体に咲く花がある。
 それは、この世のものとは思えぬほどに美しくて、見るもの全ての心を魅了する。
 極彩色の、あの世の植物。その花の名は──。


「これで何度目だね、加藤君?」
 薄暗いオフィスは、重苦しく、ピリピリした空気で満ちている。先月のノルマに到達出来てなかったのはこの課のみであったので、無理もないことであったが、理由はそれだけではない。課長席の前に立たされ、かくりと首を垂れる男。くたびれた背広に包まれた背中は頼りなく、細いシルバーフレームの眼鏡の奥では、生気のない目がぼんやりと課長のデスクを見つめている。
「ノルマ未達成、どころか! せっかく上手くいきそうだった商談が、君のせいでパァだよ、パァ! わかるかね!」
「申し訳…ありません……」
「そうやって謝るだけなら子供にだって出来る!」
「はい……。あの……申し訳……あ、ええと、すいま、せ……」
「もういい! 次同じようなことがあったら即刻クビだからな!」
 課長の怒号に、追い立てられるようにして男、加藤は自分のデスクへと戻った。狭く薄暗いオフィスの窓際、ぽつんと置かれた一席。そこが、加藤の席であった。加藤が、ふう、と小さく息を吐きながら椅子を引き、腰かけると、他の社員がこそこそと声をひそめ出す。
「あれがうまくいっていたら、ノルマ達成していたんでしょ?」
「里中君頑張って話し取り付けたのにねえ、かわいそう」
「大体、取引の場に何で加藤さんが同席したの?」
「この課で一番の古株だからとか聞いたぜ?」
「年功序列ってやつ? けどそれは課長が悪いわ。明らかに人選ミス」
「だよな。いい歳して、ああして窓際でしょぼくれ続けているような人、同席させちゃ駄目だよな」
 最早ひそめる気などないとさえ思えるような音量だったので、当然加藤の耳にもそれらの内容は聞き届いた。だが、加藤は何も言い返さず、キッと一瞥くれてやることもしないで、ただ俯いて、作成した資料にミスがないか、チェックを行っていた。

 加藤は、今年で三十九になった。世間的に見ればまだ若い方ではあるのだろうが、彼の職場には若者が多いので、課長を除けば彼が最年長であった。ちなみに、新卒で入社したため、年数も長い。
 入社当初、皆彼に期待していた。特に何か突出した才能があるわけではなかったが、自信に満ち溢れた彼の眼差しに、こいつはやってくれると、社のため、きっと何か大きなことを成し遂げてくれるぞと、そう思ったのである。だが、平凡はどこまでいっても平凡であったのだ。むしろ加藤は、できるかできないかで言えば、出来ない部類の人間であった。
 すらりと伸びた、百八十後半はある高い身長が自慢だった。その背がしゃんとまっすぐ伸びている姿は、見るもの全てに自信を与えさせる。けれど、身長の高さなどデスクワークが主なこの職には別に何の利にもならず、加藤の背は次第に小さく、丸まっていった。
 加藤には妻と娘がいた。その妻とは、お見合い結婚だった。異性に無頓着、いや、他人に無頓着な加藤をみかねて、親がもってきた縁談。どちらも乗り気ではなかったが、かと言って断る気もなかったので、流れ流され結婚。親に言われるままに子を成した。流石にこんな適当な感じでいいのかと思った時期もあったらしいが、特に大きなトラブルもなく事が進んだので、よかったんだろうなあ、と自己完結。だが、そんな愛情の薄い夫婦、家族であったから、離別してしまうのもある種必然と呼べたかもしれない。加藤は数年前に離婚した。娘は妻が連れていった。三十二の時であった。

