カフェインの魔法




目の眩む眩しい白に、ほのかな淡い白。重なった壁紙に囲まれた小さな部屋に立ち込める、鼻をくすぐる苦味の湯気とあまい煙。煙草に手をやる天化両耳を占拠するのは、小さな小さな渦巻きを誘うミルの音だった。

「なんでそんなにしたいかわかんねぇさー」
「んー?」
聞いているのかいないのか、生ぬるいような返事はこの部屋の住人の声。ミルを挽く指の持ち主。しなやかな指が押さえる深い木目の土台に、陶器の持ち手がくるりと回って歩みを止めた。
「なにがって?」
「ん、ソレ」
決して広くはない一人暮らしの家具付きマンション、対面式のダイニングの向かいを顎で指す。ふわりふわり、漂う芳醇な深みに肺が染まった。
「ソレってなぁ」
釣った眉毛を少し下げて大きな口の端を上げて笑うその顔は、穏やかな匂いに満ちていた。俗に言う苦笑は、今だけ不可思議な幸福に変わるからわからない。目にかかる黒い髪もまた穏やかに回りだすミルも、このキッチンでしか見ることが出来ない不思議な発の姿。

昔のバイト先の先輩のその人も街を歩くその人もいつの間にやら会社勤めになったその人も、なにかと世話を焼いてくれるその人もお節介ともとれるその人も、とてもこの姿には結び付かないばかりだった。
「まぁ、愛情かけると美味いってコト」
ミルの中で徐々に小さく細かく生まれ変わる珈琲豆。包むように見守る眼は、このときにしか見られない顔。
ふぅん。
気のない返事がケトルの湯気に混ざる。
「缶でもショップでもなんでも変わんないっしょ。めんどくさー」
頬杖の左手に押し潰された頬が言う。
「ジョージアとかルーツとか」
そっちの方が会社員っぽいのに、なんてけらけら笑うこの大学生は、会社員のどこをどうトリミングしたのやら。

ならなんでこうして毎週末ココに飲みにきてんだか。
いるんだよなぁ、そーゆー違いわかんねぇヤツ。

言おうとした言葉はどちらも口の端に止めておいた。変わりに微かに笑い声を漏らしたけど、きっとミルの音に紛れて聞こえない。

「ほら、考えてみろよ」
退屈に眠たげな瞼がふと上がる。
「たまたま好きな街歩いてて、んで、顔もスタイルも服装もぜんっぶ好みの超ド級プリンちゃんがいるとするじゃん?」
「うん」
止まらないかと思ったミルの音が静かに終焉へ向かう頃。左手でケトルの下でくすぶる火を消した。目の前に現れる、透き通ったガラスの丸い影。上に乗っかるドリッパー。
この部屋にくればなんでもそろう。少量ずつ買ってきた何種類もの豆そのものだの、ローストする専用のフライパンだの、科学室にありそうなサイフォンだの。
小さな小さなアンティークのスプーンも。
「そんでよ、追っかけて追っかけて声かけたら、最初ツレない態度だったプリンちゃんがだんだんガード緩めるわけよ」
「うん」
無漂白の薄茶色のペーパードリップを折る指が白い。滑らかな曲線のそれは、すぐに湯気に隠れて見えなくなった。
「で、喋ったりふらふら歩いたり買い物したりしてるうちに、"あっれー、こーんな可愛かったっけー"とか思っちゃったりー、でも"ああーイメージと違ったけどやっぱいいじゃん"ってなったり」
「うん」
「後から香水の香り変わったりよ」

こぽ。
独特の音色で沸騰を待つケトルの中身が、ゆっくりゆっくり、しなやかな指に導かれてドリップに落ちた。

「いつの間にか違うトコ通ってんだけど、まぁなんだ……その方が結果愛が深まるだろ?ってハナシ。寄り道ってイイモンだぜ?」
「ふーん」
ふわりふわり。
立ち込める水蒸気の下で生まれたての荒い粒子が姿を変える光景は、何度見ても魅惑的で愛おしい期待に胸が満ちる。だから止められないのはカフェインの魔法。

「最終目的のモノがドンってただソコにあるより楽しいじゃんよ」
「最終目的ってさ、あー」
「そんな意味じゃねぇの!」

笑い混じりに否定する口から覗く八重歯の発が、首を傾げて手を止める。いるんだよなぁ、いつまでも良さがわかんねぇヤツ。これだからお子さまはー。今度は小さめのボリュームで呟いた。お湯の量と豆の香りの具合と泡立ち具合、点線を描いて落ち続ける豆の生まれ変わりたち。
誰もみんないい具合に、あまく深く苦味を持って、一滴いってき落ちてゆく。そう簡単には思い通りになってくれない我の強い豆たちを、好みに近く愛する楽しみ。その味と香りに支配される喜びに、そう仕立てた喜びに。
その味がたまらなく深みにはまる大人の味。

