卑屈な優越感



なぜわたしが立花仙蔵という人間に恋愛感情を持ってはいけないかというと、それはわたしが彼の妹だからという単純明快な理由。問題がシンプルであればあるほどアウトローすれすれの抜け道は見つけにくいわけで、倫理性にがんじがらめに縛られたわたしは、自分の気持ちに折り合いをつけることもできず、成す術も無く妹という役回りを演じていて、まるで歩行者なんて通る気配すらないのに時間差で青に変わる横断歩道のよう。



「おにいちゃん」
「なんだ」
「・・・なんでもない」
「おかしなやつだ」


兄はまず外ではお目にかかれない柔和な微笑みでわたしの頭を撫でた。白くて細い五本の指が優しく頭上を泳ぐ。意味無く彼に呼びかけて暴力をふるわれないのは妹の特権なのだ。わたしは兄がしんべえや喜三太に爆竹だのコンパスだのを投げているのを目撃している。
女子にモテないわけはないのに、彼のどこか人を寄せ付けない冷ややかなオーラは彼女らが立花仙蔵に近づくことを諦めさせるには十分だった。兄に近づく女の子がいるとすれば、彼の人嫌いさに気づかない空気の読めない人物か、自分によほど自信のある女の子だけである。どちらも兄の嫌いなタイプだ。兄はあれでなかなかプライドが高く成績を維持するのに惜しみない努力を注いでいる。だから試験前に人から話しかけられるのを嫌う。しかし、中間テストの日に兄のコンパスを自分の鞄に発見したとなれば兄のクラスまで行って届けるのが妹の義理というものだろう。試験前の十分休憩に兄の教室の扉を開けたとき、兄は女の子を泣かせていた。けして色っぽい理由でないことは兄の鬼のような形相を見ればわかる。
「どうしたの」
家が近所で幼稚園児の頃から付き合いのある潮江文次郎に尋ねれば、
「大したことじゃない。あの女子が仙蔵に数学を教えてもらおうとしただけだ」
試験前の最後の詰めに話しかけられて、兄は放っといてくれだとか、自分でやれだとか返したのだろう。大したことじゃない、と文次郎は言うが、わたしだってあの冷たい目でそんなことを冷たい声で言われたら・・・・・・間違いなく、泣く。
「お兄ちゃん、これ、あたしの鞄に入ってた」
わたしは静かに兄の机にコンパスを置いた。
「おお、すまないな」
兄は教科書から目を上げ、にこりと微笑んだ。
もし今ここにいるわたしより二つ上の女子たちの視線が縫い針だったらわたしはあやうく剣山になっている。妹にまで嫉妬するほど、わたしの兄はモテるらしい。
わたしに縫い針のような視線を突き刺してきた一人から兄が告白を受けたのは中間テストが全て返却された頃だったろうか。
同じクラスの女子から、好きだの付き合えだのと言われ、さらに彼女の顔が読者モデルのようにとびきりキュートであったなら、兄のように昼時のファストフードで横入りされたかのように苛立たしく報告する男子はまずいないと思う。
「長谷川先輩ってバトミントン部の、去年ミスコンに出てた人?」
「知らん」
「お兄ちゃんと同じ学年で長谷川という名前で、文次郎とかが可愛いって騒いでるんなら、それは間違いなくバトミントン部の部長で、去年の文化祭でミスコンに出てた長谷川先輩だよ」
「私は男に媚びる女に興味が無いんだよ」
媚びられ慣れているからこその台詞のような気がした。
「・・・おにいちゃん」
呼びかければ
「なんだ?」
返ってくる微笑が、わたしに甘い優越感をもたらす。でもそれは時々たまらなくいたたまれない。
「お兄ちゃん、」
好き。口に出せない想いがチューイングガムのようにわたしの喉を詰まらせる。
ねえ、おにいちゃん。これはわたしにとって魔法の言葉なの。それなのにこの言葉はわたしを鞭のように酷く痛めつけ心を腫らすのです。
「なんだよ。言いたいことがあるなら言ってごらん」
ん?と首を傾げるその瞳はとても優しくて、ああ、なんて残酷なのだろうか。




|


TOP


- ナノ -