 仕事終わり。帰宅ラッシュの満員電車にもみくちゃにされながら、揺られ揺られて、駅に着くなりホームへと押し流される。ふらふらとおぼつかない足取りで閑静な住宅街を通り過ぎ、そのまま真っすぐ家路を辿るか、と思えばそうではなく、加藤はとあるバーに立ち寄った。お洒落で落ち着いた内装の店内には、ムーディなクラシックが申し訳程度に流れている。客は、加藤以外誰もいなかった。バーテンダーが黙々とグラスを拭いている。加藤はカウンター席に腰かけ、いつものようにウイスキーを頼んだ。広い口のグラスには、大きなロックアイスが薄茶色の液体の中で息を潜めている。
「ふと、考えるんですよ。自分は、何のために生きているのかって」
 バーテンに語りかけているのか、はたまた一人ごちているのか。よく分からないが、加藤は突然、そんなことを呟き始めた。
「子供のころはね、ソリャア楽しかったですとも。毎日毎日。けど、普通皆さんそんなものでしょう。子供時代が楽しくなかった人って稀だと思うんです。俺はね。あくまでも俺の考えですよ、ええ。ああ……、俺がこの会社を変えてやるんだーって、意気込んでいたあの頃が懐かしい。乗り気じゃなかったお見合いの場で、初めて妻を見た時、綺麗な人だなって思ったあの瞬間が懐かしい。看護婦の腕に抱かれた我が子
を見た時の、あの言いようのない高揚感、感動。全部全部、ぜーんぶ、過去のことなんですねえ。俺が変わったのでしょうか。会社が変わったのでしょうか。妻? 娘? いえいえ、そんなことはありえない。みーんな、変わっちゃあいないんですよ。だあれもね、だあれも」
 加藤はこの店でのみ饒舌になる。それは単に酒のせいであって、別段この店にそうさせる仕様が施されているというわけではなかった。酒の力でようやっと吐き出せる程度には、加藤は感情を外部へ放出することを苦手としていた。
 バーテンは依然黙したまま。相槌を打つわけでなく、反論も同意もすることをせず、ただきゅっきゅっとグラスを拭き続ける。こうしたバーテンの態度は、加藤にとっておそらく都合が良かったのだろう。会社での愚痴、過去、一緒に暮らしていた妻への愚痴、親への謝罪、娘への後悔。加藤の口からとめどなくこぼれる言葉は、さまざまな感情を表している。しかし、どれもこれも暗く、後ろ向きなものばかりだ。それはつまり、そういうことなのである。
「お客さん、」
 加藤の話にひと段落ついたとき、突然、バーテンが口を開いた。
「こんな話を知っているかい?
『死体に咲く花がある。
 それは、この世のものとは思えぬほどに美しくて、見るもの全ての心を魅了する。
 極彩色の、あの世の植物。』」
 加藤は、やや間をおいたのち、小さく首を振った。
「……いや、知らないですね。都市伝説かなにかですか?」
 加藤の手の中で、グラスが傾く。ロックアイスが、カランと涼やかな音を立てた。
「そうなるのかね。以前来た若い女性客二人組がね、そんな話をしていたのさ」
「へえ……。で、そのようなことを突然、何故俺に?」
「なんとなく……、かね。特に意味は無いさ。けど、」
 バーテンは一度言葉を切ったのち、グラスを拭く手を止めて、
「平凡で曖昧な人生だと言うのなら、最期くらい綺麗に飾りたいもんだね。そうは思わないか?」
 そう続けたあと、バーテンはまた、グラスを拭く仕事に戻った。加藤は、その奇妙な話にどこか興味を引かれながらも、所詮都市伝説。深くは考えようとせずに、残りのウイスキーを飲みほした。

