上弦の月




漠然としたなにか。なにとはなに?一体なに?その正体が掴めるのなら、きっと、不安なんて名のつく言葉はこの世に降り立つ筈がない。生暖かい風がそよぐ月の夜。
実態がわからない。状況がわからない。突如として降って沸いた激動の日々に転がされる自分の姿は、きっと本来ではないだろう。なら本来とは?兄が逝き、父が逝き、なにもない己だけが残った。吹き荒れる風に埃の匂い血潮の舞い。月がただ見ている幾夜の矛盾。

「……――」

言葉にはならないまま、発の指に絡められた黒髪が数本風に紛れる。城の屋根から見上げる青白い赤い月は、胃の付け根を掴んで離さない。
「不味いよな、やっぱ…」
傾けた杯に、軽く軽く口付けて離した。湿らせるなんてとんでもない。潤うなんて夢でも御免だ。焼け付く発酵した芳醇な匂いがなにかを思わせる。なにとはなに?皮肉と血肉と、富に権力。なにも、なにひとつ、出来やしない躯を煽るだけの気まぐれとはぐらかしと、そんな甘えに自嘲した。あーあ、とでも溜息がつけるのなら。
「なーにやってるさ?王サマ」
つける溜息の暇さえ与えられないこの夜に、口角を上げた護衛が軽々屋根に飛び乗った。
「あん?ああ、息抜き。お前も飲む?」
社交辞令でなければなんなんだ。どうせ護衛中だからと引き下がるだろう幾度と繰り返したその影が、
「んじゃ」
斜向かいにふかす煙草の煙。影だけがただ寄り添って重なって、王たる自分に杯を差し向けた。
「汲めってか」
「ん?」
悪びれる風もなく首を傾げる童顔なその道士は、傷だらけの顔で笑う。――強くなりたいと。いつものことだ。
「王サマ、なんか悩んでるんかい?」
「はぁ?なんで?」
みなまで問う馬鹿を斜向かいに、影を隣に。嘲た肩が風にすくんだ。見上げた半月に重なれば散って逝く、煙草と命の火と煙。なにを?漠然としたなにか。自分はそんなにも不満やら不安やらと名のつく感情を振りまく顔をしているだろうか。聞こうとして、聞くまいとして、術を失った。漠然としたそのなにかの正体すら掴めないまま杯に映った自分の顔は、皆が言うほど父にいているとは思えない。腕だって指だって髪だって、笑い方だって声だって泣き面さえも……
「王サマって、月が欠けてるって思うんさ?」
「……なんの話?お説教?」
目を合わせないまま翻る声に、煙草を咥えた唇からんーん。くぐもった声がした。
「三日月見たとき、残りが見えないから月がないって、月がつまんねぇって思うさ?」
「…いや、別に考えたことねぇや。そーゆー難しいの。だって俺仙人じゃねぇし」
嘘ばっか!軽く親しげに笑う声が聞こえた気がした。
「満月の日はお祭りじゃん」
「ああ、だろうな」
「でもさ、朝んなったらお月サンは眠りに行ってお天道サンが起きてきてさ」
なにが?なにとはなに?漠然とした、正体のない気持ちに重なる声は飄々と、ふわりふわり、月夜に戦(そよ)ぐ。発の唇が杯に吸い寄せられた。
「その沈んでる間も、三日月の見えないトコも半月の見えないトコも、全部同じお月サマっしょ?姫発サン」
「だーかーら!もうなんの説教?酒不味いじゃねぇかよー」
「ひひっ、いいじゃん不味くても」
「アホか!なんかツマミねぇのー?つまみつまみ!!」
少しだけ無理に上げた右の口角、差し出した杯に注がれる酒。飄々と幼い傷だらけの顔に、漂う煙草の命の灯火。どうやらようやく開放された胃の付け根は、喉を通る酒と唾液に軽くなる。
「桃でも持ってくるかよ」
「盗みの盗みかい、酷い王サマもいたもんさ」
「バカ、うそだっつーの!」

笑った自分はきっと少しだけ父に似ているのだと思った。

漠然としすぎて広がりすぎて、とうとう正体を掴めないものが溢れ出す月の夜に。斜向かいのその躯を、重なる影を、交わす杯を、笑う傷だらけのその顔を、泳ぐ黒い髪を、これ以上血に濡れぬようにと。ただただ、胸を満たす傾いた杯。
理由はきっと、父のそれとは違うのだろう。風に紛れて消えそうなその大きな笑顔は、腹立たしいまま掻き抱きたい、乱暴にも似た正体すらない感情を揺さぶるその人で、それでもきっと。

「ほら、いい月見酒さ」

眉間にくしゃりと皺を寄せて笑うその無骨な幼い指が、発の眉間を突いて、撫でて、一寸の下降で離れて舞った。仄かに感じるあたたかい情欲と、目の奥に走る幼い神経が軋む夜。

「俺っち、王サマの眼見んの好きさ。上弦の三日月」

だから笑ってなよ、姫発サンは。俺っちが護っからさ。

煙草を咥えた唇が、独特のこもった吐息と共に笑った。
きっと今、自分の口角が上がっているのは間違いがなくて、ともすれば八重歯が覗く頃。漠然としたそのなにかはすっかり形を潜めていて、代わりに込み上げる気持ちはまだ告げない。
「ナマイキ言っちゃってー、天化ちゃん」
尖らせた軽口の唇と、尖らせた不満の唇は、きっと重なることはない。

護るから。重なる影を抱き寄せて心中に告げた。
いつか、囁く言葉を愛と呼べたら、蠢く正体に出逢うことが出来たなら、その躯のように強くなることは出来ないけれど。抱き寄せて伝えたい気持ちがある。それだけが、今、胸にある確かな月の淡い夜。

end.

2011/03/07
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