長月の夜(*)




長月の夜だったか。見た目にゃキレイにくっついた腹の風穴に、秋風が凍みる夜だった。あれがもう卯月のことで、化膿だの壊死だのに心労を費やした夏も過ぎた頃。
「あーあ…」
南に面したこの窓から望む朝歌の街に灯りが灯る。一つひとつが弔いの灯だった時間を過ぎて、徐々に戻ったらしい確かな実感と活気を以て、それが家庭の灯に変わる。今や俺が直接望めやしないその街を、そういやぁアイツも見られなかったんだな、と思った。悲しいとか可哀想だなんて言う訳じゃねぇ。なんつーかそんなタマじゃないから彼処に昇ってったんだろ?だってそもそもそれでこそアイツじゃねぇか。だからそう、ただ事実として、アイツが見ることの叶わなかった平和な朝歌って奴に存外驚いたんだ。寧ろそれって拍子抜けって言っても間違いじゃない。虚無だのなんだのは、こんなになるまで歳を重ねても難し過ぎてわからなかった。

明日も続くんだろうか、明日も明後日もその先も。
キレイに片付いた筈の腹が秋風に傷む日で、朝歌は平和だ。周はもう此処にあるんだ。──いいんじゃねぇか?もう。俺の仕事ってのは終わったんじゃねぇのか、ひょっとして。
腹の真ん中を押さえた右手に、手に馴染む湿っぽい包帯が少し。そういや血が出てるのは久々に見たかも知れねぇな、とか、なんてな。もういいんじゃねぇか、俺は。ゆっくり下降した手を左と同じ位置にぶら下げて、どさりと寝台に腰を下ろした。沈む感覚。落ちる胃の感触。こりゃー無理ってもんだろう。いつもなら戸の外にいる筈の護衛も侍女も官僚も、戸の内にいる筈の旦と邑姜のインテリカルテルもいない。ああ、そう言う訳なんだって思った訳よ。絞り出して誰かを呼ぼうとした声は、それこそなにかに阻まれて出てこない。文机の上の書簡の山だって今日の分は片付いて、明日からも今日より増える予定はない。
平和だからだ。
そっかそっか。目を閉じたときに感じた虚無ってのは、諦めることに似てんだな。初めて知ったぜ。
きし、寝台の脚が軋んだ。長月の夜、月が赤い夜だった。くり貫かれた漆喰の窓から通る風の匂いが、ずっと昔の秋の匂い。
きし、……ああ、そうか。

恐る恐る感じていた、でもいよいよ確信した背中の温もりに、軋む程かけてみた体重。頭を反らせても枕みたいに支えるそれが、俺とソイツとやじろべえのどんぐりみたいだった。
「……久しぶりじゃねぇか」
押したら押し返された後、背後のソイツが受け入れる。
「へへ」
懐かしい秋風に、カチカチ火打石に似たジッポーの音。紫煙が昇ってった気がして、振り返りはしねぇけど、
「来て早々それかよお前」
「あんたが早々に来ようとするからさ」
「うるせ」
押し返したら押し返す。その重みがなにより胸を楽にした。振り返らない煙草の匂い。
「煙草くせぇし汗くせぇっつの!湯浴みしろっつってんだろ」
「嫌いじゃない癖に」
「まぁな。そりゃあよ…」
確かにその頃のソイツの匂いに、見た目より広い肩甲骨と、その上の硬い突起が二つと一つ。銀のつくりボタンか。
「好きだねー、勝負服一張羅」
「デニムもさ」
「ああ、んじゃあ…」

バンダナも?

