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ある夏

 うだるような暑さが、足音をしのばせて近づいてくる。その気配に当てられるかのごとく、そろそろ蝉も鳴き出すだろう。蝉時雨、とはよく言ったもので、そこら中で力の限り鳴きわめく蝉のそれは、まるで豪雨のようである。
 しんと静まった校舎には、気持ち涼やかな夏風が吹き交っている。各階の窓を、片っ端から開けていったからである。いつもより風が強いせいもあるだろう。まあ自然風などより、冷房の効いた部屋の方が大半の現代人には断然快適だったりするのだが、冷房に頼りすぎると身体にも悪いし、何より蒲団の快適さ、風流さを思うと、リモコンに伸びんとする手が止まる。甲という男は、そういう奴であった。
 ベージュの短パンに白いタンクトップ。首には酒屋のタオルを巻き、藍の浴衣を肩にかけるという身軽ではあるがよく分からない服装で、甲は夏風の吹き交う廊下をあてもなくぶらついていた。
 暇。そう、暇だったのである。心底。
 何もすることがないときは、大抵読書に耽ってみたり、訪れたことのないドイツやイギリスといった西欧諸国への想像と憧れだの、自己と向き合い、見つめ、考察した結果だの、校外で見かけた猫の気持ちになってみたりだの、そうしたことを原稿用紙にしたためてみたりする。無性にディベートしたくなって、衝動的にレジュメを作成することもあれば、句を詠んだり、一つの主張をさまざまな論証で記述してみる、といったこともやる。が、今はそういったことに対して、しようという気が全く起こらないのだ。そもそも、ペンを持つ気から起こらない。しかし校外に出て散策するのは億劫、というか暑いから嫌。以上の理由から、校内散策に至った、わけであるが。

「……暇」

 なのである。非常に。

「うー……、議題も尽きた。すこぶる暇だ。あと暑い。何もする気起きないけど眠くもない。暑い。けど今大分涼しい。……やっぱ暑い」

 ひとりごちても、何か変わるわけではないので、甲はせめてと言わんばかりに盛大に溜め息をついた。静まり返った廊下に反響して、やがて消えていく。

「……乙んとこ行くかー」

 甲は気乗りしない、という風に呟きながらも、進路を東屋へと変えた。
 教室棟の裏手には小さな東屋がある。乙は基本的に茶華道室にいるのだが、天気がいい日の昼間は、ここにいることが多い。本日も爽やかな晴天であるので、案の定、乙は東屋にいた。

「乙ー……って、お前」
「甲ですか。何か?」
「いや……、いつも通りだなーと」

 甲は苦笑ぎみに言う。それもそのはず、せっかく東屋にまで来て、やってることと言えばノートパソコンを開いてネットなのだ。どうせその画面には複数のタブが開かれており、乙が入会しているいくつかのSNSや、同人サイトエロサイトなどが表示されているのだろう。
 甲は乙の向かい側に座った。かといって乙がパソコンを閉じることはなく、その気配すら出さず、相も変わらず凄まじい速度でキーを叩いている。もちろん、甲の側からタイプしているところは見えないが、音が、すごいのだ。

「お前さ、暇なときってないよな」
「失礼な。お前は私を一体なんやと」
「んー、腐ったネット廃人」
「……どうせ、お前と違てリアルで楽しみありませんしね。お前ほど活力迸ってもないですしね。羨ましいやなんて思てませんし」
「ごめんなさいごめんなさい言葉が過ぎましたごめんなさい今晩生き霊飛ばしにこないでください」

 ぐちぐちと怨み言を吐き出し始める乙に対し、甲は顔面蒼白になりながら謝罪を述べる。というのも、過去何度か、こうやって無意識のうち乙の嫉妬心を刺激してしまい、その晩彼の生き霊に苦しめられることがあったからである。首を絞められたときには流石に本人かと疑ったが、乙自身はさっぱり記憶にないらしく、よほどの怨恨だったのだろうと怖気立った。

「そういえばね、」
「ん?」
「今日1日の運勢、占ってみたんですよ。……これがもうえらい最悪でしてね」
「……俺何もしてやれねぇからな」

 乙は、男のくせに占いを信じる奴であった。というか、もう大体女子であった。鏡は携帯するし、髪に香はつける。嫉妬深く、だけどお伽思考。顔立ちも中性的であるから、一見女と思えないこともない。
 香、と申さば。

「あ、てめ昨日ちゃんと風呂入ったんだろうな?」
「…………え、ええ、モチロン。オゥフコーゥス」

 乙は少し間をおいたあと、目を反らしながら答えた。何故か最後は英語である。

「その、すねに疵をもつような言い方……入ってないんだな」
「は、入りましたし!」
「じゃあ髪嗅いでいいんだな!?」
「そ…………っ、乙女のお髪の匂いを嗅ぐやなんて、お前ほんまに男ですか!?」
「お前男だろ」

 がた、と立ち上がる甲。乙も即座に立ち上がり、閉じたノートパソコンを脇に抱えた。互いににらみ合う。甲はじりじりとにじりより、乙は反対に、じりじりと甲から距離を取る。そのときであった。

「あれ、二人ともそんなところにいたのか。なあ、そっち涼しいー?」

 二階の恐らくHR教室から、ぬっと身体を乗り出して声をかけてきたのは世界史であった。甲が反射的にそちらを見上げた、その一瞬の隙に、乙はパソコンを抱えたまま走り出す。

「あっ、こら待て!!」

 甲は慌てて追い掛けようとするが、走り出そうと身を捻った瞬間に、肩から浴衣が落ちる。それを拾い上げるうちに、乙は教室棟の中に消えてしまった。

「あー、くそ!! 尻割らせる前に逃げられた! 世界史、お前のせいだぞ!」
「え、待って、状況が全く読めないんだけど」
「責任とってお前今晩あいつのこと風呂にいれろよ! 言っとくけどあいつ猫よりひどいからな!」
「まずことの次第を説明する優しさを持ってほしいんだけど!?」

 結局、乙は風呂に入れたのか。否か。それは彼らのみぞ知る。
 夏は夜。あわただしきこと、いとおかし。



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あんま慣用句いれられなかったなぁ。

Thank you for reading.