春眠を貪り、君と惜しむは(*)




春の日だった。
淡い桃の香りが漂いはせぬかと重い瞼を持ち上げて、当の軍師がまだ見ぬ遠方へ姿を消したのだと思い出す。驚いた代理軍師の取り乱し方はは、いくらなんでもと思うほどに滑稽だったものだ──発の意識は未だ朧気に、季節には早い栗のような臭いを深呼吸で捉えた。
この地に香りがするとすれば、
「……おい」
陽の差し込む蒸し暑い天幕の下、埃と硝煙と。少年独特の嫌みのない汗の香りが、発の胸と寝台を占領しては寝息の続きを奏でていた。
「オイっつの。なにやってんだよ」
「……あれ、起きたさ?」
互いに答えはしない。生暖かい吐息の風が前髪を拐った。
返ってきた少年の声も発を見ることはなく、汗ばんだ指が大の字に寝転ぶ発の内腿をただなぞっていた。
「……ったーぁくよ、いつまでもガキくせぇの好きだよな」
「へへ、だって王サマ腿毛がくるくるしてて気持ちいいさ。かっけーし」
特に意味はなかった。どうして彼が珍しくもない体毛の戯れに興じるのか、十年前には笑ったものだ。後に、それが単なる嗜好でないと知った。時を止めた代償とも言うべきその瞬間に感じた、泣きそうになる幼い塊の切なさは、胸を引っ掻いて天へと還る。
いつの間にか、天へと還るたくさんの仲間を見送りながら。

天化の指が、発の人より柔らかい筋肉に包まれながら、痩せ始めた太股をなぞっていた。髪を混ぜてやると、幼い武人の人差し指と中指に、黒い全身の産毛が隅々まで浚われる。
「かいーって、やめろ」
まるで戯れる仔猫のように、服はそこになかった。
目指すはメンチ、牧野。その先の朝歌。
天化の指は腹を辿る。
まだ辿り着きはしないだろう。
「二段腹さ」
「うるせ、バッタ腹」
噴出して覚る、声の高低、身体の造り。発の声は十年足らずでしわがれたとも自覚はある。ならば他覚も当然だろう。子猫が母猫に身体を清められるように、ふざけながら絡まりながら、天化の指は発を撫でていた。くるくる、くるくる、肌の上を遊ぶように。
「王サマ、ふけたね」
あたたかな手のひらに蠱惑と淫靡のそれを感じさせないのは、春風の甘い香りの所為だろうか。天化は微睡みの目をしぱたかせてから、ほう…と感嘆の息を吐く。ともすれば欠伸にもなりそうなそれは、燻した煙草の臭いを運んだ。
少しだけ熱を帯びた耳朶が発の胸へと重なった。
「アホか、ナイスガイだっつってんだろ」
笑い返せば、喉の奥に噛み殺した笑い声。指先が腿を滑る。そのまま声なく、天化の指は脛に戯れを移したらしい。
「……ずるいさ」
ぼくとつとした声だった。時たま彼はそんな物言いをする。
「へそ」
饒舌であり、刃のような独特の言葉を放つわりに、拭えない"少年"の印象は、それに起因するのだろうか。助詞の少ない──主語も目的語も省略される自問のような呟きを以て、天化の左手が発の下腹と戯れていた。
慈しむようにふざけるように、下腹に密生したものを目を細めながら何度か逆撫でにして、その目で下から発を見る。
「ああ、ギャランドゥがぁ?テメェにしかウケねぇもんだぜ、んなもん」
「……うん。だってかっけーもん、あーた」
胸へと額を移動する。
春の日だった。
あたたかいのだ。
毛布もいらない。
「……今日は素直だな」
発の足に引き寄せられた丸まった外套を腰に掛けられて、二人して粟立つ肌に首を竦めた。
「……んー」
微かな羞恥と、気持ちのいい気候、柔らかな白い外套。
春の風、吐息、戯れ。

