一か八かの審美学




ひょんなことから、と笑うその口が、力いっぱいへの字に曲がるまでに大して時間は要さなかった。あっけらかんの青天の下で、
「ほんとにあんた…」
「今度ばかりは勝つって思ってたんだよなぁーっ。確信つうの?」
その点じゃお前の方がわかる感覚なんじゃねぇの、なんて笑う町民が城の裏口で上体を屈めていた。小さく息をひとつお供に、潜り抜ける真夏の草いきれ。反動で空になった肺を一杯に満たしていた。――隣の煙草が眉をひそめる。一瞥した高い背も、煙に向かって苦い顔。
翌朝帰りにならなかったことを褒めるべきなのか叱るべきなのか、毎回毎回胸につかえていることは、誰にも告げた覚えはなかった。
「んで、一体なに賭けたんさ?」
「一日王様権」
「へっ……」
劇的なものでもなんでもない、感心するでもない。潜り抜けてきた戦場での驚きよりも、事も無げに頬をかくその人の笑顔に声を失った。少年の煙草の灰が回廊の隅を焦がしてもなお、向き合ったままの無風のが過ぎる。
「いや、そりゃー流石にまずいって思ってよ」
「当り前さ!なに言ってんだかこの王サマは…スースに言」
「それは大丈夫だ心配すんな!その賭けは流れたんだ」
喜んで良いのやら、事の起こりを責めれば良いのやら。身を翻しかけた一回り小さい護衛の目が、バツの悪そうに泳ぐ猫目とぶつかった。
「だから別のものに変えてもらったんだけど、それっつーのが…」
とうとう腰に左手を当てて反対の人差し指を唇の前に突き立てたその彼は、
「なにさ?」
「"遊び人発ちゃんのバックバージン"!」
狡猾さに含んだ媚と溢れんばかりの笑顔と八重歯で、ご丁寧にウインクも忘れない。
「アホかいあーた!」
「……っだよなぁあ!?馬鹿だよな!?無茶だよな!?」
「ほんとに無茶さ!あんたなんか賭けたってなんの得もねぇのに!」
「いーやマジで言っちまってからこりゃもっとまずいって思ったね!今回ばかりは俺でも無理だ…」
すっかりオーバーアクションで回廊の飾り柱に両手を付いて項垂れる黒髪に、呆れ果てる赤い月が差し込んでいた。
「大体いつも無理しかしてねぇべ」
一段と低く響いた一言に、もう一度頭が低く垂れ下がる。共に吐き出す溜息に、馬鹿馬鹿しいくらい迷う指先と唇の先。当然のように一人のそこは煙草に占拠されていて、その状態でなかなかに饒舌な手の内を繰り出してくれることが意外と嫌ではなかったりする。そんな胸の内を言ってやることはないんだろうね、と、白い指が前髪をかき分けていた。
「最初はその手の趣味のプリンちゃんならまーいっかとか構えてたけどよ、張り型片手の美脚スリム?ってのが…まぁ……そうも言ってられそうにねぇし…」
「……んで、」
「おう、なんかあるかよ打開策!」
「それ。って、なにさ?」
「え?」
「え?なんか上等なモノだから今更困ってんだろ?王サマのモノなのは雰囲気でわかってるさ」
ころりと転がした黒い垂れ目に、もう一度柱を抱き抱えた姿があった。
「最悪それを質に入れるとしたらいずれ買い戻せるっしょ?あんたが真面目に働きゃー」
「おまっ……質に…知らねぇ?ああ、知らねぇんだ?はぁーオコサマは」
「だからなにさ?」
心底怪訝そうに首が左右を行ったり来たり。彼の考えることに対する癖なのだろうか、時たま見せるそんな仕草も、
「そうやってると可愛いんだけどなー、天化」
彼に言わせればそんな所だ。
「それで、だからなにさ?」
「うん?ああ…そんな可愛い天化をよ、抱いちまったりしたいって」
「……は?あーた頭おかし」
「おかしくねぇよ」
――驚愕したのだろう。心底驚くと声が出ない、呆れると声が出ない、そんなことを今日知ったのだろうか。動かない黒髪とバンダナの唇のすぐ近くを、町民の笠懸の衣擦れの音が浚っていった。足元の古い煙草の亡骸が、ジリジリ回廊の隅を焦がして。
「……王サマ?冗談が過ぎるさ」
「冗談じゃねぇよ…ずっとお前とそうしたいって思ってたんだ、天化」
「…あんた、嘘ばっ」
「おう、こんな感じかな!」
「……へぁ!?」
抱きすくめて耳元で懇願していたと、思った声が明るくカラフルに解放された。今だ見えない前髪の雲間の発の目を読み取ることは終ぞないまま。
「って、まぁこんな具合で抱かれて食われちまうお初!が、バックバージン?」
「王サマあんたマジで一回封神されるがいいさ」
「いやん天化ちゃん!さっきはあんなに可愛かったのにーぃ!」
「王サマ!!」
笑い声に翻る背を蹴りつけて、
「っわだああぢぢぢぢぢぢぃ!!!」
煙草の亡骸は元持ち主の手によって、居場所を服の背中に変えたらしい。ジタバタ暴れる大きな手足を一瞥して、風よりは乱暴に走り消えるその少年が。
「……っくしょうもう知らねぇさ王サマなんて!」
紛れて消えるように消えるように、噛んだ奥歯と唾を吐く。それはまるで最前線の戦闘のように色鮮やかで、憎々しい矛盾に満ちて。踵で蹴った庭石はきっと姿を変えている。それ程強く高くに跳んだ。

