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オフ本没ネタ

 幸福であった頃の記憶など、とうのはてに潰えてしまったのだ。指の隙間から、温もりが、微笑みが、声が、するりするりと零れていくようで、いま思えば大層呆気ないことであった。鮮やかな真紅が、ちりちりと夜闇を焼き、ごうごうと命を焼いていた。夢のような光景だ。いまでもなお、目蓋の裏に張り付いて離れない。
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 クラウスは、あの日以来ずっと、北通りのスラムで暮らしていた。いや、暮らす、と使えるほど立派ではない。路傍の石ころのようなものだ。クラウスは、五年前にこの街を襲った大火事で、家と家族をなくした。
 当時七歳だった彼には、受け止めきれないほど大きく、衝撃的な出来事であった。決して裕福とは呼べないが、それなりに幸福だった彼は、一瞬にして全てを失った。己が心も、声さえも。言葉という概念自体が焼き払われてしまったのかもしれない。あの日以来彼の、虚ろな心に言葉が浮かぶことさえなかった。
 空虚という表現が相応しい。酷い話である。クラウスはまだ齢十四であり、もっともっと夢や希望に満ち溢れた目をしていてもいいはずである。だというのに、彼のもつ翡翠の双眼は、ひどく虚ろであるのだ。
(…………)
 その濁った翡翠に、ふとうつりこんだのは、魚の骨であった。クラウスは、あてもなくふらふらと、スラムを徘徊しているのだが、色とりどりの煉瓦が綺麗に敷き詰められている他の通りとは違い、地肌の露になった黄土の道に、ぽつんと、それは落ちていたのである。このようにして生ゴミが落ちているのを目撃することは珍しいことではなかった。大方、野良猫がどこやらか拝借し、堪能していたものだろう。クラウスは、躊躇いもなくその生ゴミを拾い上げた。骨にはまだ少し、身がついている。
 するとクラウスは、あろうことかそのゴミを口にいれたのだ! ぴくりとも変わらない表情からは、彼が今、何を思い拾ったばかりの生ゴミを味わっているか察することは出来ないが、迷いの一切ないその行動ぶりが、クラウスの現在の状況を、暗に語っている。
 再び歩き出し、やがて時計塔広場が見えてくると、次第に聞こえてくる街の喧騒に合わせ、同じような内容のビラが落ちているのを見かけるようになった。そこには、街の復興五周年を記念して、近々行われるという祭りのことが記載されていた。
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 クラウスは、路傍に落ちている一枚のビラを暫くじっと眺めていたが、特に何か反応を示すわけでもなく、やがて彼は踵を返し、スラムの奥へ戻っていった。
 クラウスは、時計塔広場に近づこうとしない。



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多忙過ぎて断念した合同本へ、出す予定だったもの。
トラウム、というまわりをふかい森に囲まれた、円形の街が舞台で、そこに自作のキャラぶっこんで、話を書くみたいな、なんかそういう企画でした。
クラウスは14歳の男の子。五年前、街を襲った大火災で家と両親を亡くし、以来北通りにあるスラムで暮らしている孤児です。両親を亡くしたショックで言葉と、主な感情を無くしてしまいました。ある意味、生きながらにして死んでいるような子です。
完成させて、本に載せることはかないませんでしたが、なんか勿体ないので、未完成だけどうp。また、いつか。クラウスのことはどこかで、出してやりたいなと思います。
130313


Thank you for reading.