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一話的な:前半

 朝、湯飲みに注いだ緑茶の表面に茶柱が立っていた。その後、気分よく出掛けようとしたら靴ひもが切れた。これらの偶然は、あるいは今起きている出来事を示唆していたのかもしれない。真っ暗な視界の中で、白森信也は静かにそう思った。

 白森信也は、どこにでもいそうな平凡な会社員である。歳は二十五。特に目立った経歴もなく、強いてあげるなら、高校時代、体育の授業中に行われた男子による柔道クラスマッチにおいて三位を取ったくらいだ。それも、結局は過去の話であって、では今当時の実力を披露してみせろと言われれば、当然不可能である。
 特に秀でているわけでも、逆に劣っていたわけでも、どちらでもない。白森信也は、至って平均的かつ没個性的な一日本人男性であった。そんな彼だったからこそ、今己が置かれている状況、というものを、未だに理解できないでいる。

 遡ること数時間前。白森は、いつもと同じように、通勤ラッシュの快速電車に押し潰されそうになりながらも出社した。自分のデスクに荷物を置くと、白森はそのまま給湯室に向かった。眠気覚ましも兼ね珈琲を淹れようと思ったのである。そして、プラッチック製の安いカップを手にしたときであった。白森は、平社員たる自分は滅多にお目にかからないであろう親会社の社長に肩を叩かれた。
 最初、白森にはそれが誰だかわからなかった。しかし、見覚えはあったので、懸命に思い出そうとはしていたのである。故の沈黙を、社長の脇に控えていた部長が「白森! 社長相手に何黙ってる!」としかりつけた。そこでようやっと、目の前の人を正しく認識した白森は、すぐさま血相を変えて深々と頭を下げた。
 社長はおおらかな人であったので、意図的ではないにせよ無礼を働いてしまった白森に対して、しかし人良さげな笑い声をたてただけであった。親会社の社長とは言え、滅多に対面しないのだから致し方ないと。白森は、すぐに社長という人間を好きになった。
 さて、こんな朝早くに何故親会社の社長たる人間が、平も平、ぺーぺーな社員の自分にお声をおかけになったのか。白森自身が口を開き理由を問う前に、白森は社長に連れられて会議室へと向かった。
 会議室は広々としており、横長のテーブルが綺麗に並んで長方形を成している。そこに、既に一人の人間が着席していた。
 女性であった。黒いスカートタイプのスーツを着ており、サングラスをかけている。後頭部で高く結い上げられた艶やかなブロンドの髪と、白い肌、そして顔だちから察するに、どうやら外国人らしい。白森は、自分の語学能力の無さを思い、密かに顔をしかめた。
 社長は、流麗な英語で女性に何か話しかけた。女性の顔が白森へと向く。そして、そのままつかつかと近付いてきて……。
 そこで、白森の意識は途切れたのである。


 ここで冒頭に繋がるわけだが、次に白森が意識を取り戻したとき、視界は真っ暗だった。いや、というよりは何かに覆われていた、と表す方が適切かもしれない。手足も縛られているらしく、視覚からの情報が途絶えた今、頼れるのは聴覚くらいだった。だが、それが拾う情報というのも自動車の走行音くらいであって、自分はどうやら何者かの車に乗せられているらしい、ということは分かった。
 最初のうちは色々と考えを巡らせていた白森であったが、次第に、自分の頭脳などたかが知れているのだから、考えても無駄ではないだろうか、という結論に至り、やがて考えることをやめてしまった。どうせ然るべき場所に着いたら然るべき処遇を受けるであろう。それが命に関わるようなものであるならば、その時に考えればいい話だ。そう思える程度には、白森は能天気、いや、楽観的な人間であった。
 やがて、目的地に着いたらしく、車をおろされる。そこで、ようやく手足の拘束と、目隠しを外された。

 露になった白森の目に、まず飛び込んできたのは、下方がほの青く発光した、巨大な扉であった。目で見ただけの見解ではあるが、鉄というよりは青銅で出来ていると思われる。何よりもその巨大さたるや、見上げても一番上が見えぬほど。
 白森の脇には、会議室で見た女性がたっていた。女性は、白森に一瞥くれると、そのまま扉の方へ歩き出した。白森は、ついていくべきか迷い、ふと後ろを振り返る。
「!?」
 後ろには、何もなかった。自分が乗せてこられたであろう車も。その時に白森はようやく辺りを見渡したのだが、どうやらここは、洞窟のようなところらしい。荒々しい岩肌が露になっており、ところどころ弱く発光した鉱石が埋まっている。先、というか、自分たちがきたであろう方向は、鉱石の光が点在するばかりで、先など一切わからない。
 逃げれるものならば、などと一瞬よぎった考えは、すぐさま払拭された。これは、多分一人では帰れない。人間とは弱いもので、この状況が生む不安は、決して信用してはならないはずのスーツの女に対しいくらかの安心感を白森に与えた。白森は慌てて、女のもとへ駆け寄る。白森が来るなり、女は扉へ向かい合って、何かを囁いた。すると、鈍く重々しい音を立てて、ゆっくりと、扉が開かれた。


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こーはんへー続く
120602


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