雑文倉庫 | ナノ

真白に融解

 重苦しい曇天からちらちらと、音もなく降り続く。儚く、白い、それは雪である。いつ頃から降り始めたのかなどおぼえてやいまいが、アスファルトを白く染め上げ、行き交う人々の軌跡を刻み付けるくらいには、降り続いていた。
 粛々と降り頻る、白く儚い氷の粉は、時折私の視界を乱す。振り払えども、形など無いに等しいので、その行為にはさほど意味がない。安っぽい真っ赤な傘が、己の出番を今か今かと待ち望んでいたが、生憎とお前が私の頭上を覆うことはないのだ。お前は、彼女の。
 行き交う人々の数が、次第に減っていき、ついには私以外みな去ってしまったとも、雪は止まず。ただ、ただ落つる。粛々と、白く染め上げていく。私の中にそれまでは辛うじてあった、温度という感覚、概念ごと、この白い街に同化させてしまったようだ。寒いのか、暖かいのか。今の私には、何もわからない。
 ついには、どうしてここにいるのかということすらわからなくなってしまった。かたくかたく、握る柄から伸びるは、安っぽくて鮮やかな、赤い傘である。私はもう少し控えめな色合いがよいのではと、きちんと申したのだ。年甲斐もなく、幼くて恥ずかしいと。しかし彼女は、それでもなお笑って、これがいいと、答えたのである。
「目印に最適でしょう?」
 思えば彼女は、とかく赤を好んでいたなとぼんやり思い返した。そういえば、最後に見た彼女の赤は。
 そうだ、私は彼女を待っているのだ。今日は雪が降るからと、迎えをせがまれて。お気に入りの赤い傘も、しっかり届けにきた。先ほどから、棒切れのように白い大地に立ち尽くしている、私の脚の間で、安っぽい真っ赤な傘が、そろそろ我慢の限界だとでも言うように、ふるふると震えている。
 まだだろうか。もう少しだろうか。白い道が続く先を、じっと見つめる。彼女が現れるのを、静かに待っている。粛々と、雪は降り続き、手前勝手に刻まれた軌跡が、やがて消えていく。
 どうしてこうも遅いのか。彼女は、時間にだけはきっちりしていた人物であったと思うのだが。彼女のことを思い返す。出掛けの時の笑顔と、目映い朝日に、それが溶けていきそうにうつったことを思い出す。私は確か、ああと返して、わかったから、気をつけてと、言ったはずで。

 ――――……。

 記憶の箱を、ゆるく閉じていた紐は、まるで雪に溶けて消えたかというように。鮮烈な音とともに、私は最後に見た赤を思い出した。彼女はゆるく微笑んでいた。小さい背中は、次第にその輪郭を滲ませ、形を崩していったけれど。
 彼女から流れ出る赤は、鮮烈に、鮮明に。

 雪が降っている。粛々と降り続いている。
 お前は二度と、開くことないであろう。何故ならば、お前は彼女の傘だから。


Thank you for reading.