脱ぎ捨てた上着に残された主が一人、柱に背を押しつけて、
「……あれって」
幼い幼い火をもみ消していた。
「…ちくしょ…なんだってんだよアレは…!」

なにに腹を立てたの?
腹を立てる要因が多すぎることに今更ながら項垂れた。赤みを増す月に白い煙で目が霞む。もう発の前に生きのいい煙草はない筈なのに。そんな匂いも知っている。月は知っている。
見えなくなった背に浮かぶ数々の疑問符が、それでもどうして自分に有利な形に働きかけようとするのか。
思考の渦に歩みを止めるのはなにより苦手な筈なのに。
「天化!」
纏まらない。そもそもそれを纏めるのは得意じゃないのだから仕方はないだろう。呼んだ名の持ち主と過ごすようになった数ヶ月で構築した止まらない思考の道は、結局みなそこに辿り着く。
「天化」
結果ある一定で読むことが出来るこの関係――ひとつ。怒っているときの護衛は、少しの距離を置いて主の目から見えない場所にいること。
「なぁ……俺が王様権利取り下げたの」
そして恐らく、悲鳴も話し声も笑い声も届く範囲内。
何処にいるかは暮れた闇の中だった。相手は修行中とはいえ一流の剣士だ。きっと己の気配も消して、人の気配も読むだろうこと。これでふたつ。何時もより幾分強く叩き付けていた熱風も、今は也を潜めたようで、
「……お前が……天化が、他のヤロー護衛するんじゃ嫌だったから」
柔らかく包み吹き荒れる。夜の雨の独特の声。
「って言ったら、怒るかよ?」
みっつ。返事はないだろうその雨音が、ふざけて引き寄せたあの背の心拍と同じ速さで歩んでいるらしいこと。
「あとのはアレだ。…完全にノリで言っちまったけど!」
言って歩き帰る道があるだろうか。こんな局面で臆病になる、大枚を賭けた一夜の博打は打てるのに。そんなことを繰り返し呆れ顔で咎めるであろう四を数える隣の顔を、もっと間近に見たいと言ったら、やはりなんと怒るだろうか。
「……さっきお前に言ったのは、八割マジってとこで」
「ほんっとに馬鹿さ王サマ!!」
降り注いだ声は雨音の伝う屋根を踏みつけて、暗闇の頭上に消えた。
「やっぱ都合良いよな…」
膨れて告げる口元が言葉と裏腹に綻む。
予想よりずっと近くに存在していた後姿の、耳と肩口に現れた朱を認めて。戯れの声が届いていたこと。
肝心の言葉は結果また回り道する。
「ああーでも明日の夕刻までにバックバージン…」
「そこはマジなんかい」
今一度屋根の高さから腹這いに覗き込んだ黒い垂れ目に、今度は発の肩が息を忘れていた。
「えーっと…なにやってんのお前」
「他にそれまでの間に違う内容で賭け成立すりゃーいいってことさ?」
「まぁそりゃそうだけど、引っくり返せる分だけ上乗せだろ?」
一体何処から戻ってきたのだろうか、どの意味での心配をされているのだろうか。それとも勝負事と賭け事のさじ加減だろうか。喜びと安堵と気恥ずかしさを混ぜ込んだ風が、張り詰めた回廊を駆け抜ける。
「なんか他に手ぇないもんかね」
「……なぁ、天化」
「うん?」
持ち上がる隣の目に風が吹く。ぴりぴり、頬に紅の蜘蛛の巣が這う。映る夜空の星なんて小さすぎてはかり知れない無限の哲学で、劇的でも美的でもないのに。驚いたら声が出なくなると実戦でもって知ったのは、今の瞬間が初めてだろう。