隣の互い、滑る指に皮肉屋の口先と煙草の吐息。
手にしたいものは揃った筈だ。発の瞼がまた落ちる。
「……王サマ」
それは眠さ故か、見上げた天化のそれから逃れる為なのか、
「……あん?」
きっと互いに気付いてはいるのだろう。指は、くすぐったく腫れぼったい感情と笑いを、腰の奥に呼び起こした。満足気に笑う天化の口角も、眠気だろうか、幼い情欲だろうか──一度上がって、瞼と共にまた下がる。
誘っているのか、と、歯に衣着せぬ言葉も眠気に飲み込んだ。性器には辿り着かずに歩みを止めた指から力が抜けて、発の鎖骨を押し込むように、天化の額が強く寄り添う。
眠ったのか、と、意味のない言葉を問いかけて、発の唇は迷ったまま欠伸を一つ噛み殺す。春の風が、流れ損ねた涙を拐うあたたかな気配に、伸び上がった腕が少年の肩を抱いていた。

少しだけ髪を撫でる。彼が今するように、いつか自分が教えたように。
「……こんなのは、貫禄なんて言わねぇよなぁ…」
彼が弟にするように、自分が兄にされたように。
恋人を惜しむように。
指先は熱い耳朶を撫でて、そこだけ少し薄い少年のこめかみの毛を掻き分けた。顎髭と共に一つだけ唇を、
「……なんで?」
「あ?」
滑る唇が耳と髪を挟んで問いかけた。不思議と互いに目は見ないものだ。
「カンロクなんてーそんなん欲しがるガラじゃねぇっしょ、王サマ」
落としかけた口付けにもたげた頭がぶつかれば、徐々に圧力の隠った唇が、耳朶をくわえて呟いた。
「……るせ、寝とけ」
それきり天化の言葉はない。眉を寄せて肩を抱いて、耳元に揺れる発の息には微かに酒の香りが混じる。もう一度噛んだ天化の耳は、その歳よりも幼い味がした。
煙草の向こうに汗の香り。草のように甘い質素な香りがするのは、彼がそれしか口にしないからだろうか。腰にまとわりつく外套を引き上げて、互いの匂いに目を閉じる。発の目元を春風が駆けた。
「ん…っ」
目は固く閉じたまま、跳ねたのは天化の寝息。汗ばんだ額に唇を押し付けて吸い上げて、
「やっ……ぱ、いい、先起きるさ」
その気配に、少し遅れた声。罰が悪いのか目は閉じたままだった。発の指が外套の下を探り出すと、腿を滑る指先が無意識に爪を立てる。
「……うサマ、ん、」
鼻に抜けた声。甘え声。
指が硬い脈に打ち当たると、天化が膝頭を擦る気配。何度か外套から衣擦れの鳴き声がして、天化の指も発に伸びた。
「……朝のうたた寝ほどクるモンもねぇよな。気持ちいい?」
答えはなかった。眠さに霞んで届かなかったのだろう、何度か欠伸と情欲の狭間の声を噛み殺しながら、天化の頭が縦に揺れる。漏れる甘い吐息は煙草を纏って、膝と膝が不定期に擦れる。伸ばした指先と手のひらにずっしり感じる天化の重み。何度も何度も跳ね上がるから、こめかみの唇で押さえ付けて指先に力を込めた。
「──……ん、う!」
苦し気に殺す甘い声。恐らく天幕の外の門番も、軍の一部も、もう気付いているだろうことを。王と護衛のこの数年を顧みるように、天化の声は殺される。
「ふっぅ、う」
それを出せと促さなくなったのは、発が歳を重ねたからか。目尻にたっぷり涙を溜めて、天化が首を左右に振った。舞い上がる汗の香り、少年の身体、髪。発の腿を撫でる指先が小刻みに震えながら、──たぷん、と水の音がした。
瞬間に染まる赤。掛けられた外套がそれを吸い上げて、また水の音がする。今度は仰々しくとぷとぷと流れ落ちる音。
真っ赤に染まる寝台と、寝台より蒼白な彼を見て叫ばなくなったのは、発が歳を重ねたからか、
「──……寝とけ。起きて血ぃ止まってたらな」
「い、……いやさ!今日は──」
「だめだって、ほら。寝てろ」
そんなもしもがあるのだろうかと、何度も声を荒げて喧嘩になったのは数年前。今ではこうして、収まる場所は外套の中に作られた。
創ったのはどちらか、天化の目を瞼が覆う。
「……ごめん、王サマ…あーまたあんなモン見せちまって」
「お前が悪いんじゃねぇって何度言わせんだ。しおらしいお前なんて見たかねーの。わかる?」
常になった数ヶ月で、塞き止められた情事の数は知れない。溢れる赤に手を添えて、押し込むように蓋をした。
「王サ」
「いーからじっとしとけ。ん、ほらよ」
頷いて、目を閉じる。従順な天化と言うこの姿には、互いがまだ慣れていなかった。目を反らすでもなく、
「……はー……あったけぇ…」
「だろ?俺の愛って効くんだぜ?」
「あーゆーグロいの、あーたが一番よぇーのにさ」
「あいあい、どーせ情けねぇオウサマだよ」
膝を軽く擦りながら、天化が左右に首を振る。春のあたたかさに負けそうな朝。

