約束




よく晴れた日だったろうか。記憶の中に閉じ込めておくには随分と拙くて、抱き締めるには酷く幼い危ぶむような恋だった。

何度呼び止めようとも決して振り向くことのない背。初めて目に止めたその瞬間から、まさに青天の霹靂の如きその存在と目まぐるしく駆け抜ける日々の色、風の音。たった一つの小さな希望をたった一人の手に託すそれは、ある種の賭け事に似ていただろうか。
升目を敷いたように几帳面に並ぶ白い天幕がたなびく砂の地で、吐き出された煙草の煙が雲に混じって揺れていた。
「天化ー」
こと退屈が苦手なこの付け焼刃の白いターバンが白く煤けたバンダナを追い、脚を運ぶ行軍の地で、
「てーんーかっ!」
その光景に疑問を持つ兵がいないことが寧ろ本来の問題である。それだけ人々に溶け込んでいると言えば人望を伺わせるだろうそれも、
「天化ってば!」
軍師と軍師代理、側近の護衛に口々に"自覚がない"と言わしめた。雲が流れる青い空気を、胸一杯に吸い込んで。
「天化!」
「っわ…ッ!!」
抱き締めた数歩先の黒い革が予想以上に跳ね上がる。
「…なにさ」
「聞きたいのはこっちだっつーの!……なに怒ってんだよ?」
見た目より筋肉の躍動を告げる首元も腕の中のその腕も、なかなかに異質な殺気を放っているのは戦闘の直後だからだろうか。振り解かれるだろうことも予想に入れた背が、案の定先をゆく。
「別になんでもねぇさ。」
「なんでもなくねぇだろ」
「あんたも好きさね、変なとこばっか勘繰るの」
引いて歩くその両肩に両手を乗せて、白い外套が引き摺られる。
「てーんーかー!」
大きく上がる時の王のその声を、日常と受け止めるそれが甚だ疑問の筈だったのに。天化、てんか、繰り返す声は耳慣れて、気にする者がいないのだろう。離すさ、とだけ微かに動いた上唇にとうとうターバンがしな垂れて俯いた。
「――……てんか?」
「っひゃ…―!!」
「なんだ、声出せるんじゃねぇかよ」
吐息を孕ませた耳元の声に裏返ったその刹那、反転する身体が地平線に突っ伏していた。投げられた、そう認識するまでの時間も随分と短くなったものだ。
「あんたいい加減にしないと……」
「あ」
持ち上げる顔に見下ろす顔。
「やーっと顔見た」
「……っ」
伸びた黒髪の隙間から自信満面に持ち上げた口角と細める釣り目に俯く顔。
「天化ちゃーん?」
一瞬の形勢逆転は、恐らくこのターバンの確信犯だ。言葉を詰めて睨みつける仁王立ちの目は、太陽を背に読み取るには叶わなかったけれど。
「んで?……っと、その、捕まったのは悪かったと思ってるよ」
砂の時計に埋もれていたのがまだ数刻前。深刻な言葉を事も無げに言ってしまうのもこの二人の悪い癖ではあるだろう。何度も続いて直そうにも直らない口喧嘩の発端も大抵そこが出発点だ。それでも煙草が頑なに首を横に振る。
「……んじゃ、あれだ。妲己ちゃ…あ゙ー…」
音を区切って立ち上がった二本の脚は、いつの間にか長く影を携えて。右の手が忙しなく髪と顔をかきむしるのも、恐らく癖。
「妲己にへらへらしてた。――ごめん」
踵を返す黒いジャケットが三歩先の砂を蹴る。煙の量が増えるのは、確実に増している彼の怒りの分量で、それもきっと減らない癖だ。
「天化、ごめん」
「謝る相手間違ってるっしょ」
「……だよな…」
歩き続ける黒いブーツの先。続く頭を垂れた赤のヒール。
「なんつうか…いや、悪かった」
「そんなことで怒っちゃねぇさ」
「だよな――って、え?なんだよそれ!」

変わることのない歳を取らないその存在が、歳を重ねるのだとしたら。

「……もう、妙な心配させないで欲しいさ!!」

振り返ったその目に籠った力を、重ねた月日と呼んで良いのだろうか。

「そりゃあ妲己のことは腹立ったさ!けどそんなのはスースだって楊ゼンさんだって同じさ!」
「……おう」
「捕まったの心配してんのは周公旦だって南宮克だって一緒さ!」
「…うん」

一際高く、煙が昇る。ああ、

「ごめん…天化、ほんっとごめん…」
力強く見据える両目を、胸の中に抱き締めた。それはきっと包むように縋るように。宥めるように甘えるように――
「……護れなくなったら、俺っち失業しなきゃなんねぇのに」
「そうかよ」
「そうしたらオヤジも一緒に失業でウチの一家困っちまうさ。天祥もちっこいしよ」
「はいはい」
吸い込んだ煙の味は、砂に混じって苦みとなる。
「――ごめん」
「護れないで亡くすのは」
「うん」
「もう、絶対に嫌さ」
少しだけ力の籠る血に濡れた指先が、外套の端を捕まえていた。赤い袖の先から見える白い指が回された橙の肘を這う。愛しいとはどんな気持ちの総称なのだろう?
「絶対、先に逝ったりしねぇから」
言葉よりも固いであろうその意思も、言葉よりも幼いであろうその思考の癖も、叶わぬ子供の約束も、
「当り前さ!」
「……ああ、そんなことよりお前が強くなりゃーいいんじゃん?」
「当り前さ!」
「うわ、可愛くねぇ!」
「大体王サマがヘマしてちょろちょろ捕まるから面倒ばっか起きてんのに!」
強がりと建前と、照れ隠しと天邪鬼と、
「わーったよ」
「わかってねぇさ、その言い方」
ふざけながら抱き締める度に恋を知る。幼さを知る。今を知る。梳いた髪は確かに成長途上の男の髪で、指に刺さるその固さこそ望んではいない性別のもの。
「口ばっかで行動伴ってねぇんじゃ民に愛想尽かされるかんね」
「そうなったらお前が好いてくれてりゃそれでいいや」
ふざけた口も一回一回染まる頬と跳びはねる肩は、どうにも望んだ彼のもの。
「……そーゆー冗談は休み休み言うさ」
吹き荒れる砂と共に回された腕が引く外套の重みは、きっと忘れることはないだろう。見上げた空は今日も青く降り注ぐ。誰もが皆見失わないように、あたたかく厳しい面差しをたたえて。

「口約束ってのもなんだからよ、この後ちょっと」
「調子乗ってんじゃねぇさ!!」
突っぱねた腕と吹き飛ぶ頬は何度でも見た光景で、疑問など誰もが彼方に放ったこの戦場。
「……ひでぇ…愛がねぇ」
「……そーゆーのは、」
ひとしきり騒ぐ外套を引き寄せて、
「ちゃんと夜まで待っとくさ」
困りながら耳元で密やかに囁いた少年の声を聴いた者は、歴史の渦に数少ない。
然る後に漸く触れた唇は、消えた灯の中で確かに震えて温もりを告げる。

「やくそく」

解けて落ちた煤けたバンダナとしなやかにたわんで包むターバンの先が、蹲った寝台の上で息を潜めて見守っていた。
「絶対、逝かねぇからよ」
ひと時の寝顔に告げたその声を、幼い自覚の芽吹きだとして。
記憶の中に閉じ込めておくには随分と残酷に鮮明で、抱き締める度に命を知るそれがたったひとつの恋だった。微笑む目尻に確かに幸福な皺を刻んで、今日も外套は煙の如くたなびいている。
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