「ああ、わかった!アレっしょ!」
「んー」
「ダンジョン前で港行ってみたら隠しコマンドで武器もらえたみたいなさ、得した感じのアレさ!」

攻略本にも載ってないヤツで、あーでも俺っち最初に攻略本読む派じゃないかんね、それが余計にどうのこうの以下云々。満足気に目を丸くする向かいのソレが身を乗り出すのは大抵こんな着地点で、

「あー…まぁ、いいんじゃねぇの、それで。行ってみるモンだもんな」
「でも俺っちわりと最初の装備のまんまでレベル上げしてラスボスクリアの方が好きさ」
「んじゃーそーゆーことにしとけば」

しかたなさも噛み合わなさも、ドリップにたまる幸福のカフェインの匂いに紛れて昇る。
しなやかな指が導く召喚の呪文。
「ほい。タンザニア。」
指も一連の所作も深い香りも吹き飛ぶ幼い不思議な笑顔で、天化の目の前に大きなカップが現れた。
「あんがとー」
深く丸く包むような白い陶器のその肌は、発の手のようにあたたかい。三分の一に満たないカフェインと、暗黙の了解で注がれる大量のミルクの甘ったるい香りに、もう一杯をそろいのカップについだ発の口の端が再び上がる。とっくに予想済みのその事態。

「それもうカフェオレじゃねーの」
「いいっしょ別に」
「なんなら牛乳いるか?」
「ある?んじゃもらうさ」
「はいはーい」

どうにもこうにもわかっていない目の前の男に、笑いと湯気が揺れて消える。初めて振舞ったエスプレッソに"ケチくせぇ!"と目を丸くされたのも、しばらく本気でケチ呼ばわりされたのも、何故だかピザまんをふたつ買ってやるはめになったのも、今となれば馬鹿でイイ思い出だ。

「あ、さっきの話だけどさ」
「おう、まだなんかあるかよ」
「難攻不落の敵落とすって意味だったら俺っちも好きだかんね。わかるかも」
「俺…んなハナシしてたっけ?」
「そうだっけ?違うさ?」

難攻不落はお前だろ。
口の端が上がる。

「だったら内定の一個二個取ってこいよ」
「寄り道いいって言ってたじゃん」
「アホかお子さま」
「まぁ、そのうちなんとかなるっしょ!俺っち履歴書より面接の方が絶対実力出るし!」
「んじゃ面接行き着けよ」
「姫発さん雇ってくれたら早いさ。」
「バカ言えー!難攻不落の癖に」
「なにが?俺っち?」
「自覚あるんだ?」

沸騰したケトルの如く笑い飛ばそうとしたそれも、芳醇な香りと共に白いカップに閉じ込めた。鼻がひくりと微かに動く。代わりに吐き出したのは感嘆の溜息。

「あー……うん、イイ感じ。」
「へー?」
「今日ちょっと深めに淹れたんだけど、思ったよりゃ上手くいったかな。」
開いた左手が長い前髪をかき上げた。
「ふぅん」
ほとんど白いカップの横で口に咥える白い煙草に、発の口に含まれた珈琲がふきだす一歩手前の爆笑直前。

「だからさー!お前ソレが珈琲の味消してんだって!絶対そう!ってか苦いの好きなの嫌いなの?」
「苦くないさ、メンソールだから」
「ああー…そんな問題?」
せっかくそろえたお気に入りのソーサーが灰皿になることも、とっくに予想済みで経験済みの事態で、笑いが零れて止まらない。
「つーかよ、それで珈琲ショップが禁煙なんだって知ってる?」
「ここショップじゃないさ。あんたんち。」
「だから!お前専用にトクベツに許可してやってんの。わかる?俺の気遣い?」
「うん。」
「どこが」
「禁煙じゃないからっしょ?ああ、ごめん換気扇回すさ?」
「……ばっかでぇ!あー!もういいや」
「なにがさ?」
「なんでもー」

堪えた笑いがころころ零れる。湯気と苦味と深みと甘みと、ほんのすこしの酸味を共に。

「なに笑ってるさぁ!」
「しらねーぇ」

知らず知らずつくられるカフェインの魔法。ふたりでわけたアンティークのスプーン。
ドリップに残った一滴のしあわせが、ぽたりと落ちた昼下がり。

「俺よ、胃に痛いぐらいのブラックが好きなんだけど」
「ふぅん。……ドコがいいんだかサッパリさ」
「そーゆートコじゃねぇの?」
「だからドコさ?」

あからさまに首を傾げる年下のメンソールへヴィースモーカーが、小さい荷物片手にこの部屋にやってくるのは、きっとカフェインの魔法。
ぽたりぽたり。君としあわせの中毒になればいい。



end.


ただ豆を挽く発を眺めたい中毒は私…(笑)
2011/01/08
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