雑文倉庫 | ナノ

名もなき詩

 赤い陽が沈んでいく。その身を容赦なく焼け焦がしながら。その先に待つ者がいるのだろうか、一羽の白鴉が、燃え尽きゆかんとする西陽の向こう側へ飛んでいく。荒々しい地肌をすべるように。
 君はどこにいるだろうか。まなじりを伝う透明の雫を、拭うことができたかもわからぬまま。恐らく同じ空の下で、僕は君を想う。君の笑顔を願っている。
 乾いた唇から紡がれた詩。いつか誰かから教えてもらった詩。僕の思いと重なる。詩は、名無しの旋律に溶けていって、それから。
──それから、どこへ向かうと言うのだろう。僕は、どこへ向かうと言うのだろう。そもそも、どこかへ向かおうとしているのだろうか。
 数え切れないほどの歴史や人や、風や歌が通り過ぎていったこの場所で。僕は赤々と燃える地平線を見つめている。行き先を示してくれる賢者も、ともにさまよう愚者も、先を先導する笛吹きも、旅人もいない。僕は一人。やけに冷え切った小さな手を握りしめながら、地平線を眺めている。待っているのかもしれない。何を待っているのか、それすらも分からないまま。僕は、何かを。

 歌が、聴こえた。

 歌じゃない。それは、物語だった。歴史だった。記憶だった。想いだった。あらゆる世界の、あらゆる人や物の、あらゆる物語だった。歌の形を成して、どこからともなくやってきて、僕の耳へ届く。地平線の向こうで何かが、のそりと腰をあげる。風が胎動して、僕は息を飲み込んだ。
 数多の地平線を渡る。それは確かに世界で。一つの世界で。例えるならばおもちゃ箱のよう。整然とはされず、ぎゅうぎゅうと世界の詰め込まれた。僕は立ち上がり、すっと背を伸ばして、地平線の向こうを想う。目に見えぬその存在を。感じたのだ。君を。あそこに君がいる。そして、僕もいることを。
 手繰り寄せた記憶の糸を、不器用に織り合わせてようやく思い出す。僕の掌が、君の涙に濡れたこと。僕と君は、そうだ。一緒に笑いあえて、手を繋いで。
 今もなお、地平線を渡っている。まだ時間はあるから。そう思ってそっと目を閉じた。もう少しゆっくりしておいで。色んなものを知って、見ておいで。見極めておいで。

 かすれた詩をささげた。足元に転がる、無機質な骸が、静かに傾いた。


Thank you for reading.