振り返らないと言い聞かせたような気すらしたその気配の後ろ頭で、小さいしこりになってる布切れを解くのが俺はなにより好きだった。──違う、好き、なんだ。まだ、そうだ──
至極当然とばかり振り返った唇で捕まえたバンダナの隅を引っ張れば、これまた当然、予定調和で柔らかく解けて落ちるバンダナ。
「……天化」
ぶつかった目と目は、変わらない長月に光る翡翠。ともすれば空と化して消えそうな、悪戯っぽく満面の笑みでまんまるになるそれが好き、で、
「王サマ随分老けてんね」
「おう、ナイスガイだろ?」
バカみたいに笑ったらその目がぼやけた。塩辛い唇の味とぶつかる鼻の頭の高さが妙に懐かしくて、見えないのは俺が泣いたからか、涙を見せやしない天化が柄にもなく涙ぐんだからか、ただ重なってるからなのか図りかねる。途中でそれも放棄した。馬鹿馬鹿しい、考えるのは昔っから性に合わねぇんだっつのちくしょー!
夢中で追い掛ける息苦しい生々しさは、確かに天化の味だった。何十何百か知れない数の甘いキスも深い口付けも記憶の隅に流され通しで、ふと思い出した初めてのキスに似てた。多分。
「……っは」
呼ばれる名前が好きだとか言いながら結局塞いじまいたい衝動は、酷く生臭くて嫌いじゃない。血生臭いあの嫌悪じゃない、求めて止まない荒い息。
半身捻った俺の手が頬を挟む頃には、あの節くれ立った手で乱暴に頭を引っ張られてる。
「…それが病人にする仕打ちかよ」
「ケガ人さ王サマは」
いやそうじゃなくてよ。言いかけて言わないのは唇が欲しいから、また見えなくなって重なった下唇の前で、熱い吐息に包まれた。気がつきゃ秋風に包まれた腹の血も止まったらしい寝台の上、
「……大体強がり過ぎさ、カッコつけ。王サマは嫌だ死にたくねぇっつって泣いてなきゃ」
「なんだとこら」
「じゃなきゃあーたじゃねぇさ馬鹿」
小突いた頭に小突かれた額が合わさった。──ああ、あのとき泣いたのが俺なら逃げろと叫んだのが天化。強がりの遠吠えで見栄張っちゃ笑われて、堪えたら背中を押される。いつもいつも、泣くのはコイツの前だったっけ。必死に似合わない強さを追い求めたのも、変化を切望したのも、手を伸ばした理由も届かないまま引っ込めた理由も全部──
無音の部屋に秋風の音、虫の声、枯れすすきに薪が跳ねる。
「ひゃ…っうサマ、ヒゲ!くすぐってぇさヒゲ!!」
「うりゃっ」
「いーやーさ!ザリザリする!」
「てーんーか!」
どうにもこうにも10年を経ちまった遠回りの子供の声で転がり回りながら、埋もれた首筋の匂いに酔う。ヒゲがヒゲがでひとしきり暴れた声が、小さく艶めいた吐息で答えていた。もう一度吸い込んだ温もりに口付けながら、絡む指と指。例の一張羅がはだけきった胸元は汗に濡れて、俺の掌を吸い寄せる呪術みたいだ。髪が掠める耳に口付けて、また戻った唇が、あ、とだけ簡素に震えてた。煙草の火はいつの間にか天化の指が揉み消したらしい。
「……──」
息を飲む程、神聖な姿だったろうと思うんだ。実際問題そうである、っつーのは後付けでよ、
「…いいか?」
「ここまでしといて聞くかね」
だよな、そりゃそうだ。
もう一度訪れた初めてのようなその神聖な時間の中で、今日で最後さ。わかってる、それは。いつもいつも背中を押すその声が、いつもより頼りなく言うからさ、最後にするしかねぇじゃねぇか馬鹿。
「わかってら」
すいた髪が白い絹に散らばった。
「刻んどけよ、ちゃんと」
「当たり前さ」
頷きながら夢中で絡んだ唇は、夢か現かわからない。見た目よりゃ固くて歳より子供で、当然女と違う焼けた肌が散る。俺の掌で。
「……っふ、…」
天化。天化、天化。
どうしてこの肌がこんなに吸い付いて離れないのか、笑ったらひっぱたかれた後頭部にこりゃ現実だ、夢じゃねぇや。俺の手が割れた腹を滑る頃に、背中に回った天化の右の指が、うなじから尾てい骨までなだらかに落ちてきた。左で髪を撫でて、こめかみと耳と首筋と。やっぱりヒゲは笑い所かこの野郎!生意気な鼻を噛んだら胸が反って、指が俺の胸を突いていた。思わず漏れた声に満足気にくしゃくしゃの顔で笑う。そう、コイツはなんだかんだ執着もすりゃあ独占欲が強いんだ。思い込みも激しけりゃ一度思ったら絶対曲げない──なんだよ、一途ってことじゃねぇか。
「愛されてんだなぁ俺」
「今更さ」
「ったく素直じゃねぇな…」
泣きそうになる胸の苦しさを噛み殺して触れたソイツは、初めての刻より妖艶に、重ねた頃より幾分幼く、月夜の下で身を震わせていた。
離れたくない。
浮き彫りになる本音は言えない。それを承知の互いだから。最後の唇を確かめながら呟いた愛の言霊は、我ながら卑怯だけど嘘じゃなかった。ひとつも。長い長い息を吐き出した唇が、同じことを言っていた。

「いつまでいられんだ?」
「月が沈むまで」

そんじゃあまだ丸々二刻あるんじゃねぇかよっつって、少し傷む腹を抱えて二人で笑う。バンダナが朝日に消える前にどうやら幸せな夢から還されたらしい俺は、また明日を迎えることにした。
あーあもう、サイッテイの別れ方だろ俺らよ!

そういや今日から神無月だと空の色が背中を押した。



end.




降りてくる天化リターン。
きっと後世には「その時武王は天より神託を授かったのである」なんて伝わったりする夜妄想。

2011/09/26

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