長く長く、上唇と下唇が重なった。細くたなびく息を鼻と口に感じて。知ることのなかった角度と高さは、回廊と屋根の差分を加味してもまだ不可思議な距離として胸に残る。風の色、雨の音、唇の音。見下ろす目が薄く閉じて背伸びの目が細く微笑む。特別柔らかくも固くもないその二つが重なるだけで、ついには笑いが込み上げた。
「今度はなんの賭けさ?」
「お前だって拒まなかったろ」
また近付いた唇を、目の端に受け止めて。
「天化、やっぱり……好きだ、すげぇ好きだ、ごめん」
「……なんでそれを謝るんだかわかんねぇさ」
暗闇でも幾分赤い頬と笑い声の狭間で触れる唇は、また次の声を待っているだろうか。順番が逆だからだと理由を告げた口の先で、手に入ってればいいんじゃんと返した煙草の味のもう片方。軋む回廊に窓枠が鳴き、月が傾く雨の匂い。間近で感じる唇の色とまつ毛の水滴、重ねた厚みと少しの水分が、たまらなくくすぐったくて愉快だった。
「王サマって、」
「あ?」
「発、なんちゅー縁起良い名前くっついてるけどさ、散財してばっかでなんも残っちゃねぇじゃん」
「そうかぁ?っつか今言うかよソレ?」
「んー…だからしょうがねぇっしょ、これ以上散財しないようになら手ぇ貸さなくもないさ」
「ふーん、言うじゃねぇかよ」
「うるせぇさ名前負け」
煙草の味の苦みが甘く、甘く、回廊を包む夏の空気に何処となく遠い木犀の香りを感じていた。安堵と焦燥の混じる香。堪らなく居心地の良いその場所で、明日もくだらない話が弾めば幸せだろう。
「まぁ…名前負けしない程度にゃ恵まれてるつもりなんだけどな」
「なにのんきに言ってるさ借金王」
「お前がいるじゃん。俺の審美眼潜った極上天化ちゃんだぜ?」
「……っ――、あんたは目も頭もどうかしてるかんね、前言撤回しとくさ」
甘い甘いその香りは吹き荒れた風に浚われて、尖らせた幼い唇に消えていた。日々は変わる、刻々と。幼さと安堵と切なさと、泣きたくなるような細やかな幸福と、軽口の喧嘩を乗せて。
「ああ、明日の賭けだけどよ」
「いっちょ考えたけど、その時点で王サマが初めてじゃなくなりゃ済む話さ」
「いや、それは違うだろちょっと…」
得意気な顔で首を傾げるその肩を抱き寄せて、
「それとも抱きたいって?」
耳元に溜息を落として頬を叩かれるのもきっともう知っているのに。
「なこと言ってねぇさ!」
頭を抱えて抱き合った天邪鬼が二人、回廊の煙草を踏みつけて笑っていた。
押せば推して引けば惹く、賭けに始まるそれも恋。


end.


中国における数字の概念。
8:八が発の発音と似ていることから、発=「発材」「全ての富」「恵」の意味があり、今も中国全域で愛されている。

10:審美の全て。この世で最も美しい完全なる魂と美。
発と天化は愛されまくりで祝福されているんだね。

本日夏コミにつき、ビッグサイトに行けない方にも届け発天全国へ!

2011/08/12
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