 その夜、加藤は夢を見た。
 そこはどこぞの野辺であった。土地の詳細は分からないが、恐らく山奥の、どこかひらけた場所であろう。ぼうぼうと生い茂る、背丈のバラバラな雑草。どれも青々としているか、と思えば、黄土色の枯れ草も入り混じっている。どうやら手入れは行き届いていないようだ。というかそもそも、ここは人の手によって管理されている場所なのか。
 柔らかな陽光のフィルターがかかる。輪郭はぼんやりと滲み、優しさが溶け出す。
加藤は、そんなの野辺の、ど真ん中に立っていた。
 ここから動く出すべきだろうか。いや、しかし、足が動かない。加藤は、ぼけーっとそこに立ちつくしているのである。と、加藤は自分の少し前方に、何かが横たわっているのを見つけた。それを認識するなり、突如体が自由になる。理由は分からないが、恐らく考えても答えは出ないだろうので、加藤はそちらの方へ近づいていった。
 ぼうぼうと生い茂った雑草をかき分ける。そして、それが何か分かったとき、加藤はヒッと短い悲鳴を上げた。


 それは、死体であった。

 どうして、こんなところに……。と、その時。加藤の目の前で信じられない光景が起こった。死体の胸、おそらく心臓があるだろうという位置から、何かが肉を、皮膚を、服を、打ちやぶって出てきたのである。芽であった。若々しい黄緑色の新芽。芽はにょきにょきと伸びてゆき、やがて白い蕾をつける。すると、死体がみるみるうちに干からび始めた。黄緑色の若々しい茎はところどころ赤く染まり、白い蕾も、鮮やかな赤色に染まっていく。そして、ゆっくりと、花が開いた。
 加藤は、思わず息をのんだ、瞬きをすることを忘れた。
 それほどまでに、美しかったのである。その、花が。
 赤。淀みも濁りもない、純度の高い真紅。だけれども、その内に様々な色を孕んでいるかのような、数多の色彩がぶつかって弾けているかのような、そんな極彩色の花弁。その色鮮やかさたるや、まるで息づいているかのよう。
 死体はすっかりひからび、それどころか皮膚も肉も消え去ってしまって、白骨しか残っていなかった。きっと花が全て吸いつくしてしまったのであろう。血肉全て……いや、この死体の生前の記憶、感情、あらゆるものが、この極彩色の美しい花を形成する養分と変わったのである。
 夢はそこで終わった。
 午前四時。窓の向こう、ロイヤルブルーの空が広がっている。サアサアと静かな甘音の中で、加藤は不思議な高揚感と、同時に使命感に駆られていた。

 この日。加藤は体調が優れないから、という理由で会社を早退した。課長は、文句の一つ浴びせることもせず、すんなりそれを認めた。それは、別に病人に無理をさせるわけにはいかない、とかいう至極真っ当な理由からではなく、単に加藤がいようがいまいが、どっちでもよかったからであった。むしろいない方が職場的には良いらしく、加藤が早退を申し出た時、一部の席から「ヨッシャ」などという呟きが聞こえてきた。うっかり口に出してしまった社員は「ヤベエ」と慌てて口を押さえたが、加藤にはどうでもよかったので、加藤はサッサと帰り支度を済ませて退社した。
 しかし、実はこの体調不良と言うのは嘘であった。加藤はそのままホームセンターに寄って大きめの包丁を購入。それから、一番安い服屋に行って、白無地のタートルネックを一枚購入した。
 帰宅後、加藤は何年かぶりに妻へ電話をかけた。が、どうやら今夜はでかけているらしい。不在を告げるおなじみのメッセージと、ピーという発信音が受話器の向こうから聞こえる。
「明日はおそらく晴れるでしょうから、今日洗えなかった洗濯物を明日洗うといいでしょう。漂白剤の入れすぎに注意しなさい。お前はいい加減なところがあったからね。恵美子が真似するといけない。だから、ねえ、……愛していたよ」
 受話器を置く。加藤はそのまま風呂場へと向かい、いつもより入念に体を洗った。足の爪の間も、しっかりと洗った。風呂上がり、いたくさっぱりしたので、少々寂しい気持ちになったが、瞼を閉じるとあの光景がよみがえってきたので、加藤は興奮気味に歯を磨くと、早々に床に就いた。土曜日の話。