「……王サマは?」
硬い天化の指が発の腿を滑る。柔らかい脈拍の向こうで、発が釣った目を閉じた。
「……ああ。気持ちいいぜ、すげぇ」
瞼を隠す長い髪に、天化の指が走り出す。緩やかに慈しむように、拍動を撫でた。
「ほんとさ?」
「ほんとほんと。俺がハッタリかませるタマじゃねぇって知ってるだろ」
「ああーうん、へへ、気持ちいい?」
「おう」
微かに頷き返すように固さを帯びる感触に、天化も釣られて目を閉じた。痛まない傷が痛む傷であったなら、発が言うように、もう少し慎む気にもなれるのだろうかと、首を竦めながら。
「なぁ王サマ、今日はさ……」
「後ろに欲しいってんだろ?起きたらな」
「いやさー今じゃなきゃ」
「だから目ぇ覚めて俺の息子も起きたらだって。そしたら抱いてやる」
「……なんか言いくるめられてる気がするさ」
「だって天化がバカなんだから仕方ねぇだろ、今更気ぃ付くあたり余計にな」
ドサリと腰に振り下ろされる蹴りの重みは予定調和でそこにある。それだけ元気なら大丈夫だろうと、切ない嘘を投げつけて、眠さに落ちる瞼で二人が笑い合っていた。上がる口角、皺になる眉間、皺に巻き取られて釣り上がる目尻と垂れる目尻。
彼が歳を取らないのだとして、どうにも対照のはずが似てしまった笑い方の癖は、重ねた月日なのだろうか。髪を上げた額に口付けると、塩辛い汗の味が待っていた。そしてまた、発の鎖骨は軋むこととなる。鼻先を機嫌よく鳴らしながらまとわりつく春の香りの肩を抱き締めて、発も首を上下に揺らす。抗いがたい眠気は、もうすぐそこまで二人を迎えに来ているようだ。

「王サマ臭い」
「……あ?」
「ん?ああ、王サマが臭いんじゃなくって、"王サマくさい"匂いがするさ。羨ましいさ、男らしくて。戦争が終わったら、一番に王サマとやりたいぐらい」
「好きだねーお前も。イヤイヤ言ってたのは何処のガキだっけな」
「だって、今のカッケー姫発さんとは一回もしてねぇさ」
「まぁ春だしな、戦争……」

"終わったらさ"
"終わらせたらな"

呟く前に、煙草の匂いの息が止まる。少し冷たい唇に、熱い唇をそっと重ねた。

使う言葉が徐々に食い違うのは、惚れ直す回数ときっかけの違いなのだと遊び人は笑う。
記憶の中で最後に好きだと告げたのは、もう一体いつの話だろう。わからないだけ共にいた。
「またさぁ、一緒に豊邑に帰ろうな、飲ませたい茶が残ってんだ。きっといい十年モノになってっからよ」

赤い外套を引き上げて、瞼が落ちる。春眠を貪るように、抱き合ったまま眠りに落ちた。口角は二人、同じ角度で。


end.


ずっと書きたかった牧野前の発天。
あの9ヶ月で発がどっと老け込んだ理由と、天化が切迫してた理由と。髭発は切なさも相まって難しいですね。連載にした発天途上郷〜より先に思い付いた話ではあるので、年度の区切りに悲願達成。
裏設定?は、たたない発と、溜まる若奥様天化

2012/03/31

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