 日曜日。加藤は車を走らせて、とある山へと向かった。途中、ここから先立ち入り禁止だの、危険だのと書かれた標識を見かけたが、どうでもよかったので、加藤はそのまま車を走らせ続けた。この日、加藤は昨日買ったばかりの白いタートルネックを着ていた。しかし、それだけでは少し寒かったので黒いジャケットを羽織った。
 車内BGMはラジオである。日曜日の午後、Djが軽快なトークを挟みつつ、リスナーからの手紙を読み上げたり、質問に答えたり、リクエストされた楽曲を流したりしている。加藤は割とラジオを聴く人間だった。ラジオで流される音楽には統一性がない。アーティストもジャンルもみんなばらばら。だから、飽きがこないのである。それに、リスナーから寄せられる手紙も面白い。恋愛相談なんか、四十路手前の自分からすると初々しくて仕方がない。それに、自分の結婚があんな感じであったから、恋愛感情に揺れ動かされ悩み苦しむことがなかったので、見知らぬ世界の話を聞いているような心地になる。
 そうこうしているうちに舗装された道路が途絶えた。先にも道は続いているが、獣道である。車は通れそうにない。と、ここで加藤は車を降りようとした。しかし、よく考えたら、なにも躊躇う必要はないじゃないかと。そう思いなおすと、加藤は一度切ったエンジンをかけ直し、獣道を強引に進み始めた。
 木々にぶちあたり、草や野花を踏み荒らす。無論車の方も無事とはいかない。そこそこ綺麗だった車体は、みるみるうちに傷だらけになっていくが、それでもなおも加藤は車を走らせた。やがて視界がさあっとひらける。加藤は、ここでようやく車を降りた。
ぼうぼうと、背丈のバラバラな雑草が生い茂る中を、ゆっくりと歩いていき、加藤は、その場所の中心であろうところで、たちどまった。ジャケットを脱ぎ、綺麗に畳んで足元に置く。
 加藤は、昨日買ったばかりの包丁を握りしめた。そして、両腕を大きく広げ空を仰ぐ。一度深く深く呼吸をすると、その包丁の先を己に向け、祈るように目を閉じ、そして─ ───刺した。
 衝撃に目が見開かれ、どさり、と加藤は倒れた、白いタートルネックが自らの血液で染まっていく。
 包丁でたった一突きである。まだ、かろうじて意識はあった。激痛、という言葉は軽すぎるほどの、痛み。耳にうるさい心臓の音。ちかちかする視界。揺らぐ。しかし、手は震えながらも、包丁の柄を握りしめる。
 ああ、まだ足りないのか。
 加藤は、さらに力を込め、刃をさらに深く、己が胸に沈めた。今度こそ、意識を手放んというそのとき。加藤は、確かに見たのである。己が胸から伸びていこうとする、若々しい生まれたての、芽を。
 加藤は、恍惚の表情を浮かべ──そのまま動かなくなった。細いシルバーフレームの奥で、生気をうしなったただの眼球が、ごろりと青空を向く。
その眼球の端、青空に向かって伸びゆく花は、この世のものとは思えぬほど美しかった。

 死体に咲く花がある。
 それは、この世のものとは思えぬほどに美しくて、見るもの全ての心を魅了する。極彩色の、あの世の植物。などと言うが、花は、何も死体喰らいの化け花ではない。人は誰しも、己が胸の奥深くに種を秘めている。それが、死した際にようやっと芽を出すだけのこと。花は、ただただ、咲き誇ることにのみ必死なのである。人はどうでもよいのである。ただ純粋に、生を欲すだけなのである。

「だというのに、わざわざ花のために死ぬだあなんて、人間ってやつは愚かだねえ」

 日曜日。その日は久しぶりに穏やかな晴天であった。
 真白に眩く、柔らかな陽光降り注ぐ中、昨日洗えなかった洗濯物を、ここぞとばかりに干す家庭が多かったという。主婦の皆皆様が、嬉しそうに満足げに見上げる晴れやかな青空の下で、白骨に根づく極彩色の花が、たおやかに揺れた。


130708

Thank you for reading.